第24話 私が社内で拾ってきた噂話ですが
ショーが終わり、館内のカフェでアイスコーヒーを飲みながら、俺は腹を決めた。
「小早川さん、実は——話したいことがあるんです」
「はい」
「会社を辞める理由なんですけど」
小早川さんが真剣な表情で、俺の目を見つめてくれていた。
言葉を選びながら、ゆっくりと伝えた。
「俺は、揉めごとがきらいで、頼まれれば断るのも苦手、本当に優柔不断です。でも困っているひとがいれば、助けてあげたいと思います。そのせいで、どんどん仕事が増えて——このまま会社にいたら、潰れてしまうと思いました」
「職場のみんなが、田中さんに、仕事を押し付けていましたからね」
「だから、ミナト精密パーツを辞めたら、自分の会社を作ろうって思っています。漠然とした話ですけど、自分の力で、自分の人生を生きてみたいと思っています」
小早川さんは、驚きで目を大きく開き、それから少し微笑んだ。
「すごいです。真面目な田中さんが、自分の会社を作る決意をしていたなんて」
「怖いし、不安です。でも、自分自身で決めた人生を生きていきたいんです。そのためには、自分の会社を作るしかないと思いました」
「田中さんのそんな顔、初めて見ました」
「え?」
「なんというか——今までで一番、いい顔してますよ」
小早川さんが俺の方をじっと見つめてくれていた。
「でも——心配です。田中さん、お人好し過ぎるから」
(心配してくれる女性がいるというのは、こんなにうれしいのか)
「だから……もし、田中さんの会社がうまくいかなかったら」
小早川さんは、少しだけ照れながら続けた。
「うちのおじさんが、小さな工務店をやっています。人手が足りなくて、困っているみたいなんです。ですから、もしものときは紹介できますからね」
「え——そんな……」
「いいんです。田中さんには、助けてもらってばっかりだから」
(いや……この展開……最高すぎるんだけど……)
心のどこかが、ふっと温かくなっていくのを感じた。
その後も、二人でゆっくり館内を回った。
ペンギンのコーナーでは、よちよち歩く姿に二人で笑い。
深海魚のエリアでは、少し不気味な生き物に小早川さんが小さく悲鳴を上げて、俺の腕にしがみついてきた。
(心臓、もう何回目の限界だろう)
気づけば、あっという間に閉館の時間が近づいていた。
もっと一緒にいたい、と思う自分がいた。
***
出口へ向かう途中、彼女が小さくつぶやいた。
「田中さん……あの……時々でいいので、また会っていただけますか?」
「もちろんです。俺も——お会いしたいです」
その瞬間、小早川さんがふっと笑う。
それは、今日見た中で最高の笑顔だった。
***
部屋に戻ると、古谷さんが笑顔で近づいてきた。
「田中さん! 青春——まぶしい……ですね」
「絶対に見てませんよね——本当に……」
「はい、直接見ることはしていません。ただ、周囲の気配は、念のため確認していました」
「気配?」
「周囲の気配のなかに、一人だけ、妙に田中さんたちを意識する女性がいまして」
「意識する女性って……」
「単なる通行人、というには、少し視線が長すぎましたね。見張っていた、というか、探っていた、というか」
「そんなことを、やりそうなひとといえば——まさかと思うけど、西垣さんですか?」
「違います。私が見たことのない若い女性でした」
(誰か気になるけど——今日は、嫌なことは考えたくないな)
***
古谷さんの表情が、すっと真剣に引き締まった。
(え——まだなにかあるの? 今日は幸せな気分で眠りたいんですけど)
「どうしようかな——言うべきか、言わぬべきか……。でも、真面目な性分が、隠し事を許してくれなくて……」
「そこまで前置きされたら——聞かないと、逆に怖いじゃないですか。話してくださいよ」
「あくまで『私が社内で拾ってきた噂話』ですが——聞きたいですか?」
「聞きたいもなにも、もう話し始めてますから」
「噂をつなぎ合わせると、会社の影が、じわじわ見えてきましてね」
「裏の顔——ですか?」
「人事に、親会社の調査員が、紛れ込んだ話はしましたよね。目的は——会社の不正調査です。会社の影という話は、そこに繋がると思います」
「不正調査? うちの会社に——どんな不正があったのでしょうか」
「社長と部長が、協力会社から、せっせと裏金を集めているみたいなのです。そしてその裏金は、親会社の派閥争いに流れています」
「は、派閥争いですか」
「そして、西垣さんですが。イケメン若手男性社員に異常接近したり、自分に従わない女性社員に執拗な嫌がらせをしたり。『それが原因で、女子社員がごっそり退職した年がある』という噂も」
「えぇ——そんな……!」
今日の水族館の、淡く幸せな思い出が、遠くへ消えていく気がした。
古谷さんは小さくため息をつき、柔らかい声で言った。
「田中さん、あえて、できる限り優しく言いますね。あなたの会社、田中さんが想像するよりずっと腐っています」
「優しい言い方でそれですか? 腐り切っているということですね」
(俺が懸命に働いて——いや働かされていた裏で……。みなさん、好き放題やっていたというわけなのか)
「では詳しく話しますね。嫌な話ですから、深呼吸でもしながら、落ち着いて聞いてください」
古谷さんは、詳しく話してくれた。
ただし、古谷さんには、顔がわかっても、個人名や、所属する会社名はわからない。明日以降にでも、俺と感覚をリンクして、個人名や会社名を確認してほしいそうだ。
ベッドに倒れ込んだ俺は、天井を見つめながら思った。
(どうなっているんだ俺の会社。もう少ししたら、俺の会社じゃなくなるか)
こうして、会社の闇の入口と、小早川さんとの幸せな光が、同時に開いたのだった。




