第31話 あなたの意志により——私の力が、正しく使われたのです
古谷さんは話を続けた。
「田中さん。利用されたと気づく瞬間が、真面目な人にとって、一番痛いんです。でも——その痛みが、人生を変える合図になります」
(こんな人生——なにが何でも変えてやる……)
「次に——西垣です」
古谷さんの声が、ひときわ低くなった。
「男性社員に人気がある女子社員を、徹底的に追い詰めて辞めさせてきた——そこまでは話しましたね」
「まだ——先があるんですか」
古谷さんは、まるで嫌な書類をめくるように、事実を淡々と告げた。
「理不尽に辞めさせられた女性社員たちは、いま団結して、あなたの会社を告訴する準備を進めています。その動きを聞きつけた西垣は、自分が子分にしている女性社員を使って、管理職の弱みを握りに動き出しています」
(弱みって——どういう……!)
「子分の女性社員を、管理職の飲み会に同行させます。第三者が見れば、セクハラ行為に受け取られる写真を撮るんです。それを動かぬ証拠にするわけです」
少し間を置いて、古谷さんが続けた。
「そして——管理職を脅します。『もし告訴が起きたとき、私を守らなければ、あなたも同罪ですからね』と」
空気が一瞬で冷えた。
(おいおい、この会社——どんだけ、腐ってるんだよ……)
胃のあたりがきゅっと縮むのを感じた。
気持ち悪い。
こんなのまともな会社組織じゃない。
「田中さん。なにも考えず、会社に尽くす。正しい組織なら、それは美徳です。
でも、腐った組織では——ただ単に搾取されるだけです」
古谷さんの言葉が胸に刺さる。
気づけば、テーブルの下で拳を固く握っていた。
(この情報——加賀谷さんに伝えないと)
『子分の女性社員を、管理職の飲み会に同行させて、写真を撮らせている』
この一言だけでも、調査を進める大きな手がかりになるはずだ。
(役に立つはずだ。いや、あのひとなら役立てるはずだ)
俺は、すぐにスマホを取り出し、メールを打ち始めた。
***
昼休み。
俺は、ひとの来ない屋上へ向かった。
冬の光が、コンクリートの床に淡く広がり、冷たい風だけが、頬をかすめていく。
(……ほんと、最低だぞ。この会社)
(これまで、真面目にやってきたつもりが——ただのピエロじゃないか)
空は、やけに澄んでいる。
それが余計に、胸の奥の重さを際立たせた。
「田中さん——」
背後から、柔らかい口調で声がかかる。
振り返ると、そこにいたのはスーツ姿の古谷さんだった。
俺は思わず、誰もいないか周りを見回した。
(大丈夫なようだ)
改めて、古谷さんの姿を見る。
風に揺れるはずのスーツが、微動だにしていない。
冷たい風は、幽霊の身体を、ただ通り抜けていくだけだ。
「この会社では、田中さんのような人ほど、損をします」
「俺は、職場の雰囲気が悪くなるのが嫌というのもあって、意志や感情を抑え、頼まれた仕事を黙々と引き受けてきました。俺が一生懸命やることが——『会社の役に立っている』『仲間の役に立っている』と信じてやってきました」
古谷さんは、小さく首を振る。
「田中さん。健全な会社なら、あなたのような人は大切にされます。ですが、腐った組織では——真っ先に、潰される側に回される」
(確かに、そうだ)
胸の奥で、何かが、静かに腑に落ちた。
「ですが今回——」
古谷さんは、視線をこちらに向ける。
「小早川さんを守るため、あなたは、自分の意志で行動を始めた。その一歩が、私を動かし、加賀谷さんを動かし、やがて——この会社そのものを動かすきっかけになった。本来あるべき姿に戻る可能性を、あなたが作ったのだと思います」
「俺の意志と、行動がですか!」
思わず、聞き返していた。
「ええ」
古谷さんは、はっきりとうなずく。
「加賀谷さんも、NSGの社長も——あなたが持ち込んだ情報の精度を、高く評価しています」
「ですが、それは私の力ではなく、古谷さんが色んな場所に、自由に行けるからですよね」
古谷さんは、穏やかに微笑んだ。
「田中さん、そうではありません。あなたの意志により——私の力が、正しく使われたのです」
その言葉が、冷え切っていた胸の奥に、静かに、温度を戻していった。
***
午後になると、社内の動揺が大きくなっていた。
「これは——ただでは済まないぞ……」
「誰が処分されるんだ……」
「この会社——潰れたりしないよな……」
ざわざわ。
フロア全体が、見えないなにかに触れたようにざわめいている。
(本格的に動き始めてくれたんだ)
自席に戻ると、メールの通知が光った。
差出人:加賀谷誠司。
——田中さん
——ご提供いただいた噂ですが
——複数ルートでの情報と、完全に一致しました
——情報の精度の高さに驚いています
——ご心配なく。計画通りに進んでいます
画面を見た瞬間、胸の奥がじわりと熱くなった。
(本当に、動いてくれている。俺が渡した情報が、あいつらを追い詰める武器になっている)
ほっとした安堵と、
今まで感じたことのない静かな闘志が、ゆっくりと心の底で灯った。
(この会社がどう変わるのか——最後まで見届けてやる)
***
夕方。
エレベーター前で、小早川さんと鉢合わせた。
「田中さん、なんか今日——社内の空気が、いつもと違いますよね」
「ええ。確実に大きな流れが起こっています」
「大きな流れですか」
「この会社を、いい方向に向かわせる大きな流れです」
そう言った俺の顔を、小早川さんがまじまじと見つめる。
小早川さんは、少し息をのんだ。
そのあと、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「田中さんが、そんな顔するなんて——少し驚きました」
「え——どんな顔ですか」
「なんというか……。守ってくれてるって顔です。すごく——頼もしいです」
その言葉が胸の中心にそっと落ちて、じんわり広がっていく。
自分が変わってきているのを、彼女の言葉で初めて知った気がした。
***
会社から部屋に戻って来ると、古谷さんがどこか誇らしげに微笑んだ。
「田中さん。今日は、本当にお疲れさまでした」
「普通の会社員にとって——心の揺れ幅がデカすぎましたよ……」
古谷さんは、穏やかに頷きながら言う。
「その揺れが大事なのです。田中さん。人が本気で動き始めるには、怒りでも悲しみでもなく——揺さぶられたときなんです」
(揺さぶられているよな)
「今日あなたが感じた怒りは、腐った組織への反発じゃなく、守りたいもののために生まれた怒りです。そういう怒りは、ちゃんと使えば——誰かの未来を救います」
(正しい怒りか——そんなふうに考えたことなかったな)
俺は深く息を吸って、ゆっくりと頷いた。
古谷さんは視線を窓の外に向け、ぽつりと呟く。
「田中さん。明日は——今日より、ものごとが大きく動きます。嵐が来る直前は、鳥も鳴かないですからね。会社も同じです」
その声は、まるで開戦前夜の空気をなぞるみたいに、静かで重かった。




