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過労死寸前だった営業マン、幽霊を味方に成り上がる  作者: ゲンタ
第1章 ミナト精密パーツ 営業マン

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第35話 でも私、田中さんの会社の社員になるんですよね

朝がきた。

目が覚めて、まず思ったのは——静かだな、ということだった。


荒木の顔も、西垣の声も、もう頭に浮かんでこない。

裏金にまみれていた連中も、みんな会社を去った。


(あんなに嫌だった顔ぶれが、会社にいないのか)


不思議な感覚だった。

胸のつかえが取れているはずなのに、なぜか、すっきりしない。


退職届は、もう出した。

有給消化に入れば、会社に行くのも、あとわずか。

普通なら、今頃は解放感でいっぱいのはずだ。

なのに、なんで会社のことばかり考えているのだろう。


(俺、もう関係ない)

そう自分に言い聞かせても、頭の片隅には、いつもあの会社がある。

胸の奥に残っているのは、もう怒りではない。


もっと、別のものだ。

(見届けてからじゃないと、次に進めない)

そんな妙な責任感だった。


テーブルの椅子に腰掛けた古谷さんが、いつもの整ったスーツ姿で、まっすぐこちらを見ていた。

「田中さん。よく眠れましたか」


「社内での出来事がフラッシュバックするたびに、気持ちが昂ぶって——眠れたのかどうかわかりません」


「そうでしょうね。昨日は、心で消化すべき情報量が多かったですからね」

古谷さんは、いつもの柔らかい笑みを浮かべている。


「今日は、会社がどうなるのか——しっかり見届けましょう。あなたの気持ちに、きちんと区切りをつけましょう」


「辞める会社のこと、ここまで気にする必要あるのかなって、自分でも思います。妙な性格ですね」


「真面目な人って、扉を閉めたあとでも『鍵——閉めたかな』って気になる生き物なんです。ちゃんと確認しないと、次の場所に、心から向かえない。会社も、人生も、同じですよ」


(納得できるな……)

ネクタイを締めながら、ふっと笑ってしまった。


***


会社に入った瞬間、昨日までの騒然とした空気は、かなり落ち着いていた。


「おはよう、ございまーす」


「……お、おはよう」


(挨拶は一応返ってくるようだ)

ただ、その声のトーンが、いつもより半音低い。


まあ、懲罰辞令メール二連発の翌日だしな。

それで終わりかどうか——みんな心配なんだろう。


席に向かう途中、ひそひそ声が耳に入る。

「新しい部長代理、課長代理の昇格情報——聞いてる?」


「聞いたよ。あの人らだよな。年功序列——妥当というか無難というか……」


「親会社からも、管理職が何人か出向してくるらしいよ……」


俺は、PCを立ち上げる。

朝一の全社員一斉メールが目に飛び込んできた。


——【人事に関するお知らせ】


社長代理、部長代理、課長代理。

見慣れない名前も混じっている。

数ヶ月すれば、代理が取れるんだろうが、確かに年功序列型の昇進だ。


(新しい管理職が決まるということは、会社は継続するんだな。少し安心した)


散々、辛い目に遭ってきたのに、そんなことに安心している自分は、お人好しすぎるのかもしれない。


***


自席に座ると、『仕事の押し付けは先輩の役得』みたいに振る舞っていた先輩たちが、珍しく仕事をしていた。


(しっかり働いてますって、アピールしてるつもりなんだろう——姑息すぎる)

(ま、しぶとく生き残って下さい)


「田中くん、おはよう」

その中の一人が、ぎこちなく声をかけてくる。


(今更かよ!)


「おはようございます」

(あいさつだけは、返しておくけどな)


「えっと——退職の手続きは進んでる」


「今日、最終確認して、明日から有給に入る予定です」


「ああ……そう……」

気まずそうな笑顔。


(ここは、『今までお疲れ様でした』が、おとなの挨拶だろ)


『俺をスケープゴートにして、うまくいったぜ』とでも言いたげな顔をしていたくせに——今度は一転、フレンドリーアピールか。

いや、これのどこがフレンドリーなんだよ。


(安心しろよ、告げ口なんかしない。あんたらと一緒にされたくない)

(それに——今さらそんな面倒なこと、する気もないよ)


苛立つ心を抑え込んでいたら、古谷さんの声が聞こえてきた。

「田中さん、距離をおきましょう。言葉を交わせば、狡く利用されるだけです」


「そのとおりですね」


そんなことより片付けだ。

次に使う人が嫌な気持ちにならないように、机を綺麗にしなきゃな。


自分の机の引き出しを開ける。

書類、メモ帳、古びたボールペン。

仕事の道具たちを、一つひとつ片づけていく。


(この席に座って、何回ため息ついたことか)

そんなことを考えながら、妙な懐かしさを感じた。

隣では、小早川さんも片付けをしていた。


***


午前中のうちに、小早川さんとともに人事へ呼び出される。

「退職日と有給消化の件ですが——」


いろいろな手続き書類の説明が淡々と続く。

俺は明日から有給消化に入るつもりだ。


「田中さん、有給を少ししか使われていませんね」


「はい——まあ、そうですね……」

(ていうか、有給を使えないほど、こき使ってくれたからだろ)


「小早川さんも、有給がまるまる残っていますね。お二人とも、退職日までにすべて消化してください」


「そ、そんなに——いいんでしょうか……?」


「当然の権利です。遠慮なくどうぞ」


人事担当は、これまでとは別人のように丁寧だった。

上から相当きつく言われたんだろう。

(当たり前なんだけどな——)


部屋を出る途中で、ふと振り返る。

コピー機の横で、人事の職員たちが慌ただしく動き回っている。


懲戒処分の後始末、新体制の準備、労基署対応、顧問弁護士との連絡——今は、この部屋が会社の最前線だ。


(ご苦労さまです、とだけ思っておこう)


***


席に戻ると、小早川さんが、少しホッとした顔で近づいてきた。

「田中さん、私、有給、全部使っていいみたいです」


「それ、当然の権利ですよ。むしろ、今まで使わせてもらえなかったのが、おかしいんですよ」

(まあ、ちょっと前までは、そんなこと言えるような人間ではなかったけどね。ただの社畜だったから)


「ですよね——なんか、まだ信じられなくて」

そう言って、少し照れたように、髪を耳にかける。

その仕草が、やけに可愛らしくて、目のやり場に困った。


彼女は、それから真剣な顔で続けた。

「田中さん、明日から来なくなるんですね」


「はい。有給に入ります」


「……さびしいです」


一瞬、視線が揺れる。

でも、すぐに、まっすぐこちらを見て、続けた。


「でも私、田中さんの会社の社員になるんですよね」


その言葉に、胸が少しだけ締め付けられた。

「もちろんです。約束ですからね。でも準備がありますから、会社の登記とか終わったら連絡しますね」


「はい」


本当にうれしそうに返事をしてくれた。

まっすぐな瞳、少し上がった口角。

隠しきれない喜びが、そのまま顔に出ていた。


(もちろん俺もだけど)


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