第13話 それが資本家の匂いというものです
もう朝か!
昨日は、自分とは違う生き方をする人間を見ることができた。感じるものがあった。
あのひとが幸せなのかどうかは別にして、自分の人生の経営者になっていることだけは確かだった。
それが、少しだけ羨ましかった。
古谷さんは、今日はファンドの会議に忍び込むという。
ということは、昨日に続き、二日連続で有給申請が必要ということになった。
嘘を重ねることに、少しだけ罪悪感があるが——それでも自分を前に進ませたい。
(とはいえ、今日も課長に電話か——嫌だな)
そんなことを考えていると、ベッドの横には、すでにスーツ姿の古谷さんが立って、俺のことを心配そうに眺めていた。
(さぞかし不安そうな、嫌そうな顔なんだろな)
古谷さんが、そんな気持ちを吹き飛ばそうと元気な声で言ってくれた。
「おはようございます。今日も真面目に行動しますよ!」
「いや、俺まだ布団の中ですけど……」
「さぁ、行動開始です。気持ちが遅れないようにしましょう」
(朝から励ましてくれて、しかも世話好き。こんな幽霊、最高だよな)
でも、心の片隅には嫌な考えがいる。
俺、危険な幽霊に取り憑かれたんじゃないかって——すべてを失って、社会からドロップアウトしてしまうんじゃないかって。
そんな、情けない考えだ。
社畜だからそんな考えが浮かぶのか、そんな考えだから社畜に甘んじるのか。
とにかく前に進もう。
失敗したっていいじゃないか。
***
コーヒーを飲みながら、ゆっくりとスマホを手に取る。
目は時計の針を見続けている。
あぁ——。
二日連続の有給申請――これが今日最大の関門だ。
(電話一本が、人生最大の試練とか考えている時点で、俺は負け犬だ)
(しっかりしろ、自分の人生は自分で勝ち取れ)
古谷さん、俺の心を読んだのか。
「今日は『風邪が、まだ治ってません』でいきましょうか」
「でも——『もう熱なんか、とっくに下がってるだろう』って言われたら、いつものように押し切られそうです」
「では、『昨日より、もっと酷くなりました』でいきましょう。咳払いを交えながら」
「嘘を重ねさせるのって、すごく罪悪感を感じます」
「柔軟さも、社会人のスキルというものです」
観念して、会社に電話をかけた。
プルルル……。
(あぁ——。会社と繋がらないで……)
「はい、ミナト精密パーツでございます」
(荒木と話さないといけない——憂鬱だ)
「あ、荒木課長をお願いします」
「お待ち下さい——荒木課長、田中さんからです」
「田中か——もう治ったんだろ。遅刻とはいい度胸だな。仕事が溜まって、溜まって困ってるんだ。どうするつもりだ」
「おはようございます。すみません、まだ熱がぜんぜん下がらなくて……」
「え——まだ、治らない。営業の報告会があるんだぞ。準備——どうすんだ」
(あんたの仕事だろ。病人に、プレッシャーかけるな。あ、病人じゃなかったか)
古谷さんが、腕を組みながら目で、俺に合図してきた。
加えて、手を口の前で広げるポーズ。
『強く言え——言い切るんだ』の合図だ。
(わかるんだけど、それを言えないのが、俺だ)
「田中さん——引いたら負けです」
「で、ですが——課長……。病院で、インフルかもしれないって言われまして——会社に行くと、職場のみんなに感染っちゃいます」
「ん……。はぁ——まあ、仕方ないか。休め」
(よし、言えた。それにしても、収容所かよ——あなた、看守さんですか)
(でもこれって、荒木に2回も自分の意見を通したってことだよな)
電話を切った瞬間、古谷さんが満足げに頷いた。
「ナイス! いいです!」
(初めて歩けた子どもに、掛ける言葉みたいだな)
「インフルって嘘を言っちゃいましたけど」
「出社したときには、気合で、治しましたと言えばいいんです。課長は——田中さんが言ったことなんか覚えていません。その程度のことです」
***
俺たちは、ファンド会社が入るビルの前に立っている。
まだ9:30、ビジネスマンたちが、歩道をせかせか歩いている。
古谷さんによれば、会社の会議は、だいたい10:00からが定番らしい。
(ホントかよ——でも、今から向かえば、余裕はありそうだ)
大理石のエントランスには、金属製のロゴが。
明らかに、俺の勤める小粒企業・ミナト精密パーツのものとは格が違う。
「このビル——お金を持ってるって、空気感が漂ってますね。お金のないひと、立入禁止みたいな……」
「それが資本家の匂いというものです。吸うだけで、インフレが湧いてきます」
「そういうものですか」
「あの喫茶店にしましょうか。昨日と一緒です」
古谷さんとともに喫茶店の入口を入り、注文カウンターでコーヒーを注文する。
受け取りカウンターに置かれたコーヒーを持って、空いた席を探して座る。
「さっそく感覚をリンクしますね」
「おぉ——。昨日と同じです。自分の顔が見えます。時間が経っても、白目にならないのは、昨日、確認しましたしね」
「では、私は潜入してきます」
歩道を移動し、ビルに到着すると、人も壁もどんどんすり抜けていく。
(視界がブレる度に、軽く酔う。幽霊の移動は三半規管に悪い)
***
ファンド・会議室。
やがて、視界が安定した。
(会議室に到着したようだ)
会議室が見えた。
高そうなテーブルと、座り心地良さそうな椅子だ。
俺の会社のものとは、だいぶ違う。
十人ほどの男女がスーツ姿で並ぶ。
中央のスクリーンには『次期重点銘柄』の文字。
その下に、いくつかの企業名が並んでいる。
その一つに、目が留まった。
「A社……って?」
俺のつぶやきに、古谷さんが即答する。
「国内の半導体素材メーカーです。業績が回復傾向にあります」
「詳しいですね。本当に古谷さんって、いろんなことを知ってますよね」
「まぁ——いろいろ、ありまして……」
(古谷さんは、公務員だったはずなのに——なぜ、こんなに詳しいんだろう)
(日銀とか財務省だったのかな)
***
会議が始まった。
(それにしても、他社の会議って、どういう感じなんだろう? 興味あるな)
リーダーらしき初老の男性が立ち上がり、声を張った。
「今期、我々のデルタファンドはディフェンシブからグロースへシフトしていく方針だ。その主力候補がA社となる」
部下たちが一斉に頷いている。
(これって——まさに、お宝情報か)
(『幽霊の通り道でたまたま聞いた理論』が良いか悪いかなんて、考えるのはやめだ)
「原材料価格の下落、設備投資の拡大、そして次世代チップ需要。グロースの波は確実に来る」
(確実って、一番信用しちゃいけない言葉だって、前に古谷さんが言ってたような)
リーダーの声にうなずく社員たち。
だがその中に、一人だけ手を挙げた女性がいた。
若い。二十代後半だろうか、髪を後ろでまとめた社員。
(近い世代だな。頑張れよ)




