第2話 選挙でいえば、最後のお願いアピールのポーズだ
引っ越し当日。
「あなたがこの部屋の新しい住人さんですね。これから、よろしくお願いします」
そう言って、また深く頭を下げる。今日、何度目のお辞儀だろう。
「よ、よろしくお願いしますって——これからずっとよろしくされちゃうの……」
「大丈夫ですよ。超安全な幽霊、健康で話好きの幽霊ですから——なんとか頼みます……仲良くしましょう。お願いします」
語尾まで、きちんと言い切る話し方だった。
「仲良くですか——仲良くできなくもな……」
「そうです。そうです。ほらこんな風に、物に触ることすらできませんから。ね——安全でしょ!」
そう言って、『実演させていただきますね』」とでも言いたげに、古谷さんはテーブルのコップに手を伸ばした。
すり抜けた手を、律儀にパタパタと振っている。
「……ね? 大丈夫だったでしょ……」
妙にうれしそうだ。証明できたことが、よほど嬉しいらしい。
その姿があまりにも真剣で、なんだか親近感が湧いた。
ここまで一生懸命、自分の安全性をアピールする幽霊って、他にもいるのだろうか。
(安全だよな。本人がここまで言うんだから……)
俺の表情がOKに近づいてきたのを感じたのか、畳みかけるように最後のアピールを開始した。
「それに、こうして話し相手にだってなれますよ。なんなら、相談相手にもなれます。どうです。便利でしょ。なんせ私——ひとりでいると暇で……暇で困ってるんです」
言い終えると、古谷さんは少し照れたように、姿勢をただした。
「幽霊でも、暇とか感じるものですか?」
「えぇ。死んでから三年ほど、この部屋に一人でいます。それに、この部屋から出ていこうとしても、六時間くらい経過すると引き戻されてしまって。ほとほと困ってまして……」
「それは、お困りですね」
「ご心配、ありがとうございます」
古谷さんは、また律儀に頭を下げた。
「そうなんです! 最後に誰かとちゃんと話したのは、生きていた頃の職場ですから——もう三年も前です。だから今、あなたと話していることが、うれしくて」
「三年もですか」
「ホント、長かったな。あなたが来てくれて、久しぶりに人と話ができましたよ」
そう言って、古谷さんは深々と一礼した。
まるで、長年世話になった上司にでも挨拶するような、丁寧すぎるお辞儀だった。
なんだろう。不思議だった。
恐怖より先に、『ほっておけない』という気持ちが芽生えてきていた。
古谷さんの話は、さらに続いた。
「もともと、私は公務員だったんです。真面目に働いて、真面目に死にました。とにかく、真面目に生きることを信条にしていましたから」
古谷さんは、まるで履歴書でも読み上げるような、きっちりとした口調だった。
「真面目に生きていたために、死んでしまった——そういうことですね」
「そうともいえます。過労死でしたから」
あっさりと言われると——逆に返答に困る。
(確かに——『真面目に生きる』ことを信条にしていたというなら、そういうこともあるかも。俺も、過労死しそうなんだよな……)
「ひとの仕事を——真面目に背負い込み、気がついたら……心臓が止まってました」
(それ、まんま俺の未来じゃない)
(やっぱり俺と似ている。他人事とは思えない)
「見たところ、あなたも無理をするタイプのようですね」
図星だった。心臓に矢が刺さった気がした。
「まあ……そうかもしれないですね」
「気をつけたほうがいいですよ。私を反面教師にしてくださいね」
(説得力ありすぎて、逆に怖いんですけど)
未来の自分を、目の前で見せられているような気分だった。
「これまで——新しい入居者が来るたびに、『初めまして』と挨拶していたら、みなさん逃げ出してしまいまして……。それ以来、ずっと退屈でした。こうして、話せる方が来てくれて——本当に、うれしいです」
(こんなに喜んでいるのに、『出て行きます』って言えないな)
そんな気持ちを察知したのか。
「出て行くって言わないでくださいね。あなたがいなくなったら、また孤独に逆戻り——もう、この先どうすればいいか……」
古谷さんは、俺の両手を握りしめようと、勢いよく手を伸ばした。
選挙でいえば、最後のお願いアピールのポーズだ。
だが、その手は、あっさりと俺の手をすり抜ける。
それでもめげず、もう一度。
また、すり抜ける。
何度も、何度も繰り返して、ようやく諦めたように、深々と頭を下げた。
(幽霊と一緒に住むのも、悪くないか。いいひと——いや、いい幽霊みたいだし。それに——なんだか、他人とは思えないんだよな)
俺はまだ知らなかった。
この真面目すぎる幽霊が、ブラック企業に殺されるはずだった俺を、『救う側』に引きずり込む存在になることを。




