第5話 このおっさん、ほぼすべての仕事を、若手に丸投げしている
翌朝、目が覚めると、枕元にスーツ姿の中年男性が、俺が起きるのを待ちきれない様子で、うずうずしながら立っていた。
「おはようございます。もう朝ですよ、田中さん」
「お、おはようございます」
(新入社員の研修を思い出した。あのときは一斉放送だったな)
「古谷さん、早いですね。ちなみに、幽霊って寝ないんですか」
「寝ませんし、疲れません。だからこそ——ひとりでいた時間が、苦痛で苦痛で……」
一瞬、声のトーンが落ちた気がした。
「部屋のあの辺りで、一晩中プカプカしてたんですか」
「いえ、朝までやってる工事のおじさんとか、徹夜で仕事しているサラリーマンとか見に行ったりするようにしてます」
「確かに、働いているひとを見てれば気が紛れますね」
「それにしても、朝から騒がしくしてすみません。でも、朝の挨拶は大切ですから」
「幽霊に朝の挨拶されるのは、世界で俺だけと思えば。特別感があります」
「ありがとうございます。田中さんが真面目な人で助かりました。改めてこれからもよろしくお願いします」
(古谷さん、ホントに真面目な人だよな)
***
新しい部屋で迎える最初の月曜日。
カーテンの隙間から差し込む光がやけに眩しい。
「今日から、新たな環境で出勤ですね。気持ちが一新するといいですね。昨晩、練習した無茶振り仕事の断り方を実践してくださいね」
「……できるかな」
「まあ、住むところが変われば、気分も変わります。真面目な人ほど変わるものです」
「なるほど、なんか説得力を感じます」
「田中さん、うれしいこと言ってくれますね。帰ってきたら私の真面目論、もっと聞いて下さいね」
(いや、それは……)
***
ホームに立つと、人の波が押し寄せてきた。
扉が開いた瞬間、すでに車内は隙間なく人で埋まっている。
(え、これ、乗れるのか——)
背中を押され、押し返され、気づけば車内の真ん中。
両腕が上がらない。
顔の横に、知らないおやじのハゲ頭。
(俺に、もたれ掛かるのやめてくれ)
「電車、混んでますね。まあ、私は平気ですけどね」
どこにいるのかわからないけど、古谷さんの声がしてきた。
「『部屋から離れられません』って、言ってませんでしたっけ……」
「連続6時間まで大丈夫です。久しぶりに会話で、うれしくなっちゃって、つい、つい」
「姿は見せないでくださいよ。大騒ぎになりますから」
「わかっています」
「そもそも……。俺なんか見学しても、面白くもありませんよ。普通の会社員ですから」
「会社というのは、真面目な人間が最も疲れる場所です。そこを見学してみたいじゃないですか」
(幽霊が乗る満員電車とか笑えるな)
「と、とにかく、ここでは話しかけないでください——」
声を潜めたつもりだった。
でも、満員電車に、雑音なんてない。
みんな無言でスマホを見るか、無言で耐えているだけ。
その静寂の中に、俺のひそひそ声だけが、やけにクリアに響いていたわけだ。
隣のおじさんが、ぎょっとして俺を見る。
(え、聞こえてたか——)
(まずい——)
車内で独り言を漏らし続ける、変な会社員。
(会話の内容も変だしな)
じわり、じわりと、周囲との間に隙間ができていく。
満員電車のはずなのに、俺の周りだけ、少し隙間が。
(そりゃ、そうなるよね)
***
「田中さん、申し訳ありません。私が話しかけたために、危ないひとを見る目で見られてしまいましたね」
「終わったことはもういいです。俺も不用意でしたから……ところで会社までついてくるんですか」
「田中さんの職場を見ておきたくて、昨日の話で、どんな会社なのか、気になったものですから」
「見るのは構いませんが、姿は絶対に見せないでくださいね。それと、社内で話しかけられても、返事はできませんからね。電車の中みたいなことになりますから」
「田中さん、幽霊は耳がいいです。誰にも聞こえないような、本当に小さい声も聞こえます」
「わかりましたけど——俺には、そんなにうまい切り替え、できませんよ。話しかけるのは、周りにひとがいないか、緊急の時だけにしてください」
改札を出ると、人の流れが一気にばらけた。
「田中さん、この辺りは緑も多くて、なかなかいい街並みですね」
「まあ、自分が住んでるわけじゃないので……」
「そうでした。あなたは、通うだけの人でしたね」
「その言い方だと、なんか俺——可哀想な感じがしません……」
信号待ちをしていると、古谷さんが感心したように呟いた。
「あの会社ですね。けっこう大きい会社じゃないですか」
「あの建物全部が、会社じゃありませんから。それに、中身は、もっとこう……」
言葉を選んでいると、古谷さんが先に言った。
「ブラックってことですね」
「……古谷さん、直接的すぎませんか」
そんな話をしているうちに、会社の前に到着した。
「では、私は、黙っていますね」
声はしなくなったが、隣に気配を感じる。
***
会社があるフロアーに着くと、空気がどんより重い。
蛍光灯の光は冷たく、パソコンのファンが唸る音が耳に刺さる。
「田中くん……」
聞こえた瞬間、背筋がぞわっとした。
荒木課長が、コーヒー片手に近づいてくる足音。
(嫌な音——きた来た……)
近くで見ると、ワイシャツの襟元が、微妙に黄ばんでいる。
汗と、安い整髪料の匂いが混ざって、独特の臭気を放っている。
「田中くん、昨日の資料どうなってる」
(近い。息が臭い。あと、髪の生え際に、白いものが——)
五十代半ば、独身。自称、現場主義。
だがこのおっさん、ほぼすべての仕事を、若手に丸投げしている。
(現場主義じゃなく、ご都合主義だろ)
「修正版、朝一でメールしましたけど」
「お、そうか。助かるよ。じゃあこれもついでに頼むな」
分厚いファイルを、どさりと机に置いた。
指先が、ファイルの角にわずかに触れた。
(うわ、爪の間に、なんか黒いのが——見なかったことにしよう)
「え、これ別部署の案件じゃないですか。すみません、それはできません」
(よし、古谷さんに教わった断り方——使ってやった)
「似たようなものだろ。田中くんは——仕事が早いだろ」
(スルーすんな)
荒木課長はにやりと笑い、去っていった。
今日も、後頭部に浮き上がるフケが、蛍光灯の光でキラキラしている。
(頭、洗ってんのかよ。てか、そのフケ、俺の机にも落ちてくるんだけど)




