第38話 面白い会社になりそうじゃないですか
人事部・会議室。
加賀谷が田中の方を見た。
「それと、もうひとつ」
「まだ、なにか……」
「田中さん。投資についても——造詣が深いみたいですね」
「え……」
「田中さんが人事に提出された『退職にあたりの所感』の中に、資産形成の考え方が少し触れられていました。持株制度の使い方、退職金運用の案、資産形成の基本的な組み立て……。どれもズレがない。あれは、独学ですか?」
「ま、まあ……趣味で少しずつ勉強しているだけです」
(『幽霊に、みっちり夜間講義を受けています』なんて言えないし、言わない)
加賀谷は、淡い笑みを浮かべながら続けた。
「企業調査と資産運用——この二つを扱える会社は、日本にほとんど存在しません。しかも、需要は確実にあると思います。企業の健康診断と、個人の資産の処方箋を同時に提示できる存在は、これから有望だと思います」
その声には、冗談ではなく——未来を見ている人間の響きがあった。
「もちろん、当社としては企業調査の方をお願いしたいのですけど。資産運用を絡めた会社を作るのも悪くないと思いますよ。きっと面白い会社になるのでは……」
胸の奥が、ぐっと跳ねた。
考えるより先に、言葉がこぼれていた。
「……やってみたいです」
その瞬間、横で小早川さんの表情がぱっと晴れた。
「なんだか——本当に、すごい会社になりそうですね」
「まだ、なにも決めてませんよ」
そう笑いながらも、胸の底では——たしかに歯車が回り始めていた。
未来の音が、静かに鳴り出した気がした。
会議室を出る前に、加賀谷が名刺を差し出した。
「正式に会社を立ち上げたら——ここに連絡をください」
「……はい。必ず」
名刺を両手で受け取りながら、
その重みを、指先で確かめた。
(これは——ただの紙じゃない。人生の次のステージへの招待状だ)
***
ビルのエントランスを出た瞬間、夕方の風が、ひどく澄んだ冷たさで頬を撫でた。
振り返れば、ガラスの外壁に会社のロゴがぼんやりと映り込んでいる。
(ここでは、真面目なだけの消耗品だったな。でも——今日で、全部終わりだ)
胸の奥で、小さくなにかが解けていく。
隣で、小早川さんが、そっと息を吐いた。
「田中さん、本当に——終わりましたね」
「終わりであり——次のステージの始まりです」
言葉にして、自分で少し驚いた。
(今までの自分なら、絶対言わないセリフ——成長したかな、俺)
心のどこかが、前へと踏み出している気がした。
「ミナト精密パーツの玄関は、今度は調査する側として潜ることになったりして……」
冗談めかして言ったつもりだが、胸の中には現実味も、ほんの少し混じっていた。
小早川さんは、くすっと笑った。
「そうならないことを祈りたいですね」
「もちろんだよ。俺たちは——自分たちの生きる場所を、しっかり作らないと……」
言葉を返す間もなく、彼女はまっすぐ俺を見て言った。
「はい」
その一言は、風より静かで、どんな約束よりも強かった。
ビルの灯りが、ゆっくりと街に滲んでいく。
その光を背に、俺たちは歩き出した。
もう、消耗品じゃない。
ここからは、自分が人生の経営者だ。
***
マンションの部屋に戻ると、古谷さんが、聞いてましたよ——という表情で立っていた。
「田中さん。加賀谷さんと、ずいぶんと——面白い相談をしてましたね」
「聞いていたんですか……でも、面白い人生が待っていそうです」
「確かに、そうですね」
古谷さんは、少しだけ姿勢を正した。
「企業調査と、資産運用ですか」
「はい。古谷さんがいてくれれば、きっとなんとかなります……。『過労死した幽霊』と『やっと人生を取り戻した若者』のコンビ——なかなか、面白い会社になりそうじゃないですか」
古谷さんの顔が厳しくなった。
「田中さん。ひとが組織を作っていきます。優れた組織になる場合もあれば、腐った組織になる場合もあります。ミナト精密パーツですが、今回の事件が風化した頃——また同じことが起きる可能性があります」
古谷さんが続けた。
「なぜだと思いますか」
「入社する人材の問題ですか?」
「違います。ミナト精密パーツはNSGの部品調達を業務にしている会社です。田中さんがいた営業は、仕入れた部品の販路を開拓しなくても、売り先をNSGだけに絞れば、部品を納入したい会社と、価格や納期の調整だけやっていればいいからです」
「つまり、頑張らなくても会社はやっていけるからだと」
「そのとおりです。社員が努力しなくても、会社が存続できてしまう。そうなると、面倒な仕事は部下に押し付けて、勤務時間中にホームページでショッピングとかできますからね」
「実際、そうしていましたしね」
「ミナト精密パーツは、恵まれた会社だと言えます。だからこそ、腐りやすいともいえます。まあ、そういう会社は世の中にごまんとあるでしょう」
古谷さんは続けた。
「だからこそ——『それは、おかしい』と声を上げるひとが必要なんでしょうね」
胸の奥で、ひそかに火が灯った。
「そうですね。これから作る会社で、世の中の役に立つことをしたいです」
古谷さんは、心底うれしそうに笑った。
「田中さん。私も、大いに協力します。仲間として付き合ってくれるのは、あなただけですから」
そして、穏やかに続けた。
「では――明日もまた、真面目に、誠実に、生きていきましょう」
その言葉が、なぜか胸の奥にじんわり染みた。
気づけば、自分も笑っていた。
静かな夜の中で、
まだ形を持たない、これからの輪郭だけが、ゆっくりと、しかし確かに浮かび上がってきていた。




