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過労死寸前だった営業マン、幽霊を味方に成り上がる  作者: ゲンタ
第1章 ミナト精密パーツ 営業マン

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第21話 俺の人生はようやく動き始めたかもしれない

朝のさわやかな目覚めと言いたいところだが——不動の決意をしたというのに、なぜか胸がざわつく。


床に置いた鞄に目がいく。

その中には、昨夜書き上げた退職届が入っていた。


白い封筒一枚。

ただの紙切れ。

それなのに、自分の人生を丸ごと動かしてしまう。

そんな重さを感じた。


いつものように、スーツ姿の古谷さんが、テーブルの椅子からこちらを見ていた。

「田中さん。迷っていますか」


「迷ってないと言えば嘘になります」


「普通は迷うものです。しかし、昨日のあなたの判断は正しいといえます」


(そうなんですけど——やっぱり怖いです)


「大丈夫です。誰でもそうですから。退職届の提出は勢いが必要なんです。心の準備が整うまで、タイミングを待ちましょう」


「タイミングですか」


古谷さんは微笑んだ。


***


会社に向かう足取りは、いつもより遅かった。

鞄の中の退職届が、まるで重りになっているようだ。


(提出するタイミング——どうしよう。部長とは、話をしたことないんだよな)

そんな思考を抱えたまま、営業フロアに入ると異様な空気を感じた。


「ちょっと……!」


「また課長が……!」


「いくらなんでも小早川さん、可哀想……!」


社員たちの小声が飛び交っていた。

嫌な予感しかしない。

そして——見てしまった。


小早川さんが、泣いていた。

机の横でうずくまり、ハンカチを握り締めていた。


肩が震えていて、声にならない声が漏れていた。

その正面で、荒木課長が不機嫌そうに腕を組んでいる。


「だからさぁ、そんなに大げさにするなよ。コミュニケーションを取ろうと、飲みに誘っただけだろ。上司が部下とコミュニケーションを取る——普通のことだろ」


「……っ……もう——やめてください!」


(ふざけんなよ——荒木……!)


怒りが胃の奥でぐらぐら煮える。

そこへ、部長が慌ててやってきた。

「荒木、これはどういうことだ!」


社員たちは関わりにならないように気配を消す。

しかし、耳だけはそばだてている。

(小動物か! なんなんだ——この会社は! この職場は!)


「や、山城部長。これはですね——まったくの誤解でして。部下との意思疎通の一環でして……」


「女性社員を泣かせて、誤解では通らないぞ」


部長の低い声に、周囲の空気が凍りついた。


(荒木を、さっさと切れよ!)

(でも、部長はやらないだろう——課長の不祥事は部長のミス。やるはずない)


そのとき——。

背後から、古谷さんの声が聞こえた。

「田中さん。小早川さんが危ないです。あなたが辞めたら、彼女を守る人がいなくなります。だから——私は動きます」


「え、動くって……姿を見せるのはだめですよ。会社に幽霊が出るなんて——大パニックになりますから」


「短時間だけ、他人に乗り移れる能力を使います。ちょっと乱暴にやっちゃいますよ。私も我慢の限界ですから——」


「え、ちょっと——待って! 乱暴って」


しかし遅かった。


***


古谷さんが、荒木課長に入り込んだのだろうか——一瞬、周囲の空気が歪んだ気がする。


そして——荒木の目が、ガッと見開かれた。

次の瞬間。

「うるさいんだよ、このカス部長——!」


怒号が響いた。

場が一瞬で凍る。


「俺がなに言おうと勝手だろうが——! お前な、同期の俺より先に部長になったからって、偉そうにすんじゃねえよ——!」


(え、え、え、古谷さん——やりすぎでは……)


周囲の社員がざわつき、口を覆う者までいる。

そして——。


荒木の拳が振り上がった——。

ドゴッ。

部長の肩に拳が当たる。


「——っ……!」

部長は、よろめきすらしない。


所詮、セクハラ課長のへなちょこパンチだ。

周囲の社員が慌てて部長の前に立ち、盾のように取り囲む。


その瞬間、荒木の身体から、スッと古谷さんが抜け出した。

荒木は呆然とし、腕を震わせていた。


「——え……? どうなったんだ——。なんで、こんなことに」


部長が、ゆっくりと顔を上げた。

冷静な、しかし背筋が凍るほどの迫力で言う。


「今の行為の意味——わかっているな? 荒木課長!」


荒木は唇を震わせ、意味不明な言い訳をしようとする。

「ち、違うんです部長——私は……誰かが、誰かを……」


「誰かのせいにしても無駄だ。ここには目撃者が大勢いる」


社員たちは静まりかえる。


とっさに盾のように取り囲んだ社員たちの中には、心配そうな顔の者もいれば、この機会に部長への忠誠をアピールしようと、目を光らせている者もいた。

(うわ……人間って、こういう瞬間に本性が出るな)


部長は淡々と言った。

「会社の顧問弁護士にも確認するが、これは懲戒免職一歩手前の事案だ。君の処分は社長判断になるだろう。悪いことは言わない。早めに自主退職を申し出た方がいいぞ」


荒木は膝から崩れ落ちそうになりながら、震えていた。


***


その光景を目の当たりにして——俺の中の迷いは、跡形もなく消し飛んだ。

(今だ。ここしかない)


部長がこちらを向いたタイミングで、歩み寄る。

「部長。お話の途中すみません。退職届を提出いたします」


静まり返るフロア。

全員がこちらを見た。


「毎日、荒木課長から自分の仕事を押しつけられてきました。これ以上やっていく自信がありません」

部長は驚いた顔をしたが、すぐに静かに頷いた。


「君のことは知っていた。いろんな経験が君の成長になると思っていたんだがな。残念だ。しかし——君の意志は尊重しよう」


(知っていたのか——知っていたなら……止めさせろよ)


胸の奥から、じわっと怒りが湧いたが、『辞める決断をして正解だった』という確信が湧き上がってきた。


ふと視線を感じる。

小早川さんからだ。


涙で潤んだ瞳のまま、小さく拳を握って、心配そうに俺を見つめていた。

その顔を見た瞬間、胸の奥に静かな火が灯った。


(俺はもう——この会社には縛られない)

俺は、部長に退職届を手渡した。


(この日、俺の人生はようやく動き始めたかもしれない)


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