第18話 自分の心に恥じない生き方
カーテンの隙間から差し込む朝日がやけにまぶしい。
(いつもと違う。朝日なんて気にしたこともなかったのに)
枕元のスマホを手に取る。
画面には、確かに残高464万円。
まるで昨日の出来事が、幻だったかのような気がするが現実だ。
「おはようございます。利益の余韻、楽しんでますね」
「ええ、まあ……でも、なんか変な気分です。『ポチポチ』だけで、1ヶ月分の手取り収入を超えて稼げたんですから」
「それこそが、資本主義というものです。真面目さを、情報と決断が追い越しました」
「でも、『ポチポチ』で追い越すのって——ズルくないですか?」
古谷さんは、少しだけ笑った。
「ズルいと思うのは、真面目な証拠。でも、それでいいじゃないですか」
(出た、古谷さんの真面目論! 納得できるような……できないような)
***
出勤の準備をしながら、心の中では小さな葛藤が続いていた。
(『別の銘柄ポチポチ』で、もっとお金を増やしたい)
(儲けたお金は失いたくない。この辺りで撤退するのが正解)
「田中さん。もう次の銘柄を探したくなっていませんか」
「もっと儲けたい気持ちと、儲けたお金を一円も失いたくない気持ちが、葛藤してます」
「儲けた人間は、必ず次の儲けを期待します。それでいいんです! 肝心なのは、どのトレードにも、理性と規律が持ち込めるかが分かれ目です。真面目で規律あるトレードが勝率を上げます」
「理性と規律——俺に、それを保てる自信、正直ないです」
(社畜になる自信ならあるけど)
***
会社に着くと、机の上には今日も書類の山が。
課長の字で『田中くん、よろしく』の付箋が貼られていた。
「これ、全部、今日中ですか……」
「おう。若いんだから頑張れ。期待されている証拠だ」
「……は、い」
(また断れなかった——ホント情けない)
午前中、作業を進めながらも、頭の片隅では、株のことが離れなかった。
A社の株をもう持っていないのに、チャートを見たくなる。
(売って正解だったのか——確かめたくなる。でも見ないぞ)
数字の上下を想像するだけで、胸がざわついた。
ドーパミン放出。
(ギャンブルじゃないんだから——理性、理性、自制心!)
俺の表情を読んだ古谷さんのアドバイスが届いた。
「田中さん、それが『お金の後遺症』というものです」
「病気みたいに言わないでくださいよ」
「実際、依存性がありますからね。真面目なひとほど、重症化しやすいんです」
(真面目なひとほど重症化って——株じゃなくて、俺の会社人生そのものか)
***
昼休み。
社員食堂では、正面の席に座っている小早川さんが、こちらを覗き込む。
「田中さん、今日も顔が疲れていますね。無理していませんか? ダメですよ、仕事の抱え込みは——」
心配そうな顔で、じっとこちらを見つめてくる。
(心が暖かくなるな)
「えぇっと、寝不足でして……」
(『人生初の株トレードで心底疲れました』とは言えないよな)
「また課長に、仕事を押しつけられてましたね」
「まあ、いつものことです。慣れてます」
「慣れちゃダメですよ!」
(その言葉、胸に刺さる——でも、もっと心配してほしいような……)
古谷さんが隣で静かに言った。
「彼女、いい娘ですね。あなたを心配してくれています」
「余計なこと言わないでください」
***
その夜、帰宅すると古谷さんが真剣な顔で言った。
「田中さん。『お金さえあれば、会社になんか行かない』とか思いませんか」
「……いや、それは違うと思います」
「なぜです」
「真面目に働くって、大事じゃないですか。『社会に参加しているって思えることが大事です』って、テレビのコメンテーターが言っていました」
「『社会に参加していると実感する働き方』と『自分をすり減らす働き方』は、同じ仕事でも種類が違うんです」
「それは……」
言葉が詰まった。
「私は、真面目に働きすぎて命を落としました。でも職場も社会も、誰もそんなことを覚えてはいません。田中さんに『いつの間にか記憶から消えていく側』には、回ってほしくないんです」
(古谷さん……その言葉、胸に刺さります)
「お金は万能じゃありません。でも……選ぶ権利はくれます。嫌な上司に頭を下げなくていい。無理な仕事を断ることができる。誰からも縛られず、コツコツと真面目に生きる自由を、手に入れることができます」
「……でも、俺、会社辞めたら自分がダメになる気がします」
「ダメになっていくのは、なにも考えずに働き続ける方です。田中さんは、こうして私と話し、疑問を持とうとしている。それだけで、自分を守れる余白があるんです」
(そう言われると、そうだけど)
「田中さん、今の会社に勤め続けたいですか?」
「本音を言えば、もう限界です。断れないのも、弱いのも自分のせいです。でも——このまま続けたら、きっとどこかで壊れます」
「であれば、もっとお金を増やしましょう」
「増やすって——やっぱり株ですよね」
「もちろんです。ただし今度は、『ファンドの銘柄選定会議に潜入』ではありません。そういうのは頻度も少ないです。もっと実戦的な場所があります」
「実戦的……?」
「大手証券会社の自己売買部門です。専業トレーダーが会社の資金で、毎日、何百億も売り買いしている部署です」
「そんな場所に、どうやって……?」
「私は壁も扉も関係ありません。彼らの背後から、どの銘柄の板を見ているか、どんな注文を入れようとしているか、すべて覗けます」
「いや、それ、アウトじゃないですか? ……いや待てよ、『幽霊の通り道で、たまたま見聞きしただけ』理論なら——セーフか……?」
「そのとおり! しかも幽霊である私が、たまたま呟いた話ですよ。なんの問題がありますか」
少し間を置いて、古谷さんの説明が続いた。
「彼らは市場のメインプレーヤーです。彼らの動き次第で銘柄は上にも下にも動きます。彼らの動向を掴めば、勝てる確率はぐっと上がります。田中さんが、真面目に過労死しても、誰も褒めてくれませんが、情報を掴めば人生は変わります」
(古谷さん、さらりと言うな)
「前回は田中さんの経験のためと思い、ファンドの会議に一緒に行きましたが、これからは、私ひとりで十分です。トレーダーたちの、なにげない会話や、株の仕込み状況を知れば、上がりそうな銘柄なんかは、すぐにわかります」
「ありがとうございます。俺も——だんだん、そういう気になってきました。古谷さん、よろしくお願いします」
***
その後——。
古谷さんは、毎日のように、専業トレーダーたちの部屋に潜入して、情報を集めてきた。
俺は指示通りに売買を繰り返していく。
最初は怖かった——でも、数字が増えるたびに、その気持は麻痺していった。
半年も過ぎると、口座残高は2,200万円を超えていた。
(口座残高が増加するのと反比例して、俺の中の会社の重みが低下している)
けれど、会社での日常はなにも変わらない。
課長は相変わらず俺に仕事を押し付け、先輩社員も便乗して押し付ける。
すでに職場では、俺はそういう人間だとして認定されつつある。
唯一心配してくれるのは、小早川さんだけだった。
(なんで俺なんかに——とも思うけど、会社での唯一の救いになっている)
「田中さん、ほんとに無理しないでくださいね。課長、最近さらに辛く当たってますね」
「気にしないで、頑張ります」
(小早川さんの声って……優しいよな)
(この人が困ったときは——絶対に助ける)
その小早川さんに、課長が近づいてきた。
「小早川くん、今度の出張、二人でどうだろ」
「え、あの、それは——さすがに、ちょっと」
「いいじゃないか。勤務評価が上がるよ」
(出た——最低、セクハラ上司!)
古谷さんからの声が聞こえてきた。
「真面目な人が黙れば、社会は腐ってしまいます」
(逃げたら、俺は一生このままだ。ここは言わないと——!)
俺は、立ち上がった。
「課長、この書類、お返ししていいですか? ずいぶん暇そうなので——!」
荒木が振り返る。
目の奥に、怒りと驚きが混ざっていた。
「……ほう、言うようになったな」
(怖いけど、言えた。これでいい)
小早川は、俺の手の震えに気づいたが、知らないフリをすることにした。
「田中さん、ありがとうございます」
***
夜。部屋に戻ると古谷さんが笑っていた。
「よく言えましたね。真面目パワーが、初めて正しい方向に使われました」
「言った瞬間、手が震えましたけどね」
「震えながらでも、言えたじゃないですか。それでいいんです。真面目に生きるとは、黙ることじゃありません」
俺は静かに笑った。
ベランダの外、夜風が少し冷たかった。
(真面目に生きるって、誰かの期待に応えることじゃないよな。自分の心に恥じない生き方のことかもしれない)




