第8話 下っ端の俺には、奴を抑え込めるだけの力がない
金曜の夜。
荒木や小早川さんからは見えない位置に浮かんでいる古谷さんが、拳を握りしめていた。
荒木が、小早川さんの肩に手を置こうとした瞬間。
「課長!」
俺の声がフロア全体に響いた。
自分でも驚くくらい、気迫のこもった大きな声だった。
(行け! 田中さん……)
古谷さんが手で合図する。
「資料でしたら私が確認します! 見せてください」
震えていた。
悔しさか、恐怖か、それとも両方か。
でも、はっきりと、意思表示ができた。
荒木の顔が、一瞬、露骨に歪んだ。
『はい』しか言えない男に、獲物を横取りされるなんて——という顔だった。
チッと舌打ちが聞こえた気がした。
荒木は、置こうとした手をゆっくりと引いた。
「大きな声を出したりして、なんか勘違いしてないか……」
その陰険な笑顔に、空気が凍りついた。
荒木はそそくさと帰っていく。
背中に、これっぽっちの反省も見えない。
(勘違い? そんなわけないだろう)
温厚な古谷さんが怒っている。
「田中さん。あの手の人間は、必ずまた同じことをします。次は、もっと巧妙です」
(そうだけど、下っ端の俺には、奴を抑え込めるだけの力がない。情けない)
***
土曜の昼。
休日出勤の営業フロアは誰もいない。
もちろんサービス残業。お金にならない自主出勤。
誰も見ていないのに、押し付けられた仕事を片付けている自分が、滑稽に思えてくる。だが、やっと資料の最終版を整えるところまできた。
そこに古谷さんが現れた。
「田中さん。あなた、今日も働いているんですか」
「昨日の件です。荒木のやつが気になって——さっさと終わらせないと、小早川さんに迷惑がかかるかもしれないですから」
「今日は土曜日ですよ。休日です。あなたが休むはずだった時間を、会社に差し出しちゃダメです」
「でも……」
「今週だけで、何時間、無給で働きましたか?」
「え……」
数えてみようとして、やめた。
数えたら最後、なにかが壊れそうな気がした。
「優しいですね。でも——いつまでこんなことを続けるのですか。このままで、あなたはいいんですか」
「……」
「田中さんが、ただ、ただ、すり減っていく姿は、見ていられません。株式投資をやりませんか」
「また、その話ですか」
「真面目な人間が、真面目に働いても報われない。そんな、報われない会社にいる必要があるのですか? 人生の無駄じゃないですか」
「生きていくためには、会社に勤めて、給料をもらわなきゃしかたないんです! 会社員は誰も似たりよったりのはずです」
「本当に、そうですか?」
古谷さんの声が、少し低くなった。
「似たりよったりって——休日を返上して、誰にも褒められず、誰にも感謝されず、ただ黙って搾取され続けているんですよ。それを、普通のことだと思わないでください」
「……」
「生活のため、給料のため、嫌な会社にしがみつく——本当に、今のままでいいと思っていますか」
「思っていません……けど……」
自分でも驚くくらい、素直に本音が出た。
「なら、変えましょう。自分を解放してあげてください。自由になりましょう」
***
日曜の朝。
外は久しぶりの快晴。
テーブルには、真剣な顔をした古谷さんがいる。
「田中さん。株式情報サイト、どこでもいいです、スマホで開いてください」
「え、いきなりですか——まだ心の準備が……」
「準備している間にも、世界の株価は動いていますよ」
「そう言われても……」
渋々、スマホを開く。
「いろんな会社の株価が、何%上がったとか、下がったとか表示されていますけど。俺には、数字の羅列にしか見えませんよ」
「この数字には、ひとの欲望と希望が詰まっています。つまり、数字は人間の感情そのものなんです」
「数字が、人の感情を表すとは面白いですね」
「感情が入らなければ、株価は上下に揺れ動きませんよ」
そう言って、古谷さんが静かに笑った。
「田中さん。本気で株式投資を学びましょう」
「いや、でも、失敗したら怖いですし。それに、投資の勉強って、時間がかかりそうですし……」
「田中さん」
古谷さんの声のトーンが、一段落ちた。
「あなた、さっきから『でも』と『ですし』しか言っていません」
「え……」
「怖いのはわかります。でも、怖がって何もしないまま、あと何年、同じ生活を続けるつもりですか」
その一言に、言葉を返せなかった。
(また、いつもの癖が出た。考える前に、できない理由を並べる癖)
古谷さんの声が、俺の心に、まっすぐ響いた。
「わかりました。やります。絶対やります」
自分の口から、はっきりとそう言えたのは、これが初めてかもしれない。
転機がきたのかもしれないと思った。




