第6話 ブラックからホワイトに——
午前十時を過ぎる頃には、次々と『お願い』が舞い込んでくる。
(お願い祭かよ)
後輩からExcelの計算式を直してくれと頼まれ、総務から報告書のグラフを修正してくれと呼ばれる。
(いい加減——自分で覚えろ)
おまけに別部署から『田中さんなら話が早い』とクレーム電話まで回される。
「ミナト精密パーツの田中でございます。この度は、大変なご迷惑を——」
(俺、何屋なんだ——こういうのって、仕事ができるとかじゃないだろ)
キーボードを叩く指が止まった瞬間、ふわりと、いい匂いがした。
さっきまでの、汗とフケ、安い整髪料の匂いとは、まるで別世界だ。
「田中さん、それ、手伝いましょうか?」
背後から、やわらかい声。
振り向くと、営業アシスタントの小早川美咲が立っていた。
二十代半ば。明るい茶髪を一つに結び、きちんとした白シャツが似合う女性だ。
社内では、癒やし系笑顔で有名な美人社員だ。
(あぁ——天使)
荒木のあとに、小早川さんを見ると、ブラックからホワイトに——同じ会社だとは思えない。
天国と地獄が、隣り合わせで存在している気がする。
「え、いいんですか——小早川さんも忙しいのに……」
「大丈夫です。資料まとめるの、得意ですから」
「すみません、すごく助かります」
「田中さんって、いつも頼まれた仕事——断らないんですね」
「いや、断るタイミングを逃しているだけで……」
(はい、ことなかれ平和主義の、優柔不断野郎です)
「そういうの、優しいっていうんですよ」
そう言って笑った彼女の顔を見ていると、胸の奥が、じんわりとあたたかくなった。
さっきまでの不快感が、まるで嘘だったみたいに消えていく。
(救われる——)
***
昼休み。
食堂の隅で、小早川さんが弁当を広げていた。
「田中さん、こっち、こっち」
(癒やし系美女の近くに、俺なんかが行っていいのか)
近づくと、ふわりと、洗濯したてのシャツみたいな匂いがした。
「田中さん、これ食べます——おかず多めに作っちゃって……」
小さなタッパーの中、卵焼きが綺麗な黄色に並んでいる。
「え、いいんですか」
「いいですよ。こういうの、シェアしたほうが楽しいじゃないですか」
「優しいですね。なんか……気持ちが救われます」
「そんな大げさな……」
彼女が笑った。
その笑顔だけで、午前中の疲れが、少し溶けていく気がした。
そのやり取りを、遠くの席からじっと見ている視線を感じた。
荒木課長。
定食のラーメンを、汁まで啜っている。
ズズッ、ズズッ。
音が、やけに大きい。
(ここまで——聞こえてますけど……)
口の端に、スープが跳ねているのに、気づいていない。
その目つきだけは、やけに鋭く、こちらを見ていた。
口の端が、わずかに歪んでいた。
(あの目——嫌な感じがする。面倒なことになりそうだ)
さっきまで感じていた、卵焼きの優しい匂いが、一瞬で遠のいた。
***
午後。
「田中くん、これ今日中に頼むな」
荒木課長が、また書類を抱えてきた。
「これ、新規案件ですよね? しかも、営業三課の仕事ですよね」
「いいじゃないか。田中くんならできる。それに——」
課長は、わざとらしく声を潜めた。
にやにやと、口の端だけで笑っている。
「最近、若い子と仲良いみたいじゃないか。まだ、まだ、余裕があるみたいだな」
視線が、ちらりと小早川さんに向く。
品定めするような、粘つく目だった。
一瞬、空気が凍った。
小早川さんが、隣の席で固まっている。
「そ、そんなわけでは……」
「冗談だよ。若いっていいなぁ——って言っただけだろ」
そう言って、荒木は小早川さんの肩のあたりに、ちらっと目をやった。
(今、舐め回すように見てただろ)
笑いながら去っていく背中が、やけに軽い。
自分が振りまいた不快感の重さなんて、微塵も感じていない足取りだ。
(冗談で済ませるなら、言うなよ! フケもなんとかしろ!)
周りの社員はなにも言わない。
むしろ——。
「田中さん、以外だな」
「モテる人は違うね」
「やっぱ、余裕あるわ」
——と、余計な軽口を叩く。
誰も、荒木の言葉のおかしさには触れない。
まるで、あの発言が普通であるかのように。
悪意がない分、余計に堪えた。
(この嫌な空気ごと、全部、あいつのせいだからな)
***
夜八時。
オフィスに残っているのは、俺と小早川さんだけだった。
蛍光灯の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「すみません、巻き込んじゃって」
「いえ、私も手伝いたくて残っただけですから……」
そう言って笑う彼女の横顔が、蛍光灯の白に浮かんでいた。
疲れているはずなのに、なんでこんなに綺麗なんだろう。
「小早川さん、コーヒーでも買ってきましょうか。奢らせてください、これくらいは——」
「え、いいんですか——じゃあ、甘いやつで」
「甘いやつ、了解です」
(この距離感、ちょっとドキドキするんだが)
自販機まで小走りで向かい、缶コーヒーを二つ買って戻る。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
指先が、ほんの少しだけ触れた。
(え、今の、触れた——触れたよな)
慌てて目を逸らす。
キーボードを叩く音と、彼女がページをめくる音だけが、部屋に響いている。
(こんな時間なら、ずっと続けばいいのに)
そう思った瞬間、ふと現実に引き戻された。
(俺がダメなせいで、小早川さんに迷惑かけている)
胸の奥がずしりと重くなった。
でも、さっきの、ほんの少しの温かさは、まだ指先に残っている気がした。
***
夜十時すぎ。
会社を出ると、外の空気が冷たくて気持ちいい。
「お疲れさまでした」
誰もいなくなったビルの前で、古谷さんが待っていてくれた。
「まさか……見ていたんですか」
「ええ。あなたの働き方を観察しに、ちょくちょく会社と往復していましたから」
「観察しても、面白くなかったでしょ——つまらなすぎて」
「田中さん、良い人すぎです。真面目な人間は、まわりに安心を与えます。でも、安心は、やがて依存になり、依存は搾取に変貌する」
「なんか——深いようで、怖い話になっていますよね」
「私はそれで死にましたから——だから田中さんには、同じ道を歩いてほしくないんですよ」
その声に、ほんの少しの悲しみが混じっていた。
「でも、あの女性。本気であなたを心配してくれてましたね」
「小早川さんのことですね」
胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……いい人ですよね。そういう人間は、大事にしないとダメです」
古谷さんは優しく笑った。
「田中さん、もう一度言います。人生を変える勉強をしましませんか」
「勉強?」
「株式投資の勉強です。自由に生きるために必要な技術です」
(株式投資とか俺にできるのかな)
その夜、布団に入っても、古谷さんの言葉が頭から離れなかった。
(俺、このままじゃダメだ。それだけはわかっている)




