第25話 冷静に考えると、けっこうチートだよな
昨日のあの期待に溢れた、爽やかすぎる目覚めはどこへいった。
初デートの翌日なら、もっとウキウキしていて、いいはずなのに——。
会社の闇の話を聞いて、胸のあたりがやけに重い。
加えて、今日も引き継ぎという名の、仕事の押し付けか——。
(最後までこれか)
『田中さん、もう十分です。残りの日々はのんびりしてください』とか、そんな神セリフ、一度でいいから聞いてみたかったな。
退職するって言ってるのに、自分たちが楽をするために、ギリギリまで仕事を押し付ける。確かに、この会社は腐りきっている。
腐った会社のことより、小早川さんをなんとかしないと。
西垣のターゲットになんか、させるわけにはいかない。
(彼女だけは、絶対に守る……なにが何でもだ)
テーブルの椅子に腰掛けている古谷さんが、いつものスーツ姿でこちらをじっと見ていた。
「田中さん。今日も、ハードな一日になりそうですね。特に西垣の動きには注意が必要ですよ。気合を入れていきましょう」
こんなに励ましてくれる幽霊なんて——古谷さんとの出会いには感謝しかない。
(それにしても——小早川さんを残して、会社を辞めてしまっていいのだろうか)
「昨日お話しした、会社の影の話……消化できました?」
「できるわけないです。デートの余韻が、一瞬で吹き飛んだだけです」
「親会社から来ている調査員は、おそらく会社の影を本格的に探っていますね」
スーツに袖を通す。
『守るべき人がいる』という、それだけの理由で足が前に動く。
(小早川さんは、俺が守らなくては——)
それが、今の俺を支える唯一のエネルギーだ。
***
会社に着いた瞬間——異様な空気を感じた。
ひそひそ声が、廊下にまで漏れてきた。
「小早川さんって、ああ見えて性格悪いんだって……」
「ほら、課長のこと、うまく転がしていたとか……」
「田中くんも、すっかり騙されていたらしいわよ……」
「可愛くても、性悪は無理だわ……」
(は——。なに、このデタラメなヒソヒソ話)
(西垣が手下の女子社員に、LINEでのデマ拡散を、指示しているのかもしれない)
耳に入ってくる言葉が、ことごとく悪意を帯びている。
デスクに向かうと、その主犯格が待ち構えていた。
「おはよう、田中くん」
西垣だ。
目が笑っていない。まさに毒花って感じだ。
「聞いたわよ。昨日のデート」
(古谷さんが言ってたやつは、やはり西垣の子分だったのか)
続けざまに、彼女は声を落として言った。
「小早川さんって——可愛い顔してるけど、怖い子みたいよ。課長も部長も転がして、結果的に、あなたまで——辞める羽目になったんだから……」
(よくそんな下劣な作り話が、口から出てくるもんだ)
俺が反論しようと身構えたときには、西垣はもう背を向けていた。
——「この西垣に、異論なんて認めないわよ」
そんな言葉が、そのふてぶてしい背中から聞こえてくる気がした。
「ま、あんたみたいな男は——ほんと、騙されやすいのよね」
そう言い捨てて、西垣は一度も振り返らずに去っていった。
古谷さんの憤りを滲ませた声が聞こえてきた。
「あの女性は、会社を腐らせていますね。まさに職場の毒花です。彼女は厄介な存在ですね。悪意を仕事に混ぜてくるタイプです」
(少し混ぜてくるならまだしも——あれは猛毒の撒き散らしだ)
***
自分の席に座ると、それが見えた。
小早川さんの机の上に、大量の書類の山が積まれていた。
俺の机に積まれた書類の山と同じ高さだ。
「小早川さん、これ、全部——やれと言われたのですか?」
「き、今日中にやれだそうです」
声が震えている。
そこへ、荒木の後任として着任したばかりの課長が通りかかり、冷たく言った。
「この程度でびっくりしてもらったら困るな。君の噂は、いろいろ聞いているよ」
(毒花め——でたらめな噂を撒き散らしやがって)
俺は、耐えられなくなって、一歩踏み出した。
「課長、その噂はでたらめです。それに——この仕事量は……」
「田中くん。辞めるんだろ。君はさっさと引き継ぎを進めてくれ」
(辞める人間はだまってろって——それにこんなの引き継ぎじゃないだろ)
***
午前中いっぱい、俺と小早川さんは、黙々と書類の山と格闘した。
その最中、古谷さんの声がしてきた。
「田中さん。昨日お話しした『名前と会社がわからなかった人物』が目の前にいます。今からリンクでつなぎますので、教えてください」
「今、普通に忙しいんですけど……」
「田中さん、優先順位を間違えてはいけませんよ。真面目にやるべきは、そんな引き継ぎ書類ではありません。会社に残る小早川さんを守るんでしょ。会社の内部調査を優先しましょう」
(そのとおりだ——俺は、なにをやっている)
「応接室で、山城部長と協力会社の社長とが、裏金を要求する話をしてます。リンクしますよ」
視界の端が揺れ、応接室の様子が流れ込んできた。
「見えますか?」
「ええ、見えます。この人は新川パーツ工業の新川社長です」
「はい、次いきますよ。隣の応接室。部長配下の課長が、同じく裏金を要求してます」
その応接室の様子に切り替わる。
「この人は、笹岡電子加工の笹岡社長です」
(部長も課長も、せっせと裏金作りかよ)
「続けていきますよ。今度は西垣です。新任課長さんと会議室で話しています。音声聞こえますか?」
西垣の、ねっとりした嫌な声が響く。
「──岡田課長。あなたが課長になれたのは、私が裏で動いたからですよ。わかっていますね」
「も、もちろんです。西垣さん。山城部長を動かしていただいて、感謝しています」
「山城部長も、私に逆らえませんからね。そこのところ——お忘れなく。今後ともよろしく頼むわね」
リンクが切れた瞬間、俺は思わず天を仰いだ。
「古谷さん。この会社——ここまで腐ってるとは、思いませんでした」
「田中さん。今のが、下の階層の腐り方。上の階層もしっかりと腐ってますからね」
深く息を吐いて、現実に戻る。
「これでわかりました。退職届を出して正解だったということが——」
「はい。むしろ遅かったくらいです」
「古谷さん。ところで——山城部長が西垣に逆らえない理由、調べられますか」
「お任せください。そこは、きっちり真面目に探ってきます」
(会社の裏側まで、なんでも見えちゃうのか。古谷さん、マジで恐るべし)
(そして、それを頼み放題の俺って——冷静に考えると、けっこうチートだよな)




