第10話 有給って、権利だったんですか?
「では、明日、天才の住むマンションに行きましょう。私は、リンク能力を使って、あなたと感覚を繋ぎます。でも、どの距離までリンク可能なのかわかりません。ですから、田中さんは近くの喫茶店とか、公園とかにいてもらわないといけません」
「わかりました」
「善は急げです。リンクを少し試してみましょうか」
「え、今からですか」
「善は急げ、です」
「わかりました。やってみます」
俺は古谷さんを見ているはずなのに、俺が見ているのは自分だった。
(なるほど——こうなるわけね……)
自分の目で見ているのに、自分のものじゃない感覚——不思議で、少し気持ち悪い。
「なんか、どんどん決まっていきますね。俺の考える時間はなしですか」
古谷さんは、まったく動じない。
「考えれば悩みます。決断したら悩まない。成功するための鉄則です。そして、明日は、有給休暇をとりましょう」
「有給休暇——実は、一度も取ったことがないんです」
「え」
「入社してから一度も——取り方すら、正直わかりません」
古谷さんが、一瞬、言葉を失った。
「田中さん。そこから、ですか」
「すみません。そこから、なんです」
少し休憩を挟んで、練習が始まった。
「わかりました。まずは、有給の取り方から練習しましょう」
「すぐにですか」
「善は急げ、です」
「えぇ——と、会社に電話をかければいいんですよね」
「その電話が、田中さんにとっては、一番の難関のはずです。では、私が荒木課長役をやります。電話をかけたつもりで、話してみてください」
古谷さんが、咳払いを一つして、声色を変えた。
「はい——荒木です」
「あ……えっと、田中です。今日、有給をいただきたくて——」
「理由は?」
「ちょっと待ってください。理由って、いるんですか。有給に……」
「田中さん。本番でも、絶対にそう聞かれます。理由を用意していないと、その場で押し切られますよ」
「そ、そう、ですよね……」
「では、もう一度」
「はい——荒木です」
「田中です。本日、私用がありまして、有給をいただきたいのですが」
「私用ってなんだよ」
「ええっと——身内に不幸が……」
「田中さん。『身内に不幸』は、あとで辻褄が合わなくなるので危険です。もっと当たり障りのない理由にしましょう」
「じゃあ、なんて言えば……」
「『私用で……』だけで十分です。理由まで詳しく話す義務はありません。それは、あなたの権利なのですから」
「権利? 有給って、権利だったんですか?」
「『風邪を引いてます』はダメなんですか」
「体調不良でもいいです。言いやすいでしょうから、それでいきましょう」
古谷さんが、満足げに頷いた。
「田中さん。あとは、それを本番で言えるかどうかです」
「そうなんですよ。あの荒木課長に言えるかどうか……」
「小早川さんを助けるために、『資料でしたら私が確認します!』と言い切ったじゃないですか、思い出してください」
「あのときは、必死でしたから」
「大丈夫です。田中さん、必死にやりましょう」
***
練習を終えて布団に入っても、眠気は訪れなかった。
耳の奥で、いくつもの声が重なっていた。
『目を瞑って飛び込みます』と啖呵を切った、自分の声。
『人生を変えない理由ばかり探すのは、もうやめましょう』と背中を押してくれた、古谷さんの声。
そして——その隙間から顔を出す、『引き返すのは、今のうちだぞ』と囁く、臆病な自分の声。
「田中さん」
「え、古谷さん、まだ起きてるんですか」
「起きるもなにも、幽霊は眠りませんから。いつでも話し相手ができますよ。便利でしょ」
「今日はいろいろアドバイスありがとうございました」
「世話好きなものですから……」
「世話好き幽霊なんて、最高ですよ」
「そう言っていただくとうれしいです。生きていたかいがあると……いや、死んでましたね」
そう言って、ふっと笑った気配がした。
思わず天井を見上げる。
そこにはもう姿はないけれど、気配はしっかりと残っている。
(幽霊と一緒に、株の世界に乗り出すなんて——大丈夫か俺……)
しかしなんだか、少しだけワクワクしている自分がいた。
搾取されるだけだと思っていた日々に、初めて、違う扉が見えた気がする。
——もしこの計画がうまくいったら。
俺の人生は、もう少し自由になれるのかな。
自分で、自分の人生の経営者になれるのかな。
(自分の人生の経営者を、他人に委ねてどうする)
(あんな荒木みたいなやつなんかに——)




