第29話 実は、お話しておきたい情報がもっとあります
人事部・会議室。
静かな空気の中、小早川さんは震える指先を、必死に押さえ込むように膝の上で組んだ。そこには、逃げないという、小さな決意が見えていた。
「営業部の小早川と申します」
「加賀谷です。では、あなたの話を聞かせていただけますか」
加賀谷は、穏やかな声で促した。
彼女はゆっくり口を開いた。
過大な業務の押し付け——。
机の上に、次々積まれる書類の山——。
事実と異なる誹謗中傷の噂——。
加えて、西垣からの言葉の暴力、LINEを使ったと思われるデマの拡散について。
それらを、涙をこらえながら淡々と話していった。
途中、何度か声が詰まりそうになったが、俺は横に座って彼女の心を支えた。
加賀谷は、終始うなずきながら聞いていた。
「なるほど。あなたが辞めたくなる理由は十分理解しました。西垣さんという方は——ずいぶん社内の影響力が大きいようですね……」
そう言うと、そっとペンを置いた。
「退職届は、正式に受理しました。今後、小早川さんに、西垣さんからの不当な接触がないよう、本日付で、すべての管理職に通知します。どうか安心してください」
「あ……ありがとうございます」
小早川さんの声は震えていた。
「それから——」
加賀谷の声が、わずかに低くなった。
「田中さん、あなたが話してくれた情報ですが、私が別ルートで進めた調査結果と、内容が一致していました」
「え……」
「つまり、あなたの証言は、裏付けの取れた、信頼できる情報だったということです」
(加賀谷さん——俺の言ったことを信じて、行動を起こしてくれたんだ)
「引き続き、この会社の不正を正すための証拠集めを、しっかりと行います」
言葉が、すぐには出てこなかった。
この会社に入って四年。
俺の言うことは無視され、ただの都合のいい人間として扱われ続けてきた。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
こんな気持ち、いつぶりだろう。
加賀谷は、最後に付け加えた。
「田中さん。あなたの情報提供には、大いに助けられました。この会社の不正を正すため、他にも情報がありましたら、なんでもいいので、メールで知らせていただけませんか」
「調査していただいたことを感謝します。情報といっても噂話に過ぎませんが、なにかあればお知らせします」
俺は頭をさげた。
会議室を出ると、人事の職員たちが妙にそわそわしている。
加賀谷の動きを警戒し、怖がっていた。
俺たちの対応していた、人事の女性社員の顔色が悪い。
***
人事から営業の席に戻った瞬間——周りの空気が刺すように冷たかった。
いや、冷たいなんて生ぬるいものじゃない。
西垣に逆らったやつに関われば、自分たちも何をされるかわからない。
とにかく、なにか助けを求められてもいっさい知らないという態度だ。
そんな空気を作り出した西垣が、勝ち誇った顔で、俺の机に近づいてくる。
獲物を、どう残酷に食い殺してやるかという目をしていた。
自分が命令したからには、俺たちは人事部で門前払いされているはず。
これから、こいつらは自分の言いなりになるしかない——そんなことを思っているのだろう。
(そうは、ならないんだけどな——)
人事にいた西垣の子分からは、まだ連絡は来ていないみたいだ。
(彼女は怖くて——報告なんかできないだろう)
「どうだった——退職届は受理されたのかしら……」
勝ち誇った声で迫ってくる。
「もちろん——人事で正式に受理していただきましたよ」
その瞬間——西垣の口元から、笑みが消えた。
いつも余裕を崩さないあの女が、初めて言葉に詰まっている。
「はぁ——。受理、された——」
声が一段低くなった。
『指示しておいたはずなのに、あの役立たずが——』という怒りが、隠しきれず滲み出ている。フロアの空気がスッと凍った。
(睨みつけても、何も変わらないよ)
自分たちにとばっちりが来ないよう、フロア全体がビクリと縮こまる。
視線は、手元の書類に向けるが、耳はしっかりこちらに——そんな空気が肌に刺さる。
(空気の重さで、こっちまで窒息しそうだ)
そんな中、自席で書類整理をしていると、古谷さんの落ち着いた声が聞こえてきた。
「田中さん、リンクいけますか? 山城部長が、社長室に向かっていますよ」
「大丈夫です。つないでください」
視界がふっと揺れた途端、世界が切り替わった。
重厚な木の香り、空気の緊張、社長室の重苦しさが頭の中に流れ込んでくる。
机を挟んで、社長と山城部長が向かい合っている。
部長は汗ばんだ額を必死にハンカチで押さえ、声を潜めて言った。
「社長——NSGから来ている加賀谷という男が、キックバックの件を嗅ぎ回っています。このままだと、協力会社に調査が入ります。かなり危険な状況です」
社長は、椅子の背にどっしりもたれながら、鼻で笑った。
「心配など不要だよ。我々には大槻専務がついている。専務の力があれば——不正なんか、いくらでも正義に変えてくれる。部長、お前は、知らん顔で、どっしり構えていればいいんだ」
「しかし——社長……」
「いいから落ち着け」
声が一段低くなる。
「いいか——お前と私は一蓮托生だ。ここでビビって裏切るなよ」
部長の喉がひくりと鳴る。
「も、もちろんです」
リンクが切れ、視界が戻った。
古谷さんがぽつりと言った。
「田中さん、ご覧の通り、あの二人はもう『崖っぷち』ですね。明日あたり、社内が一気に騒がしくなるでしょう。楽しみですね」
(楽しみなんかじゃ——この重い空気に明日も浸かるのか……)
——確かに、嵐の前触れのような気配が、はっきりと漂っている。
***
定時。
さすがに、今日は仕事が手につかなかった。
というか——引き継ぎなんか、どうでもいい気持ちになってきていた。
俺も小早川さんも、すっかり心が疲れ切っていた。
西垣のせいだ。
ビルの外に出ると、夕風が静かに吹いていた。
こころなしか気持ちがいい。
「田中さん——今日は、ありがとうございました……」
「いえ。小早川さんこそ。大変でしたね」
「やっと——少し、息ができる感じになりました。ホントに辛かったです」
「明日は今日より、少し楽になるはずです。俺、絶対にあなたを守りますから……」
小早川さんは恥ずかしそうにうつむいた。
「はい、ありがとうございます」
ふと顔を上げた拍子に、横顔が夕日に照らされていた。
そこには、弱さと強さが混ざった、優しい表情があった。
***
部屋に戻ると、古谷さんがぽつりと言った。
「田中さん、明日辺りから、大粛清が始まるかもしれませんね」
「そうなってほしいですね。真面目に生きるひとが辛い目に遭わず、楽しく仕事ができる会社になってほしいものです」
「実は、お話しておきたい情報がもっとあります。どうしますか」
「それを聞くと眠れなくなりますから、明日の朝、お聞きします」




