第26話 古谷さんの話に出てきた親会社の調査員かな
昼休み。
書類の山と格闘し続ける小早川さんの手が、ふと止まった。
疲れきった顔で、ため息をつく。
その横顔を見ていたら、もう黙っていられなくなった。
「小早川さん——もうやめませんか。こんな無茶な仕事。終わるわけがないです」
「で、でも——私、どうしたら……」
そして、俺は、腹の底で固まっていた決意を、ついに言葉にした。
「小早川さん。こんな会社……辞めませんか。ここは、あなたがいるような場所じゃありません」
彼女がゆっくりと顔を上げる。
目が揺れている。驚きと、不安と、どこか救いを求めるような光。
「た、田中さん……」
息を整えて、真正面から続けた。
「俺の会社——まだ形にもなってないです。でも、一緒にやってくれませんか。あなたがいてくれたら……」
短い沈黙が落ちた。
「でも、怖いです。辞めたら、もう戻れませんよね」
その声は震えていた。
また沈黙——けれどその沈黙は、冷たくなかった。
やわらかく心に染み込んでくる。
小早川さんは、ふっと目元を緩め——小さく笑った。
「それでも、田中さんとなら——進める気がします。辞めます。田中さんと一緒に」
胸の奥が震えた。
こんなにうれしい言葉を、人生で聞く日が来るなんて。
続けて、彼女は少し照れたように指先をいじりながら言った。
「でも、もし会社がうまくいかなかったら——うちの叔父の工務店がありますからね。二人で……そこで働けますしね」
「二人で——」
「はい。田中さんと一緒なら——なんとかなると思います。どんな形でも」
(それって——どう受け取れば……)
心臓が跳ね上がる。
あのイルカショーよりも、高いジャンプだ。
***
昼休みが終わり。
俺は人事に向かった。
しかし、人事では俺の話は誰も聞こうとしない。
もう辞めることが決まっている社員に割く時間などない。
荒木課長の事件にも、これ以上関わりたくないというのが表情に出ている。
その時、部屋の片隅に座っていた男性が、俺のところにやって来た。
「どうされましたか」
灰色のスーツに身を包み、柔らかい笑みを浮かべる中年男性。
落ち着いた目。歳は、40代後半か。
声は低く、そして妙に温かい。
だが、眼の奥は笑っていない。
彼は名札こそ人事課となっているが、机の上には、この会社では支給されないタイプのノートPCが置かれていた。
誰ひとり、彼に声をかけない。
まるで——「近づくな。話をするな」という無言の指示が、社内に行き渡っているようだった。
(この人、普通じゃない。古谷さんの話に出てきた親会社の調査員かな)
「田中と申します。退職届を出したのに、大量の仕事を押し付けられています。それと、同僚の小早川さんが——悪意のある噂を流され、過剰な業務を命じられています」
男はうなずくだけで、なにも驚かない。冷静な目が俺を見ている。
「なるほど、どうぞ続けてください」
(聞いてくれるみたいだ)
俺は意を決して、話し始めようとした。
男はそれを制止して言った。
「ちょっと待ってください。なにか、いろいろ事情がありそうですね。続きは会議室で詳しく伺いましょう」
周りの社員は、その様子を見ていたが、なにも言わなかった。
俺は、その男と会議室に移動した。
***
二人で会議室に入ると、男は静かに一礼して言った。
「申し遅れました。加賀谷と申します」
「田中です。よろしくお願いします」
席に座った俺は、自分と小早川さんの現在の状況、退職を決意した原因となった『荒木課長の仕事の無理な押し付け』についても、『小早川さんに対するセクハラ』についても説明を始めた。
その男は、柔らかい物腰で話を聞き続けてくれた。
油断ならない雰囲気を醸し出してはいるものの、話をしているとその人間が信頼できる人間であることが伝わってきた。
俺は、古谷さんから知らされたことも、この人には伝えておこうと思った。
「これは、社内の噂話として聞いていただきたいのですが——社内で、裏金作りの動きがあるという情報がありまして……」
俺がそう切り出した瞬間、目の前の男——加賀谷のペン先が、ふっと止まった。
「誰からの噂ですか」
鋭さはあるのに、声の調子だけは驚くほど穏やかだ。
(言えないよな——幽霊からとは)
「社内に流れている——ただの噂といいますか……」
曖昧に濁しておく。
「それで、構いません。情報元は秘匿ということで」
加賀谷は、微笑みながらさらりと受け流してくれた。
その柔らかい圧に背中を押されるように、俺は古谷さんから聞いた内容を、実名入りですべて伝えた。
協力会社の名前。
個人名。
キックバック手口の詳細。
そして、西垣が女子社員を辞めさせた件。
加賀谷は、表情を一切崩さずに話を聞き続けていた。
メモを取るペン先だけが、淡々と紙の上を走っている。




