第33話 このままだと、会社そのものが崩れる
昼休みが終わった途端……一斉メールの通知音が鳴り響いた。
件名
——【重要】社員の懲戒処分について
どの席でも同じ動きが始まる。
マウスが一斉にクリックされ、フロア全体が音を失った部屋みたいに静まった。
そして——本文を読んだ瞬間。
ざわっ。
ざわ、ざわっ。
社内が一気に色を取り戻したようにざわめき始めた。
「え、これ……」
「まじか……」
「こうなるのか……」
画面には、部署名と個人名が、淡々と、しかし容赦なく並んでいた。
● 総務課 西垣久美——ハラスメント行為への関与を理由に、自主退職
● 関与が確認された社員 〇〇、〇〇、……、調査の上、個別に処分検討
理由はどれも短い。
不適切な行為に関与となっている。
だが、その短い文言が逆に重かった。
処分メールが届いた直後から、フロアのあちこちで、椅子を立つ音がし始めた。
トイレ、給湯室、喫煙所——誰もが、なにかしらの理由をつけて席を離れていく。
情報を集めに動いているのだ。
十分もすると、今度は逆流するように、断片的な話が戻ってきた。
「西垣さんが、女子社員をたくさん辞めさせた年があったわよね。その子たち、訴訟の準備をしているらしいわよ……」
「人事で、示談の話を進めているらしくて……」
「退職金のほとんどが、示談金として払われるみたい……」
誰が最初に言い出したのかもわからない。
でも、それぞれの話の端々が、驚くほど一致していた。
(噂の出どころはわからないけどな)
静まり返ったオフィスに、その噂話だけが広がっていく。
小早川さんは、胸元をそっと押さえ、唇を震わせながら口を開いた。
「よかった——本当に……よかった」
涙をこらえながらの笑みだった。
安堵が、身体の奥からふわっと抜けていくような表情。
周囲でも、小さく、しかし確かな声が漏れる。
「辞めさせられた女子たち——救われるな……」
「酷いことやってたもんな。自業自得だろ……」
「いつかこうなると思ってたわ……」
(昨日までは、西垣の名前が出ただけで、みんな声を潜めてたくせに——)
急に正義感を取り戻したような口ぶりに、少しだけ苦い気持ちがよぎる。
でも、それを責める気にはなれなかった。
俺も同じだったから、黙るしかなかった気持ちも、痛いほどわかる。
——やっと、終わった。
(よかった。本当に)
胸の奥で、ようやく張り詰めていた糸が切れた気がした。
***
そのとき——。
ざわめくフロアの中で——古谷さんの声が聞こえてきた。
「田中さん——これで半分です」
「管理職ですね」
古谷さんは淡々と続けた。
「そうです。西垣さんは、言うなれば——前菜です。社長、部長、それから部長の腰巾着たち。そのあたりが、メインディッシュです」
「大槻の妨害がなければ、いいですけど」
「田中さん。一つ、心配なことがあります」
「なんですか」
「西垣さんだけを血祭りにあげて、幕引きにする——そういう会社は、実はいちばん多いんです。わかりやすい悪役を一人差し出せば、会社の膿を出しきったふりができますから」
(それって——)
「もし社長や部長の処分が、うやむやにされたまま終わったら、この会社の押し付け体質は変わりません。裏金の構造がそのまま残れば、協力会社への年貢徴収も続きます」
(年貢徴収——か)
以前、古谷さんから聞いた話が頭をよぎる。
年貢のように吸い上げられる、キックバック。
それに耐えかねた協力会社が、納品する部品の品質を落とし始めていた、という話。
「あれ、致命的にまずいですよね」
「はい。致命的です」
「じゃあ、西垣さんだけ切って終わったら——」
「NSGの製品の品質は、これからも落ち続けます。いずれ、大きなクレームか、事故に繋がってもおかしくないでしょう」
胸の奥が、すっと冷たくなった。
(社員の誰かが壊される——なんて話じゃない)
(このままだと、会社そのものが崩れる)
「次のメールが、送られてくるかどうかが、分かれ道です」
「さっきのメールは、西垣さんと、その仲間だけでしたからね」
古谷さんは、ゆっくりと頷いた。
「そのとおりです。真の腐敗は、いつも一段上にあるものですから」
胸の奥が、静かに熱くなった。
***
(そういえば——社長と部長は、どうなったんだろう)
そう思った瞬間、古谷さんの声がしてきた。
「田中さん。ちょうど今、加賀谷さんが、社長室に乗り込んだところです。見ますか?」
「——お願いします」
視界がふっと揺れ、社長室の光景が流れ込んできた。
***
社長室。
牧原は、椅子にふんぞり返ったまま、加賀谷を睨みつけた。
「こんなことをして、ただで済むと思っているのか」
「ただで済む、とはどういう意味でしょう」
加賀谷の声は、変わらず穏やかだった。
「協力業者からのキックバックは、どなたかの指示で行われたということですね」
「そんな、はずないだろう」
「そうですか。では、あなたが背任行為に関与したことは、お認めになるんですね」
「証拠があるのか」
「もちろんです。私が、証拠もなしに、この会社に来たと思っていますか」
「そんなことは、知らん」
「あなたが協力業者にキックバックを強要したせいで、納入部品の品質が急低下しました。それを組み込んだNSGの製品に、以前から顧客クレームが相次いでいます。このまま放置すれば、どうなるかおわかりですよね」
牧原の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「そ、それが、どうした」
「あなたの行為は、単なる社内不祥事ではありません。NSG本体の経営そのものを揺るがしかねない、背任行為です」
牧原は、崩れ落ちるように、椅子の背にもたれかかった。
加賀谷は、それ以上なにも言わず、静かに社長室を後にした。
視界が、ふっと揺れた。
「田中さん、このまま加賀谷さんについていきますね。たぶん、山城部長のところだと思いますから」
古谷さんの声とともに、景色が切り替わっていく。
「古谷さん、よろしくお願いします」




