第11話 人生とは学びの連続です
朝がきた。
『株の天才トレーダーの部屋に忍び込む計画』とか『人生初の有給申請』とか考えていたら、緊張して眠りが浅かった。
頭のなかで、誰かと議論を戦わせ続けていたような気がした。
真面目に有給を取って——真面目に潜入する。
シンプルにそれだけ考えよう。
(違った生き方を始めようとしているのは間違いない。それでいい)
目を開けると、ベッドの横では、すでにスーツ姿の古谷さんが立っていた。
「おはようございます。いよいよ作戦決行の日がやってきましたね」
「俺以上に、気合いが入ってませんか」
「田中さんの人生の分岐点ですから。その後押しをした責任があります」
「古谷さんに、そこまで言っていただけると『頑張んないと』という気持ちになります」
***
時計を見る。
出勤するなら出かけないといけない時間がすぎていた。
秒針がゆっくり動いていた。
まだ5分が過ぎただけだ——今なら会社に間に合う。
スーツ姿のまま、時計の秒針をじっと見ていた。
早く時間が過ぎろ——早く始業時間になれ。
そうすれば覚悟が決まる。
始業時間とともに、荒木課長に電話する。
そのセリフを何度も頭の中で繰り返していた。
朝食代わりのコーヒーは、2杯目だ。
手にはスマホが握りしめている。
このスマホに荒木課長から電話がかかってきそうで……恐怖だ。
(そんなにあいつが怖いのかよ。情ないぞ)
そのまま、時計を見ながら始業時間が来るのを待っていた。
押し切られて、『まあいいか……出社』にならないよう頑張るぞ。
「田中さん。落ち着いて。『風邪をひいた』『調子が悪い』と思い込むんです。あなたは病人なんです。真面目に思い込んでください」
(真面目の使い方、絶対おかしいだろ——でも、今はそれに乗っかるしかない)
意を決し、会社に電話をかけた。
プルルル……
(あぁ——気が重い。電話が繋がらないでほしい)
「はい、ミナト精密パーツでございます」
(繋がってしまったか)
「あ、荒木課長をお願いします」
「お待ち下さい。荒木課長、田中さんからです」
「田中から電話? なんだ! 早く出社して来てもらわないと……」
「おはようございます。すみません——今朝から熱っぽくて……。今日はお休みを——」
電話の向こうで、荒木課長の息遣い『スー、ハー』が聞こえる。
(耳元の『スー、ハー』——きもいぞ!)
(課長のやつ、出社させる理由を、いろいろ考えているな)
「今日、大口の見積もりについての、打ち合わせがあったよね——田中くん! どうしても来られないのなら——君が代わりの人を頼んでくれないかな! そうしないと無責任だろ! 困るんだよ! はぁ——まったく」
(出たな、ネチネチ攻撃——こういう押しつけが、部下の心をすり減らすんだよ)
古谷さんがすぐ耳元で囁く。
「断るんです。『無理をしても会社のためにならない』と、はっきり言いましょう」
「え、えっと——申し訳ないんですが、熱が高くて……。出勤しても、ご迷惑をかけますので、今日はしっかり静養をですね……」
電話の向こうが一瞬静まり返る。
長い沈黙のあと、荒木の声が低く返ってきた。
「……そうか! じゃあ、作っている資料を送ってくれ。確認しておいてやる」
「はいっ——ありがとうございます!」
(普通、病人に資料を送れとか言うか? それに、なんで俺『ありがとう』なんて)
電話を切った瞬間、肩から力が抜けた。
汗が首筋を伝う。
(あいつと話していると、本当の病気になりそうだ)
「田中さん、よく言えました。完璧です」
古谷さんがうれしそうに拍手をしている。
「幽霊に励まされて、やっと会社を休めた俺——これってどうなんでしょ」
「何事もいい経験です。人生とは学びの連続です」
(これから、もっと学びの連続が押しかけてくる気がする)
***
9:30。
俺たちは、株の天才トレーダーが住むという高級マンションの近くに立っていた。
「ここ、いかにも金持ちが好みそうな建物だ。入口のセキュリティもしっかりしてそうだし……」
「大丈夫です。幽霊は入口の防犯カメラに写りません。完璧な仕事をお見せしますよ」
(そう言われると、なんか俺、泥棒を頼んでいるみたいな気になるんだけど)
「俺は、これ以上マンションの入口に近づくと、防犯カメラで撮影されるね」
「「田中さんは、あの喫茶店で待っていてください。座ってさえいてもらえれば、そこから感覚を共有しながら、私がトレーダーの部屋に近づいていきますので」
「わかりました」
「では一緒に、喫茶店に行きましょうか」
「そうですね……」
俺たちは、喫茶店に入った。
注文したコーヒーを持って空いた席に座った。
「じゃあ、私は行きますね。感覚をリンクしたまま移動していきますね」
「気をつけて……って、幽霊が危ない目に遭うことはないか」
俺の視界が、一瞬で古谷さんの視界に変わった。
俺の体なのに、他人が呼吸をしているような奇妙な感覚があった。
すごいスピードで、移動しているようだ。
(幽霊だもんな。物理法則関係なしだ)
(おぉ、壁を通り抜けるときの感触というか、見える世界はこうなんだ)
「壁を通過する感覚。どうです? 死なないと、経験できませんよ」
「死ぬ前に経験できた俺って、すごくことなんでしょうね」
「そんなことで満足したらダメですよ。有給取って来てるんですから」
「それもそうですね」
ところで、傍目には俺はどう見えているのかな?
平日の朝、スーツ姿で喫茶店にひとりで座り、どこか遠いところを見ながら、ブツブツと囁いている。
きっと近づきたくないだろうな。
隣の席のカップルも、心なしか椅子を少し遠ざけた気がする。
(気のせいであってほしい……いや、気のせいじゃないな、これ)
(関わっちゃいけないやつ認定されてるな)
そういえば、俺の目は今、どうなってるんだろう。
古谷さんと試したときは、確か黒目のままだったはずだ。
まさか、白目になったりしていないよな。
(そうなったら、完全に事件だぞ)
警察——いや、救急車かな。
できれば救急車にしてほしいを。
そんな俺の姿を、誰かがスマホで撮影し、SNSにでも上げようものなら——。
(俺の人生、ここで終わるんだけど)




