第14話 俺は、ひたすら震える子羊だよ
ファンド・会議室。
「すみません、ひとつ確認してもよろしいですか?」
「ん? なんだね」
「A社は売上を伸ばしていますが、利益率の伸びが鈍化しているように見えます。それを、成長株として扱ってもよろしいのでしょうか」
会議室の空気がピンと張りつめた。
沈黙。
(うちの会社だと、若手への総攻撃開始パターンだけど。大丈夫か彼女は)
微妙な緊張とともに、リーダーが少し考えるような間を置いた。
「なるほど……鋭い指摘だね。マーケットというのは、数字よりストーリーで動く。A社には、成長のストーリーがある。そこが重要なんだよ。夢見るストーリーが、描けなければ株価は上がらない。これは基本のき……だぞ」
「勉強になります。ありがとうございます」
女性社員は、納得した様子で頷き、メモを取っている。
(あれ……怒られない? というか、ちゃんと教えてくれるのか)
リーダーは続けて、他の社員にも問いかけた。
「他に、懸念点がある人間は? ここで疑問を潰しておかないと、後で高くつく」
数人が、次々と手を挙げる。
誰も、顔色をうかがっていない。
(この空気……なんだろう。ピリついてるのに、誰も萎縮してない)
やがて、リーダーが、話を締めくくるように言った。
「では、A社で確定だ。段階的に仕込みに入ってくれ。もちろん、このことは口外厳禁だ! そして、仕込み段階の動きがバレないよう、出来高に気をつけろよ」
「はい!」という返事が、会議室にこだました。
「さっきの指摘、良かったぞ。おかげで、リスクの説明資料に厚みが出る」
リーダーが、最初に質問した女性社員に声をかけた。
「ありがとうございます」
彼女は小さく頭を下げた。
(意見を言っても、否定もされず、褒められた……)
(真面目に仕事に向き合うことが、ちゃんと報われる職場って、あるんだな)
胸の奥が、ちくりとした。
羨ましい、という感情に、名前をつけるとしたら、たぶんこれだ。
俺が、そんなことを考えていると、古谷さんがぼそりと呟いた。
「いい職場ですね」
「ほんとに羨ましいです」
「ところで——あのリーダーは、『株価というのが、欲と恐怖で決まる』という原理を良くわかっていましたね」
「なんか、詳しすぎません。古谷さん、本当に公務員だったんですか」
「まあ、株は趣味みたいなもので……少しだけ……」
(まあ、そういう、株マニア的なひとは結構いるからな……)
***
マンションに戻ると、古谷さんは珍しく上機嫌だった。
「A社に決まりましたね。ファンドが動けば、値上がりの可能性はかなり高いです。動かす資金量が違いますから。力技で上げてきます」
「でも、あの新人さんの言葉、少しだけ気になりました」
「疑っていては、投資なんかできません。そもそも、株に絶対はありません。確率の高いものに投資する。失敗したら、淡々と次の勝負に向かう。それだけです」
「そう言われると——余計に怖いんですけど」
「確率が高いと信じた方に賭ける。勝ち負けにはこだわらない。株とはそういうものです」
「俺にできることは、勝ち負けにはこだわらないことなんですね」
「そのとおりです。ですが、感情を持つ人間にとって、そこが一番難しいことなんです」
***
その夜。
俺は証券会社の口座を、オンラインで開設申請した。
「初心者でも簡単」と書いてあったが、マイナンバーのアップロードを三回もやり直した。
(出だしから、つまずいている。俺、ホントに凡人だな)
「もう少しです、田中さん、頑張りましょう」
古谷さんが俺の横に立って励ましてくれる。
「幽霊に見守られて株口座を作るの——俺が、世界初ですよね」
「人類の進化は、こういう挑戦から始まるのです」
「うーん。確かにそうかも」
***
1週間後、口座が開設され、アプリを開けば株取引ができるようになった。
全財産から一カ月分の生活費を除いた400万円を入金した。
貯金は結構、貯まってるんだよ——でも給料が多いわけじゃないけどね。
帰ったら寝るだけの生活、お金を使う時間はまったくなし、彼女なし、買いたいものなし、当たり前の結果だ。
(俺って、ブラック企業に向いているのかもしれないな)
心の隅で『貯金のほぼ全額を勝負して大丈夫か?』という葛藤が始まる。
最高に不安になり、決意が、ゆらゆら揺らいでいる。
ここでも「真面目にやれば失敗しません!」という古谷さんの言葉に励まされた。
(でもやはり心配。でも前に進まないと)
(ホントにいいのか——ほぼ全財産勝負。やめるなら今だけど)
同じセリフが頭の中を行ったり来たりしている。
迷いを振り払い——A社を購入を決意。
S証券のアプリを開いて、翌日の寄り付き、成り行き買い注文のボタンを押す。
ポチ。ポチ。
(注文してしまった。株、上がれ、頼む)
欲と恐怖が、俺の頭を行ったり来たり。
「始まりましたね。それが、投資というものです。これからもっと心が揺れ動きますよ。揺れ動く感情を捨てましょう。明鏡止水と、三度唱えましょう」
「明鏡止水、明鏡止水、明鏡止水」
(あまり効果がないけど——明日から大丈夫か? 俺)
***
翌日。
出社しても、仕事が手につかない。
心のなかでは……。
(1万円以上、損をしたらすぐ売ろう。いや覚悟を決めてホールドだ。迷いの感情が交錯する)
課長が、こちらをじろじろ見てくる。
勝手に休みやがって、病み上がりなんだか知らんが、ぼ——っとしやがってとでも思っているはずだ。
まあ、それならそれで好都合というものだ。
トイレに行くふりをして、スマホを確認する。
(えぇ——寄り付きで購入したA株! 下がってるじゃないか!)
(どうしよ、どうしよ。今——いったい、いくらの損だ)
(古谷さんが言ってた——この行動が一番ダメなんだ)
(明鏡止水、明鏡止水、明鏡止水。落ち着け——俺)
昼休みに株価を確認。さらに下がり続けていた。
会議での新人の意見が、頭の中を巡る。
(あの若手が正しかったのか——どうしてくれるんだ!)
場が閉まる頃には、さらに株が下がった。
帰宅して、俺は古谷さんに叫んだ。
「大変です——古谷さん。A社! 5%も下がりました。大丈夫なんですか! 損した金額が、俺の給料の手取り額に迫ってます。ひと月タダ働き確定なんですけど——」
「まず、落ち着いてください。ファンドは安く仕込むため、一時的な売り浴びせをしながら、持ち高を増やしていきます。一般投資家に仕掛ける心理戦というものです。田中さん、もうダメだと思ったでしょ? それが狙いですから」
「心理戦って——俺の心、揺れ動きすぎて、もう限界です」
「真面目に耐えるんです!」
(真面目って……)
***
夜。
布団に横になっても、目をつぶると、頭の中で株価ボードが上下を繰り返していた。
「古谷さん、A社の株——大丈夫なんですよね。ほぼ全財産を注ぎ込んでますから……」
「信じましょう。心の努力は、いつか報われます」
「努力してほしいの、株の方なんですけど」
「株に心はありません。出来高を見てください。ファンドが動けば急増します。それまで待てばいいだけです」
古谷さんの声は、どこか確信めいていた。
(『成長株として扱っていいんでしょうか』——あれ、本当に杞憂だったのかな)
(俺は、ひたすら震える子羊だよ)
天井を見上げる。
古谷さんの姿はもう見えない。




