第23話 こんなに幸せそうなひとたちがいるんだな
今日はデート。
あの癒し系美女の小早川さんと。
胸が落ち着かず、期待と緊張が入り混じって、結局ほとんど眠れていない。
会社を辞める決断をして、最初の日曜日。
人生初めてのデートだ。
(この歳で初デート——どうすりゃいいんだ。なにを話せば……)
ベッドに座る。
カーテンの隙間から差し込む光を見ながら、思わず深呼吸をした。
玄関には、前夜悩みに悩んで選んだ服が吊ってある。
といっても、選ぶほど服はない。
地味だが、清潔感のあるシャツにジャケット。
普段の営業スタイルより少しだけ柔らかい感じだ。
いつものように、スーツ姿の古谷さんが、テーブルの椅子からこちらを見ている。
「田中さん。デート、大丈夫ですか。ずいぶん緊張しているみたいですけど」
「ぜ、絶対に——ついてこないでくださいよ」
「私にだって、常識ってものがあります。自制心もあります。まあ、覗きたくなる気持ちも、大いにありますけどね」
「遠くから、ちらっとも、ダメですからね」
「冗談です。プライベートの邪魔なんかしません。ご安心を」
笑っているが、信用は半分くらいだ。
なんせ、姿を消せるからな。
***
品川駅の港南口。
待ち合わせは午前10時。
巨大なビルと人の波の中、俺は少し早めに着いてしまった。
10分前どころではない。45分前だ。
(早く着きすぎたかな。でも、遅刻するよりは百倍マシだ)
(それより、気まずい沈黙だけは避けたい。ちゃんと準備してきた話題——忘れてないよな)
そわそわしていたら、時間がどんどん経っていった。
それにしても、日曜の駅は見慣れた通勤風景とは違い、デートらしき男女がたくさんいる。
腕を組んで歩くカップル、待ち合わせで抱きつくように再会するふたり。
(世の中には、こんなに幸せそうなひとたちがいるんだな)
すれ違った男が、やけに決まったジャケットを着ていた。
サイズ感も、色の合わせ方も、隙がない。
(あれがイケてるってやつか。俺のこの格好、大丈夫か……)
自分の恰好を、もう一度見下ろした。
清潔感はあるはずだ。たぶん。
でも「清潔感がある」と「イケてる」は、たぶん別のジャンルだ。
(あの余裕、いつか俺にも身につく日が来るのかな)
(待ち合わせでこんなに緊張しているのは、俺だけか)
隣を歩く別のカップルが、笑い合いながら通り過ぎていった。
(俺も、いつかあんな風に、自然に笑いながら歩けるんだろうか)
(あぁ——緊張してきた)
スマホに通知が届く。
——田中さん、着きました。
(来た——)
胸が跳ねる。
株価上下のドキドキとは明らかに違う。
振り向くと——
「田中さん」
小早川さんが、小さく手を振って立っていた。
白いブラウスに淡い紺のスカート。
いつものオフィス姿より柔らかくて、そして、はっきり言って——綺麗だ。
なんだか、周りからの視線を感じる。
(なに、この組み合わせ——とか、絶対思われているだろう)
(俺が、イケてないのはわかってる。こっちを見ないでくれ)
「お待たせしてしまいましたか?」
(同じ声なのに。あのブラック職場で聞くより、ずっと心地いいし、柔らかい)
「い、いえ、俺も——今、来たところですから」
「よかった。じゃあ、行きましょう」
「はい」
***
アクアパーク品川は、駅から徒歩で数分。
入口の青白いライトが、まるで海の底に誘うように揺れていた。
「田中さん、ここの水族館に来られたことは……」
「ないです。土曜日もサービス出勤、日曜日は、ひたすら死んでいますから」
「えっ、せっかくの休養日だったのに、申し訳ありませんでした」
「そんなことありません。すごく楽しいですから」
「じゃあ今日は特別ということで」
(特別——そんなこと言われたら……心臓が死ぬ)
館内に入ると、光と音の演出に包まれながら、海の生き物たちがゆっくりと揺れている。青い世界の中で歩いていると、小早川さんの横顔が、より柔らかく美しく見えた。
(小早川さんといると——こんなに気持ちが軽くなる)
「わぁ——クラゲ、綺麗……」
クラゲのホールでは、ゆらゆら揺れる光の塊に合わせて音楽が流れていた。
「田中さん、これ見てください。ほら、こっちのクラゲ、動きが可愛いです」
「ほんとだ——なんか癒されますね」
「田中さん、いつも疲れていましたもんね。こういう場所がいいかなと思いました」
(俺のこと——見てくれてたんだな)
自然と胸が熱くなった。
***
イルカショーの時間が近づき、大きな円形プールへ移動した。
前から5列目の席に座ると、小早川さんが小声で言った。
「田中さん、今日——どうしても伝えたいことがあって」
「伝えたいことですか」
小早川さんが指先をぎゅっと握った。
「何度も、荒木課長の嫌がらせから助けていただいて、本当にありがとうございました。あのひと——ほんとに怖くて」
「俺は、たいしたことしていません。それにしても、課長の行動は常軌を逸していましたね」
「でも、田中さんがそばにいてくれたから、安心できました。だから——ちゃんと、お礼を言いたかったのです」
(なんて——心地良い響きだ。可愛すぎるだろ)
胸がぎゅっと締め付けられた。
水面に光が反射し、ふたりの顔を淡く照らす。
イルカショーが始まり、歓声があがる。
けれど俺の心は、イルカではなく、彼女の言葉でいっぱいだった。




