第30話 俺——そんな扱いだったのか……!
目が覚めると、胸の中で、二つの感情がぶつかりあっていた。
『会社が変わるかもしれない』というかすかな期待と、『あの腐った組織が、そんな簡単に変わるはずがない』という重い不安。
(変わらないだろうな)
テーブルの椅子に腰掛けた古谷さんが、いつもの整ったスーツ姿で、まっすぐこちらを見ていた。その目は、凛とした静けさを帯びていた。
「田中さん。流れはもう始まっています。もしも今日、なにも起きなかったとしても——心を乱さないでください」
「粛清の件ですよね。正直、もう今から、ドキドキしてます。このドキドキは、NSGから調査員がきても、結局なにも変わらないんじゃないかという、残念な方のドキドキですけど」
古谷さんは、わずかに顎を引いて言った。
「大丈夫ですよ。嵐の前って、案外、こういう静けさになります。その静けさに惑わされたら遭難します」
その横顔には、一点の迷いもなかった。
ゆっくりとネクタイを締めながら、胸の奥に小さく火が灯るのを感じた。
***
出社して席に着くと、営業フロアの空気がざわついていた。
「山城部長、このところ、挙動がおかしくないか……」
「そうね、部長の腰巾着たちもおかしいわ……」
「親会社の人間が、入れ替わり立ち替わり来てるってよ……」
「でも社内メールは静かね……」
「こういうの、不気味だわ……」
俺は、そのざわめきに耳を貸さないようにした。
PCを立ち上げるふりをしながら、周りに聞こえないよう、古谷さんに呟いた。
「古谷さん、昨日の夜の『話しておきたい情報』を教えてもらえますか」
「追加情報ですね」
「お願いします」
古谷さんは淡々と語り始めた。
「まず、納入業者からのキックバックですが——協力企業を締め上げる形で、数年単位で続いていました」
(数年も——ですか)
「ミナト精密パーツは、NSGの調達子会社です。協力企業にとっては——取引を切られたら即アウトになる大口納入先です。少々の無理なら、断る企業なんてありませんよ」
(弱みにつけ込んで——酷いな)
古谷さんはさらに続ける。
「裏金作りの命令は、NSGの大槻専務からミナト精密パーツ社長、山城部長、腰巾着課長という流れです。流し素麺みたいに命令が流れていきます」
「なるほど——反対向きに、流れることはないということですね」
「あなたの会社の社長は、NSGへの復帰を、なにより望んでいるようです。せっせと作った裏金は——NSG社長の座を巡る派閥争いの軍資金になっています」
(TVドラマみたいですね)
古谷さんは肩をすくめた。
「ですが、山城部長はTVドラマにあるような悲しき管理職なんかじゃありませんよ。しっかりと自分の取り分を懐に入れています。気持ちとしては、棚からぼた餅、あるいは一石二鳥と、むしろ喜んでいるみたいです」
(社会派のドラマじゃなくて、時代劇の悪代官じゃないですか)
古谷さんは、少しだけ声を落として続けた。
「まさに悪代官ですよ。協力会社は、キックバック額を年々増やされ、年貢のように取り立てられています。しかもそれに乗っかって、部長や腰巾着課長たち中抜していますからね」
古谷さんの説明は続く。
「でもそうなると、協力企業も馬鹿じゃありません。取り立てられる年貢を取り戻そうと、納品する部品の品質を落とすでしょうね」
「品質を落としたら——NSGの顧客からクレームが来るじゃないですか……」
古谷さんは、正解ですという表情だ。
「そのとおりです! NSGの顧客からのクレームが増えたことで、本社中枢部が『なにかおかしい』と気づいたのだと思います。そして——秘密裏に派遣されたのが、あの加賀谷さんです」
(加賀谷さんって、NSGの切り札なのか)
古谷さんは、静かに言った。
「田中さん。会社というのは闇が深いほど、崩れるときは一気ですよ」
少しだけ間を置き、さらに続けた。
「そして、あなたへの仕事の押し付けについてですが。ずる賢い先輩社員たちは、気づいていたんですよ——部長たちが危ないことをやっていると……」
声は静かだが、言葉は容赦ない。
「だから、見積もり依頼書や納品処理、細かい実務を、あなたに押し付けていたのです。いざという時の保険ですね。『担当していたのは田中です。だから自分たちは関係ありません』と、そう言いたかったのでしょう」
(俺——そんな扱いだったのか……!)
頭の中を、これまでの光景が次々とよぎった。
「田中くん、これ頼めないかな」と、笑顔で書類を渡してくる先輩社員。
「助かるよ、田中くんがいてくれて」と、感謝しているふりをする同僚。
あれは、感謝でも信頼でもなかった。
ただの、保身のための駒として、便利に使われていただけだったのか。
(俺が、断らない性格だったから——利用しやすかったのか)
(真面目に仕事を引き受けてきた俺は——都合が良い存在だったというわけか)
胸の奥に、じわじわと情けなさが広がっていく。
裏切られた、という感覚が近い。
そのあとから、遅れて、怒りがこみ上げてきた。
(俺なんか——使い捨てにすればいいと……!)
まるで胸の奥をぎゅっと握られるような痛みが広がった。
(あいつらの薄っぺらい笑顔、一つひとつ思い出すだけで、腸が煮えくり返る)
(今まで、なんのために、あんなに頑張ってきたんだ——)
拳を、無意識に握りしめていた。
爪が、手のひらに食い込む。
(絶対に、許せない)




