第7話 あの目は——獲物を品定めする目だ
火曜日の朝。
目覚まし時計が鳴るより先に、目が覚めてしまう。
会社なんて、心の底から行きたくないのに——。
体だけは、律儀に出社モードへ切り替わっていく。
カーテンの隙間から射す光が、妙に冷たく感じる。
(真面目に社畜をやり遂げて、何になるんだろう)
そんなことを考えながら、ぼんやりと天井を見つめていると。
「おはようございます! 今日も真面目に出勤ですね!」
古谷さんが、テーブルの前で腕を組んでいた。
今日もスーツ姿。幽霊なのに、ネクタイの結び目がきっちりしている。
「朝から元気がいいですね」
「田中さん、今日も一日、頑張りましょう」
そう言う古谷さんの目が、少しだけ心配そうに、俺の顔を覗き込んできた。
(俺、そんな暗い表情してるかな)
「会社嫌だ——っていう表情になってますか」
「真面目な人ほど、そういうものです。心の拒否が、責任感とせめぎ合うんです」
「それ、褒めてます——それとも呆れてます……」
「両方です」
思わず、力が抜けて笑ってしまった。
「社会人の朝は、気合を入れる時間です。戦いの前の心の準備です」
(会社に行きたくない俺——横で朝から励ましてくれる幽霊。なんだこの状況)
***
会社に着くと、すぐに荒木課長が近づいて来た。
かさかさ、と足音が聞こえるようだ。
(油が浮き上がった顔を見ていると、ゴキブリにしか見えないんだが)
「田中くん、昨日の資料だけど、再修正してくれるかな」
持ってるコーヒーの匂いに混ざって、あの独特の臭気も一緒に運ばれて来た。
声は柔らかいが、逃げ道はない。
「今、別の案件に着手しています。……すみません、それはできません」
「大丈夫だ。すぐ終わるから。それと、これもな」
ドサッ……また厚いファイルが机の上に積まれた。
指先が、ファイルを掴んだ荒木の手と、ほんの一瞬すれ違う。
(うわ、地味に嫌だ)
隣の小早川さんが、椅子を少しだけこちらに寄せた。
「田中さん、私、手伝いますよ」
ふわり、と柔らかい匂いが、荒木の残り香を上書きする。
「え、いいんですか? ご自身の仕事は?」
「大丈夫です」
そう言って微笑む。
彼女の明るさが、この会社での唯一の救いかもしれない。
同じ空間なのに、荒木といるときと、小早川さんといるときとでは、吸っている空気の質が、まったく違う。
(俺なんかに、ここまで優しくできるんだろう)
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
***
昼休み。
食堂の窓際で、注文したうどんを食べていると、小早川さんが隣にやって来た。
「そういえば、この前、引っ越したって話されていましたね」
「あ、はい。先週、2LDKのマンションに」
「どうですか、新しい部屋の住み心地は?」
「ご近所さんが、とてもいいひとで……」
「それは良かったですね」
「すごく真面目で、礼儀正しいひとなんです」
(幽霊と一緒に住んでますって言ったら、絶対引かれるな)
小早川さんとの会話が——この職場での、唯一の救いだもんな。
思わず、俺の表情も和らいだ。
彼女が笑うと、周りの雰囲気が少し明るくなった気がした。
その様子を、遠くの席から荒木課長がじっと見ていた。
箸を持つ手が止まったまま、こちらだけを見ていた。
笑っているようで、笑っていない目。
じっとりと、粘つくような視線だった。
まるで、値踏みでもするような。
(会社で、そんな目をしたらダメだろ)
ぞくりと、背中に冷たいものが走った。
あの目は——獲物を品定めする目だ。
嫌な予感がする。
***
水曜から木曜にかけて、仕事はどんどん膨れあがっていった。
営業課のプリンターが壊れても、当然のごとく俺が呼ばれた。
会議資料が必要だと、なぜか俺が印刷を頼まれる。
コピー機の自動ホッチキス留め機能がわからないのが、その理由らしい。
(自分で覚えろ)
古谷さんはというと、部屋と会社を往復しながら、田中に見つからないように、会社の様子を観察していた。
***
金曜の夜。
今夜も小早川さんが、仕事を手伝ってくれていた。
(また小早川さんを巻き込んでいる。俺、ほんとうに情けない)
時計の針が二十二時を回っても、まだ仕事が終わらない。
今日は、なぜか荒木課長もデスクに残っている。
いつもなら、真っ先に帰る男が——。
(嫌な予感がする)
「小早川くん、ちょっと資料の件で……」
荒木課長が、彼女を呼び止めた。
周囲の社員はすでに帰っていて、フロアは静まり返っている。
まるで、狙いすましたような静けさだった。
「えっと、私、もうすぐ帰る準備を——」
「すぐ終わるよ。資料の確認だけだ。そうだ、君の人事評価のことでも……聞きたいことがあってね」
人事評価。
その一言が、どれだけ重いか、この会社にいれば嫌でもわかる。
断れば、なにをされるかわからない。
荒木が近づく。
蛍光灯が、わずかにちらつく。
小早川さんの肩が、わずかに強張るのが見えた。




