第19話 古谷さんより、俺の方が幽霊みたいだ
また朝が来たか——会社に行かなくちゃな。
でも、待てよ。
『行かなくちゃ』としか思えない会社に、なんで俺は、今も勤めているんだろう。
それでも——『地獄の一日が始まる』という、あの重たい気持ちは、少しずつ薄れてきていた。
理由ははっきりしている。
あれから、口座の残高が、毎日のように、静かに、しかし確実に膨らんでいるからだ。
投じる額が大きくなれば、利益もそれに比例して跳ね上がっていく。
残高は、すでに2,500万円を超えていた。
数字が積み上がるたび、反比例するように——会社の存在感が、急速に薄れていく。
俺の人生の重心が、職場から、少しずつ離れ始めていた。
スーツ姿の古谷さんが、テーブルの椅子からこちらを見ている。
「おはようございます。相変わらず顔色がよくありませんね」
「最近ずっと残業続きで——体力ゲージ、もう赤点滅してます」
「課長さんの軽い仕事と言う名の、無限、無茶振り攻撃ですね」
「そうです。新規営業開拓プランだけで、A4ファイル二冊分ありますから」
「それはもう、軽いとは言いませんよ。高負荷筋トレです。間違えると、筋肉が怪我する危険なやつです」
(筋肉痛じゃなくて——心が折れちゃったら、どうなるんだろう)
***
会社に着くと、俺の机の上には見慣れた光景。
資料の山。
付箋の色はカラフルだが、書いてあるコメントは同じ。
『田中くん、よろしく』だ。
それに混ざって『大至急』『今日中』が追記されてる。
(やらせる側は——気楽なもんだ)
そこへ、じとーとした雰囲気で課長がやってきた。
「おはよう、田中くん。例の新規営業開拓プラン、どこまで進んでるかな」
「昨日、いただいたばかりですが——」
「そうかそうか、やっぱり若いと飲み込みが早いな。やる気満々でよろしい。若いうちは、経験こそ財産だ。頑張れば、君も管理職」
「……そ、そうですか」
(将来って、長くこの会社にいるつもりはないけど)
そして、課長のやつ、こともあろうか、さらに仕事を積み上げようとする。
「忘れるところだった。潜在顧客リストの傾向について、まとめておいてくれ。なに、これは暇なときでいいからな」
「暇なとき——ですか?」
「そうそう、合間でいいから。残業時間をうまく使ってさ——期待してるよ」
(過労死させる気か!)
机の上に積まれた書類の山が、富士山からエベレストになった気がした。
***
午前中は、ほとんど機械のように手だけを動かし続けていた。
頭はぼんやりしているのに、体は条件反射でキーボードを叩いていた。
(これ、今やる必要ないよな。今期の売上と関係ないんだけど)
(俺の雑用処理能力、身につけて、なんかの役に立つのかな)
「こんなの——知るか。全部、お前の仕事だろ——」と大声で叫びたい。
しかし、口に出す勇気がない。
揉め事、イライラした職場の雰囲気、そんなことになるなら、俺が仕事をやってしまおう。悲しいかな、俺はそういう人間。
平和主義者、いや、ことなかれ主義だ。
モニター画面右下の時計の数字が、やけに遅く感じた。
つい、スマホを取り出しそうになる。
(株価を、評価額を見たい——現実から逃避したい)
その気配を察したのか、古谷さんが静かに声をかけてきた。
「現実逃避ですか、気持ちはわかります。でも株価は何度も見ちゃダメです」
俺は、誰にも聞こえないように呟く。
「唯一の、ストレス解消なんです」
「気持ちが揺れているときに、株価を見ると、たいてい間違った判断をしてしまいます。つい衝動的に売ったり、買ったり。後で、後悔の十倍返しが来ます」
「そうですね。止めときます」
***
昼休み。
社員食堂のざわめきの中でも、俺の耳は別の音に敏感に反応していた。
「小早川くん、今夜空いてる? ちょっと美味いものでも……どうだろ」
ねっとりとした課長の声。
(パワハラ・セクハラだろ)
「すみません、今日は友人と約束が……」
「友人って、男? 女? どっちかな」
「もう、そういうの——止めてもらえませんか」
「知っていると思うけど——君の人事評価シート、最高にも最低にも、俺の匙加減一つなんだけどな」
周囲の社員たちは、聞こえないふりをしながら、しっかり聞いている。
箸の動きが、わずかにぎこちなくなるが、誰も口を挟まない。
他人の不幸は蜜の味とまではいかないが、知らないフリだ。
(パワハラ・セクハラ課長——もう、いい加減にしろ)
俺と目が合った同僚が、すぐに視線を逸らした。
『一切関わりたくない』という意志表示だ。
最近、職場のひとの態度が変わりつつあった。
俺に仕事を押しつけてきていた先輩たちも、距離をとるようになってきていた。
「この案件、田中に振っても大丈夫かな?」
「やめとけ——。あいつ、課長と変なことになっているだろ。巻き込まれれるぞ」
そんな会話が、廊下ですれ違うときに聞こえてくるようになった。
(『変なこと』ってなんだよ——どういう噂が流れてんだ)
小早川さんだけが、相変わらず俺に声をかけてくれた。
「田中さん、さっきの課長の話——聞こえてましたよね」
「聞こえてました。完全にセクハラです」
「正直、怖いんですよ。あの人の機嫌を損ねたら、本当になにされるかわからないです。ああいうひとは、歯止めがきかないタイプですよね」
「……」
「でも、この会社で働くには、それに耐えるしかないのかなって……思っちゃう自分もいて、それが一番イヤなんですけど」
(ああ、わかる。その気持ち、痛いほどわかる)
なにか言おうとして、喉が詰まった。
言葉が出ない。
***
午後になると、体の疲れはピークに達していた。
パソコンの画面が二重に見える。
「田中くん、その資料、今日中だぞ。明日の朝イチで部長に出すからな!」
課長の声だけが妙にクリアに耳に入る。
「わかりました」
(体がもう限界だ! なんで『わかりました』と返事するんだ)
夕方、トイレで鏡を見ると、鏡に映っているのは、スーツを着た疲れ果てた会社員の姿だった。
古谷さんより、俺の方が幽霊みたいだ。
(俺、まだ生きてるよな! 死んでないよな!)
(幽霊と暮らしていたら、自分も幽霊になりましたとか、笑えないんだけど)
個室に入り、スマホを開く。
株価アプリの数字は、相変わらず右肩上がりのチャートを示している。
(また見てしまった。また現実逃避している。もうそろそろ限界だな)
いくらまで増えたら、この会社を辞められるんだろう。
その言葉が、俺の頭の中をぐるぐる回っていた。




