第22話 ああいう女性は——組織を腐らせる毒花です
「はぁ……」
朝のすっきりした目覚めはいつ来ることやら。
(なんで……ため息を?)
退職届を出したのに、すっきり気分じゃないのには理由がある。
引き継ぎ作業だ。
あの職場のことだ、どう考えても、すんなりと退職とはいかないはずだ。
それが今日から始まだろう。
「ふぅ——」
いつものように、スーツ姿の古谷さんが、テーブルの椅子からこちらを見ている。
「田中さん。ため息はやめときましょう。今日から、引き継ぎ作業が始まりますね。もちろん無視も拒否もできます。ですが、あなたは、そうしたくないんでしょ」
「基本、揉め事が嫌ですからね。やはり円満に退社したいです」
「田中さんならそうでしょうね。今まで押し付けられてきた仕事量が多いだけに、さぞかし引き継ぎは大変だと思います」
(自業自得とはいえ、いろんな案件に顔を突っ込んでいるからな)
靴紐を結びながら、大きく息を吸って家を出た。
「いってらっしゃい」
その背中を古谷さんが、優しい笑顔で見送ってくれた。
***
出社すると、すでに社内はざわざわしていた。
昨日の『荒木課長による部長殴打事件』が会社中に広がっているためだ。
廊下を歩くだけで視線を感じる。
ヒソヒソ話が耳に入ってくる。
「荒木、終わったな……」
「よりによって、部長を殴るか……」
「荒木——飛ばされるって……」
「いや、辞めるって聞いたけどな……」
(自業自得だろ)
席に着いた瞬間、背後から部長の声が飛んできた。
「田中くん。昨日出した退職届の件だけどな。確認するが——このまま処理を進めていいんだな」
(荒木の無茶振りを、見て見ぬふりをしてきたくせに。『いいんだな』ってなんだよ——いいに決まってるよ)
俺は一度だけ息を吐き、後ろを振り返って答えた。
「はい。退職でお願いします。ご迷惑をおかけします」
「そうか。君の意志を尊重しよう。引き継ぎはしっかりと頼むぞ」
「もちろんです」
部長は淡々としていたが、その目の奥には『こんなことで辞めやがって、俺が若い頃なんて——無茶振りなんて常識だったのに』という色が浮かんでいた。
それを見た瞬間——。
(やっぱ辞めて正解だった)
と心の底からそう思った。
***
午前中から、俺の机には、押し付けられていた案件が、まるで催促状のように次々と積み上げられていった。
(これは、引き継ぎ資料の作成じゃないよな)
「田中くん、これ、やりかけだったよな? 最後まで仕上げてから辞めてくれ」
そう言って無造作に付箋付きの書類が置かれる。
・担当顧客リスト 21件
・見積案件:未完了12件
・納期調整案件:8件
・クレームフォロー:3件
・新規営業開拓プラン:A4ファイル×2冊
・過去の議事録データ整理:数十ファイル
どさくさ紛れに、新規案件も混じっている。
(俺がやるべきは、引き継ぎリストなんだけどな)
辞める人間に、どんどん仕事が振られてくる。
(この職場——いや、ここにいる社員、どうなってんだ)
古谷さんがぼそっと言う。
「田中さん。これは、いじめに分類されますね。真面目な人ほど、生きづらい世の中というわけです」
「最後だから、円満に退社したいとは思いますけど。この書類はちょっと」
そこへ——現れた。
「おはよう、田中くん」
(なんだ、この化粧品臭いにおいは——)
お局様・西垣。
社内の裏ボス。
入社25年オーバー。
社内掌握力は社長の次、社員からは『西垣さんに嫌われたら、会社にいられなくなる』と恐れられている。
最凶、最悪のおばさんだ。
「退職するんだから——最後くらいは、しっかり貢献してもらいたいものね」
机にさらに書類をドサッ。
「これもお願いできるかしら? あなた——荒木さんが、ずいぶんと目をかけていたみたいだけど。荒木さんには、ちゃんとお礼を言ったのかしら」
(『目をかけて』じゃなく『目をつけて』が正解だけど)
(お礼どころか——二度と会いたくない)
小早川さんが心配そうに近づいてくる。
「田中さん——これ、多すぎません? 私も手伝います」
「いや、小早川さんは自分の仕事を……」
「私、理不尽なのが嫌いなんです。田中さんばかり損するの、見てられません」
真剣な顔で見つめてくる彼女。
その瞬間——西垣の目が細く、鋭くなった。
「小早川さん。あなた、そういうの——誰に教わったのかしら」
「え——なんのことですか……?」
「男に媚び売って——仕事減らすタイプに勘違いされるかもよ」
空気が一瞬で凍りついた。
(この人、なんで、こんなことを)
古谷さんの声が聞こえてきた。
「田中さん。あのお局さん、男性社員から人気のある女子社員を、徹底的に追い詰め、退職に追い込むのが趣味だという噂です」
(西垣さん、なんのために会社にいるの——)
***
昼休み。デスクでコンビニおにぎりを食べていると、また西垣が現れた。
「田中くん。荒木さんね、あなたの退職を『ショック』だと言っていたわよ」
(そんな訳ないだろ——喜んでるだろ……絶対に)
「『田中は——俺に気を使って辞めるんじゃないか……』ってね」
(こいつ、荒木のセクハラを『小早川さんに対する、男二人の恋バトル』にすり替えようとしているのか)
(小早川さんを追い詰める気なんだな)
小早川さんも意図を理解したはずだ。
顔を伏せ、小さく震えている。
西垣は冷ややかな声で追い打ちをかける。
「癒し系とか言われて、いい気になって。あなたが媚を売って歩くから——課長が勘違いしてしまったんじゃないの!」
(課長のセクハラ——ひょっとして、こいつの仕込みか)
俺の中でなにかがカチッと音を立てた。
「西垣さん。そんなことはないと思いますけど」
(本当は、もっと強く言いたいけど——ここまでか)
「どういうことかしら? 私は事実を伝えているだけだけど」
反論なんか聞かないわという態度で、彼女は去っていった。
(どこまで意地が悪いんだよ)
残されたのは、食欲の消えた俺と、沈んだ小早川さんだけ。
古谷さんのため息が聞こえてきた。
「田中さん。ああいう女性は——組織を腐らせる毒花です」
(この会社って——こんな地獄だったのか)
***
午後も引き継ぎ作業という名の、仕事の押しつけはとまらなかった。
だが、小早川さんは俺を助け続けてくれた。
コピー、資料整理、顧客データのまとめ。
「田中さん、本当に辞めるんですか……?」
「うん、まあ……」
「私、田中さんがいなくなると——会社にいても、つまらないです」
ドキッとして、思わずペンを落としかけた。
(いや、そんなストレートに)
「それに、荒木課長も、もうすぐいなくなるかもしれないわけですから、辞める理由は、もうないのでは?」
「いや、まあ、それは」
言葉を探していると、小早川さんが続ける。
「今度の日曜日、時間ありますか?」
「えっ」
「もしよければ——水族館、アクアパーク品川に一緒に行きませんか?」
心臓が跳ねた。
彼女はうつむきながら、しかし耳まで赤い。
「もちろん——行きます」
「よかった♡」
***
定時を過ぎても書類は減らない。
そして——20時、ようやく帰れる状況になった。
古谷さんが現れ、ぼそっと言う。
「田中さん。彼女と急速に距離が縮まっておりますね」
「部屋に戻ったんじゃないんですか。やめてくださいよ。プライベートに関わってくるの……」
「また来ちゃいました。いやあ、デートとは青春ですねえ」
「その言い方、絶対ついてくる気ですよね。来ないでくださいよ!」
古谷さんが残念そうに言った。
「行きませんよ。私はあなたの人生を邪魔したりしません。でも、小早川さん——いい娘ですね」
「まあ、それはそうですけど」
「ところで、田中さん。あなたの会社の裏の問題——だいぶ見えてきました」
「裏の問題ですか」
(そういえば今日、やけに総務や人事の連中が落ち着きなかったな)
「はい。今日、人事の一部が不自然にざわついていました。内部告発があったのかと思いましたが、どうやら違いました」
古谷さんの表情が、どこか重い。
「どうも、親会社から調査員らしき人が、人事に配属されたみたいです」
「調査員ですか」
「建前は、親会社との人事交流ですけどね。温和な雰囲気ですが、仕事のできるタイプに見えました。田中さん。親会社から極秘で調査が入るということは、なにか起こるかもしれませんよ」
俺は背筋が、ぞくりとした。
(なんだ——なにが起きてるんだ……)




