第32話 毒花が——ついに、根ごと抜かれたのか……
朝がきた。
古谷さんの言うとおりなら、今日、会社に嵐が吹き荒れるはずだ。
(その嵐が、この腐りきった会社を、根こそぎ吹き飛ばしてくれればいい)
少し前まで、ただ流されるだけの社畜だった。
それが今は、こんなにも冷静に、この会社を見下ろせている。
(職場の重苦しい空気になんて、もう簡単には押し潰されない)
守りたいものが、できたからだろうか。
自分でも驚くくらい、芯の部分が強くなった気がする。
テーブルの椅子に腰掛けた古谷さんが、いつもの整ったスーツ姿で、じっとこちらを見ていた。
その視線は穏やかだ。いつも俺を見守っていてくれる気がする。
「田中さん。会社がどうなるか、しっかりと見届けましょう」
「そのつもりです。ただ、ひょっとしたら嵐は、来ないのではという不安もあります」
古谷さんは穏やかに答えた。
「それも十分あり得ます。NSGの大槻専務が圧力をかけ、なにも起きない日にしてしまうかもしれません。もしそうなっても、しっかりと見届けましょう」
俺は深く息を吸った。
胸の中心に、小さくて固い芯のような決意が宿る。
なにがあっても、小早川さんは守る。
それだけは、絶対に揺らがない。
***
会社に足を踏み入れた瞬間、昨日よりも、はっきりとした空気のざわつきが肌にまとわりついた。
ざわざわ……。
ささやき声は、昨日より鋭く、重い。
「西垣さん——人事に呼ばれているらしいぞ……」
「しかも、親会社の加賀谷ってひとが同席って……」
「え、加賀谷さんって——怖いひとなの……」
確信のない噂が、渦のようにフロア中を巡っていた。
チラチラと俺に視線が注がれた。
視線を無視し、席に向かうと、小早川さんと目が合った。
その表情は、不安を隠しきれていない。
「田中さん、なんか今日——異様ですよね。誰も仕事してませんよ」
俺は声のトーンを落として言った。
「もう仕事は気にしなくていいです。今日は、会社がどう動くかを見ましょう。なにがあっても——あなたを守りますから」
その一言で、小早川さんの肩がわずかに震え、胸に抱えた書類をきゅっと握りしめた。
耳までほんのり赤い——緊張か、あるいは……。
***
そのとき——。
「おはよう、辞める組のお二人さん!」
背後から、背筋に冷たいものが走る声が落ちてきた。
西垣だ。
昨日までと明らかに違う。
笑っている口元に対して、目の奥だけがギラついている。
そのアンバランスさが、背筋をじわりと冷やした。
「小早川さん。あなた、退職届なんて出して——調子に乗らない方がいいわよ」
小早川さんの肩が、ぴくっと震えた。
「あなたには、やってもらうことがいっぱい残ってるのよね」
「……そんなものは、ありません」
蚊の鳴くような小さな声だった。
「なんですって——」
西垣の声から温度がすっと消えた。
「あなたみたいな子が——人事にちょっと相談したくらいで……守ってもらえるなんて思わないでよ」
(どうして——ここまで悪意を向けられなきゃいけないんだ)
俺の胸は、じりじりと熱くなる。
気づけば俺の口が勝手に動いていた。
「西垣さん。彼女の退職届は正式に受理されています。これ以上の接触は、控えていただけますか」
西垣は、ゆっくり俺の方へ向き直る。
つくり笑いのまま、目だけが細くなる。
「田中くん、あんたさぁ——立場ってものがわかってるの」
その声は、笑っているのに、キレそうな気持ちを抑えているのか震えていた。
***
西垣が、さらに言葉を継ごうとした瞬間、背後の空気がスッと沈んだ。
誰かが一歩踏み込む音——それだけで場の支配者が変わったとわかった。
——トン。
誰かの指が、西垣の肩を軽く叩いた。
「失礼。NSG人事戦略室の加賀谷です」
その名を聞いた途端、西垣の動きがぴたりと止まった。
肩に置かれた指よりも、名乗りのほうがよほど重かったのだろう。
「人事からの連絡が届いていませんか? あまりに遅いので——迎えに来ました。あなたには確認したい点が山ほどあります。会議室へご同行願いします」
その一言で、空気が、音を立てて凍りついた。
周囲の社員たちは呼吸を忘れ、小早川さんはわずかに震える。
俺はただ——この目の前の出来事を見届けている。
西垣の頬から、みるみる血の気が引いていく。
「ど、どういう——ことでしょうか! あなたは親会社から来たばかりで、ここの事情など、なにも存じないみたいね。私を呼びつけるなんて——そんな権限なんて……」
声が震えている。
言葉が形にならない。
(NSGの社長直属の調査員が出てきたんだ。もう拒否権はない)
「大丈夫です。いろんな事情は——こちらですべて把握済みです。さあ、行きましょうか」
加賀谷は淡々と言い放った。
その冷静さが、逆に逃げ道のなさを際立たせていた。
「……っ」
「ちなみに、あなたに近い方々から、ずいぶんと貴重なお話も伺っております。続きは会議室で——」
その言葉で、西垣の足から力が抜けた。
呼び出しではない。
詰みの宣告だった。
ゆっくりと歩き出した背中は、
昨日までの社内最恐の姿とは、まるで別人だった。
西垣が視界から消えた瞬間、フロアがふっと静まり返った。
(毒花が——ついに、根ごと抜かれたのか……)
背後から、古谷さんの声が聞こえてきた。
「田中さん。彼女が撒き散らしてきた悪意——今日で一区切りですね」
俺はゆっくりと、小さくうなずいた。
胸の奥に、ようやく冷たい風が通り抜けていく気がした。




