第20話 俺は、自分の人生を取り返しに行く
夜。自宅に戻ると、靴を脱ぐ気力もなくなる。
そのまま、玄関に座り込んだ。
「お帰りなさい。ずいぶんとお疲れですね」
「今日、荒木課長のやつ、新規営業開拓プランの第2弾とか言い始めたんですよ。まだ第1弾も終わってないのに——」
「仕事は、雪だるまみたいなものです。みんなが協力して少しずつ転がしていくと、やがて大きな雪だるまになる。大きな事業、会社に育っていくものなんです。でも、田中さんの会社では、その雪だるま、ちゃんとみんなで転がして、育てていません」
「俺に命じられる雪だるまは、意味のない雪だるまです。課長が踏んづけて終わり。他の社員もそれがわかっているから、なにもしない。作れと言われれば、みんなが俺の方に振ってくるんです」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、古谷さんが静かに言った。
「田中さん。そろそろ、決断のときではありませんか?」
「決断……ですか」
「ミナト精密パーツを、辞める決断です」
言葉が、喉に刺さった。
「これは——前にも聞きました。今の会社にずっと勤め続けたいですか?」
「……」
「決断しましょう」
「決めました、辞めます。正直、これ以上、あの会社にいたら、いつか壊れます。体か、心か、両方か——そこまでして、あの会社にしがみつく意味はないです」
きっぱりと自分の口から、『辞めます』という言葉が出たことに、自分自身が驚いた。
(宣言したことで——なんかホッとしている)
「おめでとうございます。決断の次は手続きです」
「手続き?」
「退職届の書き方を教えます。真面目に辞める準備をしましょう」
***
古谷さんは、まるで現役の総務課長のような口調で、説明を始めてくれた。
「まず、日付は提出する日付を書きます。宛名は会社の代表取締役。所属部署と自分の名前。そして、理由は『一身上の都合により』で十分です」
「会社辞めるの——そんな簡単でいいんですか? こんな大変な思いで働いているのに——!」
「退職理由を正直に書く人はいません。『上司がパワハラで、魂がすり減ったため』などと書いたら、いろいろと問題になりますから」
「ですよね」
「大事なのは、感情ではなく、形式をきちんと整えることです。感情をぶつけてはだめです」
(確かにな——作法どおり、淡々と書けばいいだけなんだ)
「提出のタイミングはどうすれば」
「できれば月初。遅くとも1か月前には出すのが礼儀とされます。ただし、あなたの場合は、あまり長く引き延ばすと体が持たないかもしれません」
「そうです。そのとおり」
「退職の話は、荒木課長を飛び越えて、その上の部長か人事に直接話を通す方がいいでしょうね」
「課長に、ケンカ売っているみたいに、なりませんか」
「荒木さんに提出すると『受理してやるから、もっと働け』となる可能性が高いです」
「そうですね。可能性大です」
(容易に想像できるところが、余計に腹が立つ)
***
一通り説明を聞き終えると、古谷さんは少しだけ表情を変えた。
「もう一つ、提案があります」
「まだ、なにかあるんですか」
「退職した後です。どうしますか。無職になるだけだと、社会との繋がりが切れてしまいますけど、それで良いですか」
「そう言われると、『辞めてなにをする』とか、まったく考えていませんでした。辞める決断するだけで、精一杯で……」
「そうですね——例えば、投資顧問会社なんかを、設立してはどうですか」
「投資顧問会社ですか?」
古谷さんは、少し胸を張って言った。
「私が潜入して集める情報と、あなたが身につけた経験を活用すれば、個人投資家にアドバイスするビジネスができますよ。もちろん、まったく違う会社でもいいです。大事なのは、自分の会社を作ることです」
「俺が——会社を作る……」
「そうです。会社を作りましょう。投資顧問会社というのは、例えばの話です」
「え——と……どうすれば?」
「例えば、投資顧問会社にするのであれば、会社の定款に『投資および資産運用に関する業務』と書いておけば大丈夫です。定款に記載する事業内容は、後で変更できます。まったく別の事業にしてしまってもいいです」
「そんな気軽でいいんですか? 会社って——決死の覚悟とか、命がけでやり遂げるとか、そういう意気込みで経営するものだと思っていました」
「気軽でいいんです。会社とは器にすぎません。あなたがその器に、なにを入れるのかは自由です」
「会社って——そんなに自由なんですね……」
「そうです。誰でも作れるし、なにをやるかも自由。田中さん、あなたは会社に雇われる人生しか知らなかった。しかし雇う側にも回れるんですよ。ようこそ、自由な世界へです」
思わず、笑ってしまった。
(なにか、目の前の扉が開いた気がする)
「いや、でも……投資顧問はダメでしょう。インサイダー情報の切り売りなんて、リスク爆上がりです。逮捕されます」
「面白そうですけどね」
「いやいや——逮捕されるのは俺ですから」
古谷さんは、優しい目をして笑っていた。
(この会話を通じて、俺に新しい世界を教えてくれようとしている)
(なんといい出会いだったことか)
「大事なのは、会社を通じて『自分の強みを活かして自由に生きる』ということです」
「自分の強み? 自由に——?」
「あなたは、課長に指示された作業を、ただ真面目にこなしてきた。そこには自分の強みはないかもしれない」
少し間を置いて、古谷さんが続けた。
「だが、株式投資を成功させるために、会社の決算の数字を読み、経営の成否を自分で判断できるようになった。そして、成果も上げてきた。これは立派な強みです」
「いやそれ全部、古谷さんに教わったとおりにやっただけですよ」
「会社の数字を読み、経営の成否を判断したのはあなたです。それをもとに決断し、株を買ったのもあなた。儲けたのもあなたです」
(そう言われると、なんだか、少しだけ胸を張っていいような)
しばらく黙っていたが、やがて深呼吸をして言った。
「会社を作りたいと思います。でも——逮捕はイヤですから。どういう仕事をするかは慎重に決めたいと思います」
古谷さんは、ゆっくりと頷いた。
「まず最初は、自分の資産を運用する会社を作りましょう。そして、資金を増やしましょう」
「資金を——」
「はい。数年は食べていける資金を、投資で稼ぎましょう。あなたはもう相場のリズムを掴めています。無理な取引さえしなければ、それくらいは十分に稼げます」
「投資で、これから食べていける資金を稼ぐ——」
「まずは資金を増やして、会社を安定させる。じっくり稼げばいい。急いではダメです。資金が増えれば、あなたはその分だけ、自由に生きられる力を手に入れることができます」
(自由に生きるか——!)
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
古谷さんが微笑んだ。
「田中さん。真面目な人間こそが、自由を手に入れるべきなんです」
俺は、大きく頷いた。
「わかりました。会社を作ります。まずは当面の生活費、いや、資金を、じっくりと株で稼ぎます」
その瞬間、肩の重さがふっと軽くなった気がした。
(人生って——こんな選択肢もあったんだ)
古谷さんが小さく拍手をした。
「いい決断をしました。自由を目指す。それが、あなたらしい新しい生き方です」
「田中さん。株式投資でお金を増やす秘訣は、お金が増えても減っても、心を乱さないこと。お金の動きは、数字の動きに過ぎないと思い込むのです。前に言った明鏡止水が極意です」
「極意の伝授ですか——でも、うまくやれるか心配です」
「最初は誰でもそうです。しかし、人は慣れます。真面目にやれば……」
「そういうものですか」
***
「今から、退職届を書くことにします。会社を辞めて、自由を手に入れます」
「いい決断です。自由を掴んでください」
(でも、俺が辞めたら——小早川さん、どう思うだろ)
(課長のセクハラ攻撃——彼女は大丈夫かな)
机に向かい、白い紙を一枚取り出す。
震える手で、ゆっくりとペンを走らせた。
退職届。
その二文字が、思ったよりもずっと重く見えた。
(逃げるんじゃない! 選択するんだ。自由を手に入れるぞ)
胸の奥で、なにかが静かにほどけていく感覚があった。
(荒木の引き止めや、嫌がらせがあっても、絶対辞めてやる)
今までのように、進む先も見ないまま、死ぬほど真面目に働くことは、人生を真面目に生きることではなかったのだ。
(俺は、自分の人生を取り返しに行く)




