第36話 組織を動かすのは、ルールではなく人間ですから
昼休み。
食堂で簡単にうどんを食べながら、俺はふと、食堂全体を眺めた。
昨日までの重い空気感が和らいでいる。
(でも——そのうち第二の西垣みたいなのが現れるかもしれない)
そんなことを思っている自分に、自分で驚いた。
これまでは『命令されれば黙って従い、少しでも会社の役に立つ』というのが、自分の役割だと信じていた。
しかし今では『会社は人が作り上げるものだ』ということがよくわかった。
どんなに立派なルールを作っても、それを運用するのは人間だ。
いつか、また誰かが、隙をついて同じことを繰り返すかもしれない。
光と影は、いつだって表裏一体なのだろう。
***
勤務時間の終わりが近づいてきた頃。
机の中も上も、きれいになっていた。
スッキリしたという気持ちと、これでこの会社とお別れだという気持ちが絡み合い、複雑な気持ちだ。
(よし——この会社で、俺がやることは全部終わった)
「田中さん」
振り向くと、小早川さんが立っていた。
「そろそろ、加賀谷さんに、ご挨拶に行きませんか」
「ああ、そうですね。お世話になりましたからね」
「人事部は——今、すごくバタバタしていて、ご迷惑かもしれないですけど」
「それでも、顔だけは出しておきましょう」
不意に、古谷さんの声がしてきた。
「田中さん、なんだか卒業式の後で、先生に挨拶に行く生徒みたいですね」
(いや、古谷さん、それとは違うけど)
二人で営業のフロアを出る。
背中に、いろんな視線が刺さるのを感じた。
「うまく辞めたよな、あの二人……」
「転職先、もう決まってるんじゃないの……」
「羨ましいよな——こっちは、まだこの地獄に残るのに……」
そんな声が、聞こえるか聞こえないかのボリュームで、後ろから追いかけてくる。
(好きに言ってろ!)
(俺は、使い捨ての真面目くんとして生きるのは終わりにする。さようなら)
***
人事部のフロアは、予想通り戦場のような慌ただしさだった。
忙しない電話での応対、コピー機の稼働音、書類の束があちこちに行き交う。
「あの……」
「すみません、少々お待ちください!」
女性が、汗を浮かべながら電話応対している。
「田中直人と申します。退職の件でお世話になった——NSGの加賀谷さんに、一言お礼を言いたくて……」
加賀谷の名前が出た瞬間、彼女は一瞬だけ目を丸くし、それから奥に向かって駆けていった。
ほどなくして。
「お待たせしました。どうぞ、こちらへ」
灰色のスーツ姿の加賀谷が、落ち着いた足取りで現れた。
「やあ、どうされました」
「お忙しい所、お時間を取らせてしまい、申し訳ありません」
「そんなことはありませんよ。お二人には、私の方こそお礼を申し上げたいところですから」
柔らかい笑み。
けれど、目の奥だけは、やはり鋭い。
「少しだけ、会議室でお話をしましょうか」
***
人事部・会議室。
テーブルを挟んで、俺と小早川さんが並び、その向かいに加賀谷さんが座った。
「改めまして。今回の一連の件——迅速に対応できたのは、お二人からの情報のお陰です」
「いえ、そんな——俺たちは、ただ身の回りで起きていたことを話しただけで……」
「それが難しいのですよ、普通は……」
加賀谷は、静かに言葉を続けた。
「多くのひとは、『見て見ぬふり』を選びます。あるいは声を上げても、途中で諦めてしまう。今回、あなた方がきちんと話してくださらなければ、ここまで深く踏み込むことはできませんでした」
小早川さんが、そっと俯いた。
「私も——怖かったです。でも、田中さんが助けてくださったから……」
「田中さんに感謝ですね」
加賀谷が、わずかに目を細めて俺を見る。
「あの——この会社は、これからどうなるのでしょうか」
俺は気になっていたことを、そのまま口にした。
加賀谷は、一度だけ小さく息を吐き、言った。
「会社は継続します。ただし、ルールの厳格化は徹底されるでしょう。調達プロセスの見直し、監査ラインの強化、ハラスメント窓口の改善。良い会社になっていくと思います。しばらくはですけど……」
「しばらくは——ですか」
「ええ」
その答えは、予想していたものと同じだった。
「組織を動かすのは、ルールではなく人間ですから。ルールを守るのも、破るのも社員しだい。今回のような不正は、形を変え、場所を変え、何度でも顔を出すでしょう」
(……古谷さんも、同じこと言っていたな)
心の中で、思わず苦笑した。
「ただ——」
加賀谷は続ける。
「今回の件で、少なくともこの会社は、一度は再生の機会を与えられた。そこは、重く考えなければならないでしょう。これから先、生き残れるかどうかは——残る人たちしだいです」
***
少し間をおいてから、加賀谷は声を落として言った。
「ここからの話は、会社の機密漏えいになるので、本来は言えないのですが、情報通の田中さんなら、すでにご存知かもしれないですし、お世話になったのでお話します。もちろん、口外無用でお願いしますね」
「わかりました」
思わず背筋が伸びる。
「今回の調査で、牧原社長は処分されましたが、牧原社長に裏金作りを指示していた、NSG本社の大槻専務には処分は及びませんでした」
「そうなんですか……」
言葉が、すぐには出てこなかった。
人事の正義なんて、現実社会では幻想なのか——そう思い知らされた。
「牧原社長が、最後まで大槻専務を庇いましたからね。『すべて自分の独断でやったことであり、専務の関与はなかった』と主張しました。恐らくですが——牧原社長には再就職先が用意されたのでしょう。暗黙の取引というやつですね」
(腐ってる。NSG本体も——)
喉の奥が、ゆっくり熱くなる。
「NSGの調達機能を移管されたこの会社は——こっそり裏金を作るには、実に都合がいいのです。今回の件でしばらくは大人しくなるでしょうが、また同じようなことが仕掛けられる可能性は高いと見ています」
(結局——大企業も、ひとが作って、ひとが壊すんだな)
心の中で、そっと呟いた。
「そうそう、田中さん——もう一つ話があります」
俺の胸が、微かに跳ねた。




