第1話 幽霊って、みんな、こんな感じなのか?
真面目な人間から、先に壊れていく……。
それが、この会社のやり方だった。
俺はただ、言われた仕事を断らずにやっていただけ。
それだけで、気づけば使い捨てにされていた。
有給休暇は、去年一日も使わなかった。
「田中くん、これも頼むよ。君、仕事早いからさ」
営業課長の荒木が、またドサッとファイルを置いていく。
これで今日三回目だぞ。
俺は26歳、社会人4年目。
ミナト精密パーツという、機械部品を扱う中小企業の営業職。
残業代なんて、ここ半年、一円も出ていない。
(これって、明日までに終わらせるの——無理だろ)
でも、断れない。
断ったら、人間関係がギクシャクする。
その状況を想像するのが怖い。
それに、自分が拒否すれば。
結局は、誰かにこの仕事が回される。
もっと弱い立場の社員だよな。
「……わかりました」
(結局、いつもどおりか!)
荒木は満足げな顔で、窓際の自分の席に戻っていく。
なにを見ているか知らないけど、パソコンをニヤニヤ眺めている。
気づけば、上司でもない先輩社員からも、当たり前のように仕事が振られてくるようになった。
たとえばこの前も、先輩のミスで得意先が激怒したのに、なぜか俺が謝って……。
(なんで俺だ——って思うのに、断れない)
定時を何時間も過ぎた夜10時。
気づけば、フロアに残っているのは俺だけだった。
これが俺のルーティンになっている。
***
数週間後。
そんな毎日を変えたい。
そのためには、きっかけが必要だ。
俺は思い切って引っ越しすることに決めた。
引越し先は、2LDKのマンション。家賃4万円。
都内なのに、安すぎる。
怪しい。それはわかっている。
それでも、環境を変えたかった。
今の自分を、変えたかった。
不動産屋の社員が満面の笑みで言った。
「コスパ最強ですよ。田中さん! 早い者勝ち! ここを借りたいと言われているお客様が、実は——他にもいらっしゃいまして」
こっちは客のはずなのに、なぜか申し訳ない気持ちになってくる。
「あ、じゃあ、これでお願いします」
断れば、この人の営業成績に響くかもしれない。
そんなことまで考えて、契約書にサインしていた。
(客なのに、営業マンに気を使ってどうする。俺、ほんとにダメだな)
***
引っ越し当日。
段ボールに囲まれた、がらんとした部屋。
まだ何も置いていない床に、夕方の光が斜めに差し込んでいる。
自嘲しながら、段ボールを開封し、中身を片付けていく。
これで最後、そう思った瞬間。
背中になにやら視線を感じる。
「お疲れさまです。こんにちは、初めまして——怪しいものではありません」
振り向くと、誰もいない。
がらんとした部屋に、俺の影だけが伸びている。
テレビは、まだコンセントすら差していない。
(自分の他に、話す人間がいるはずないだろ)
「すみません、こっち側です。初めまして」
声のした方——窓際の壁に、目を向ける。
その瞬間、腰が抜けた。
壁に、うっすらと人影が浮かんでいる。
スーツ姿の、四十代くらいの男。
きっちりと締めたネクタイの結び目まで、やけに鮮明だ。
それなのに、体の輪郭だけが、窓からの光を通してぼんやりと透けている。
床に立っているはずなのに、足元が、わずかに宙に浮いていた。
「ひゃあああああああッ!?」
「す、すみません。驚かせましたね。私、古谷誠一と申します」
幽霊が、深々と――直角に近いほど——頭を下げていた。
まるで、初対面の取引先に挨拶するときのような、几帳面なお辞儀だった。
「え、えぇぇ——?」
「そんな反応されると、少し寂しいです。私、決して怪しいものではありません。安心してください」
言葉の一つひとつに、律儀な間があった。
古谷と名乗った“それ”は、ふっと悲しげに笑った。
「ですが、幽霊なのは間違いありません。でも安全な幽霊です。びっくりしないで、お願いします。冷静に」
そう言いながら、彼はスーツの襟を、そっと正した。幽霊なのに。
「ゆ、幽——霊……?」
「はい。でも悪い幽霊ではありませんよ。騙したりもしませんし、祟ったりもなし。安全です」
まるで面接で自己PRするみたいに、姿勢を正して答える。
(変わった幽霊だな)
落ち着くまで十分かかった。
長いのか、短いのか。
(落ち着く方がおかしいか?)
その間も、古谷さんはずっと、少し距離を置いた壁際に立ったまま、俺が落ち着くのをただ静かに待っていた。
急かすことも、近づいてくることもしない。
でも古谷さん——思いのほか礼儀正しく、優しい幽霊だった。
(幽霊って、みんな、こんな感じなのか?)




