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過労死寸前だった営業マン、幽霊を味方に成り上がる  作者: ゲンタ
第1章 ミナト精密パーツ 営業マン

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第28話 これが西垣の影響力か

朝。目を覚ました瞬間から、体の奥に気合が入っていた。

(今日は——なにがあっても、絶対に引かない)

(なにがなんでも、小早川さんは守る)


昨日、小早川さんは言ってくれた。

「退職届を出します」と。

問題は——そこからだ。


あの職場は、西垣に支配されている。

退職という、個人の選択ですら、あの女の許可なしには通らない空気がある。


(なんで、あんな人間に、ここまでの権力が——)


西垣の目的は、単純明快だ。

『私に目をつけられれば、終わり』

『逆らえば、酷い目に遭う』

その恐怖を、社員全員の心に刻みつけること。


そのために、誰か一人を選び、徹底的に潰す。

見せしめは、一人で十分だ。

その一人が壊れていく様を見せつければ、職場全体を、恐怖だけで支配できる。


それが、西垣という人間のやり方だ。


だからこそ——小早川さんの退職届を、あの女が素直に通すはずがない。

小早川さんを、いじめ尽くす姿を、社員に見せる必要があるからだ。


なにをしてくるか分からない。

どんな言いがかりをつけてくるかも、想像がつかない。


(まったく、この会社は異常だ)

(西垣——良心とか、痛まないのか)


テーブルの椅子に腰掛けている古谷さんが、いつものスーツ姿でこちらをじっと見ていた。

「田中さん。今日は、あなたの心の強さが試される日になります」


「心の強さと言われても。そこはあまり自信がないです」


「大丈夫。守りたい人がいると、ひとは強くなるものです」


(そうかもしれないな)

小早川さんを守る——その一点で、自分が変わってきているのがわかる。


(とにかく今日は、怯まないで乗り切る)

ネクタイを締め、深く息を吸った。


***


会社へ向かう足取りは変わらず重い。

そもそも俺は、揉め事は極力避けたい性格だ。

西垣タイプは、大の苦手だ。


それでも——。

(今日だけは、逃げない)


古谷さんの言葉を、もう一度、心の中で繰り返す。

守りたい人がいると、強くなる。


会社のエントランスに到着したとき、スマホが震えた。

——田中さん。

——私、いま、自分の席に着きました。

——一緒に、人事に行ってもらえますか?


(そんなの、もちろんだ)


俺はすぐ返信した。

——すぐに行きます。一緒に行きましょう。


***


営業フロアに入った瞬間、空気がざらついていた。

LINEで西垣がなにかを流したのかもしれない。

みんなの視線が突き刺さる。


(これが西垣の影響力か——いったい、どこまで毒花の根を張ってるんだよ)


ヒソヒソ囁かれる噂話が、次々と耳に刺さる。

どんどん嫌な気分に沈んでいく。


「小早川さん、本気で辞めるつもりなの……」


「田中って、本当に——利用されやすい男ね……」


「次の男が見つかるまでなのに——田中も、哀れな男ね……」


(朝から、よくこんな残酷な言葉が出せるもんだ)

(こんな会社——潰れてしまえと叫びたい。だけど、真面目な人もいるからな)


俺の胸の中で、どんどん怒りが積もっていく。

席に着く前に、小早川さんが小走りで近寄ってきた。


白シャツの袖口をぎゅっと握りしめている。

手が小さく震えている。

「た、田中さん——今日、お願いします……」


「もちろんです。任せてください」


その言葉だけで、彼女は少し安心したようだった。

——その瞬間。


「おはよう——お二人さん」

背後からねっとりした声が降ってきた。


西垣だ。

今日の彼女は、まるで獲物を見つけた蛇のようだ。

「小早川さん、あなた——まさか会社を辞めようなんて思ってないわよね! やり残している仕事が、山ほどあるのよ。それは、無責任というものじゃないの」


(西垣——もう黙っていろよ)


「あら、図星かしら。誰かに依存し、都合が悪くなれば逃げるとか、直した方がいいわね」


(こいつ——どこまでも言うつもりだ)


俺が、たまらず口を開こうとした瞬間、それを制するように、西垣が畳みかけてきた。

「田中くん。あなたみたいに、逃げ癖のある男なんて、どこ行っても相手にされないわよ。良く覚えておきなさい——」


(逃げるんじゃないぞ、この腐った会社に、見切りをつけるだけだ)


だけど、ここでキレて爆発するのは得策じゃない。

それを逆手に取られる恐れがある。

黙って、小早川さんを連れて営業フロアの外に向かった。


西垣は、俺たちの背に向け、わざとらしくため息をつきながら言い放った。

「まあ好きにすれば——どうせ人事の誰も相手にしないはずよ。がっかりして戻って来るのが楽しみね」


(もう——黙ってくれ)


古谷さんが静かに呟いた。

「田中さん。そろそろ崩れが始まりますよ。組織が崩れる瞬間が来ます。音はしませんけどね。だから相手にする必要も、気にする必要もありません」


「なんで……そんなことがわかるんですか」


「社長室にも、人事にも、自由に行き来できますから。幽霊の現場力を甘く見ないでください」


「それなら、お願いがあります。社長室でなにか密談が始まったら、その内容をよく聞いておいてください。もし俺が席に戻っていたら、リンクで繋いでください。社長がどんなことを言っているのか、社員として知っておきたいです」


「了解しました。万事お任せください」


***


人事部の扉を開けると、空気がいつもと違っていた。

空気が重く、どこか緊張感がある。


受付の女性に声をかける。

「すみません。退職の件で来ました」


女性は、ちらりとこちらを見て——すぐに視線をそらした。

「あの、すみません。今日は……」


(人事まで——西垣の影響は及ぶのか。この会社、いったい——どこまで……)

小早川さんが怯む。

その肩がわずかに震えた。


「退職届は今日付なんです。受け取ってもらえませんか」


俺が食い下がると——部屋の奥から、落ち着いた声が聞こえた。

「お困りですか……」


顔を上げると、灰色のスーツ姿の中年男性がゆっくり歩いてくる。

人事戦略室 主査 加賀谷誠司。

NSGの社長直轄の調査員。


昨日、俺の話を聞いてくれた男。

「どうぞ。会議室に来てください」


人事の他の職員が、一気に緊張した顔に変わる。

なぜこのひとが、俺たちの話なんかを——と思っているのだろう。

(やっぱり、この人、本当に只者じゃないんだ)


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