第37話 NSG本社の人事戦略室に来ませんか
「田中さん、退職後は、どうされるおつもりですか」
唐突に切り替わった話題に、少しだけ体が強張った。
でも嘘はつけないと思った。
「自分の会社を作ろうと思っています」
口にした瞬間、胸の奥がじわっと熱くなった。
初めて、自分の言葉として 現実味を帯びた気がした。
「まだ準備はこれからです。他人の都合じゃなく、自分の判断で働ける場所が欲しいんです。小さくてもいい。自分の責任で、真面目に仕事ができる場所を作りたいと思っています」
その横で、小早川さんが、そっと息を吸った。
「田中さんの会社なら——私、雑用でもなんでもやりますから」
控えめなのにまっすぐな声だった。
「ほう……」
加賀谷の目尻が、わずかに和らぐ。
「それは心強い。創業期に、これほど信頼できるパートナーがいる——田中さん、幸せですね」
「えっ、パ、パートナー——」
小早川さんの耳が、一瞬で桜色に染まった。
慌てて俯く彼女を見て、思わず胸の奥があたたかくなった。
***
そこまで話すと、加賀谷はふっと表情を引き締めた。
軽やかだった空気に、わずかな緊張が走る。
「実はですね、田中さん」
「はい」
「『NSG本社の人事戦略室に来ませんか』と、お誘いするつもりだったのですよ」
「……えっ」
心臓が一瞬、止まった気がした。
想像の範囲を、軽く三周はみ出していた。
「最初に噂話を伺った時点では、正直、半分は疑っていました。しかし調査を進めるほどに、あなたの話が、ただの噂の寄せ集めではなく、複数の断片を正しく理解し、構造として捉えた上で語られていたとわかってきまして」
「そんなに——だいそれた人間では……」
(たいしたことがあるのは、調べてくれた幽霊、古谷さんです)
「現場の声から線をつなげ、全体像を描ける人間は多くありません。NSGの岩城社長も、あなたの報告資料を読んで——欲しい人材だとおっしゃっていました」
「しゃ、社長が——」
胸の奥が、じわじわと熱を帯びていく。
今まで、誰かに評価された経験なんて、ほとんどなかった。
その『欲しい人材』の一言が、涙腺をぐっと刺激してくる。
(いや、ここで泣いたら最高に恥ずかしい)
加賀谷は続けた。
「人事戦略室というのは——情報を集め、整理し、読み解く分析能力が命です。申し上げにくいのですが、そこを担える人材は、今のNSGには決して多くありません」
室内の空気が、静かに落ち着いた温度に変わる。
「ですが——田中さんには、田中さんの歩くべき道がありますからね」
「お声がけいただけただけで、本当に——光栄です。でも、自分の会社を作る道——そこにチャレンジしてみたいと思っています」
加賀谷は目を細めた。
「そう言うと思っていました」
まるで、生徒が答え合せに正解した時の教師のように、
どこかうれしそうで、どこかほっとしたような笑みだった。
***
「そこで——ひとつ、提案があります」
「提案——ですか?」
「会社を作られるのであれば、企業調査を事業内容に含めておいてはいかがでしょうか」
「企業調査ですか——?」
「今回の件でも痛感しましたが、NSGのような大企業では、社内の人間だけではどうしても見えない部分が生まれます」
少し間を置いて、加賀谷は続けた。
「かといって、大手コンサルでは、精密ですが『上の絵』しか描けません。現場のざらついた声を拾えるのは——田中さんのようなひとだと思います」
淡々とした口調なのに、言葉のひとつひとつが鋭い。
「その間を埋められる外部パートナーが、実はどの組織にも不足しているのです」
「それを——?」
「田中さんには『現場を知る目線』と『構造を読む俯瞰』が共存している。それは非常に珍しい能力です。そして——」
一度、加賀谷は小さく息を吸った。
「それに……あなたは真面目で誠実だ」
「……真面目が、役に立つんですか」
「立ちますとも」
迷いなく即答だった。
「真面目な人間は、不正の温度に流されない。企業調査を任せるには、なによりそこが重要なのです。NSG、そして関連会社には——お恥ずかしい話ですが、まだまだ火種があります」
少し言いづらそうに視線を落とし、それからこちらを見据えた。
「正式に会社を立ち上げられたら、いくつかの調査案件を——お願いしたいと思っています。もちろん、調査料は応分にお支払いします。会社の運営に、困らない程度の金額は保証します」
その瞳は終始、真剣だった。
胸の奥で、静かになにかが形になる。
(企業調査——か)
頭の中に、次々と映像が浮かんできた。
ミナト精密パーツのような会社で、声を上げられずに苦しむ社員。
不条理な職場で、誰にも届かないSOSを出している社員たち。
(外にいる立場から、そういうひとを助けられるのかもしれない)
胸の中心に、小さくて強い熱が灯った。
自分の道が、ゆっくりと輪郭を帯びていくのがわかった。




