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風鈴の音は聞こえない  作者: あおい・ろく
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イサオが言っていたとおりその巨大な妖怪が出現したのは千秋のあがる「武蔵」のお座敷に於いてだった。いつか珠がこぼしていたうるさい客の話は聞かれなくなり千秋の様子もそれらしき気配が感じられなかったから拓馬は安心していた。ところが年の瀬も迫った或る日突然かかってきた電話がその始まりを告げたのだった。女将の珠はそのとき上品ぶった声を僅かに狂わした。その電話の相手は「武蔵」の女将であり彼女は最初にこう告げた。

「姐さんよう聞いておくれやすや。駒千代さんを指名してはるお客さんやけど今度はまた西陣のどえらい方でそれが姐さん、岩本商会の社長はんどすがな」

電話を切ったあとの珠はしばらく考え込んでいたがすぐ何食わぬ平静を取り戻すとやがて奥の間に入ってしまった。そして仏壇の前に座ると再び無言のままじっと動かなかった。気になっていた仏壇の金箔は「光臨」の店主があの日の翌日早速やってきて、うちが確かに納めさせてもうた仏壇ですと言って百年近く経っていたとはいえただで修復してくれていた。

何の因果かこのとき珠の直感はその西陣の大物がこれから先「春駒」にとっても長い贔屓筋となりそうな光明を金箔を張り替えた仏壇から感じ取っていたのかもしれなかった。

年が明けるとその金の亡者はますゝその界隈を牛耳り始めた。亡者は紛れもなく岩本商会の社長岩本梅吉であり祗園甲部のお茶屋ではその名を知らないものはなかった。しかも彼の行くお茶屋がほとんど「武蔵」となったのもお目当てが駒千代であったことはいうまでもなかった。

(にい)さんおおきに」

その日の千秋はいつもと変わりはなかったが着付けを終えたときに拓馬に眼で合図を送ったように見えた。

「おかあさん行って参ります」

「今日も大切な岩本はんとこやさかいにな。気いつけてな」

 送り出す珠の声に満悦した気配が漲っていた。

「岩本はんとこからよう呼ばれますなあ」

 拓馬は片づけながら女将に声をかけた。

「そうや。ありがたいご贔屓さんや。西陣の老舗どっさかいなあ。なんせ今や世界になんぼでもお店を出してはるちゅう噂や」

 珠は殊更前々から知っていたことのように岩本梅吉のことについて触れた。

「そいでもあのお人は女運が悪おしてなあ、これまで奥さんを三人も亡くしてはんのやで」

例によって珠の他人の噂話が始まった。

「今南禅寺でやってはる一乃井はんは最初の嫁さんやった人の長男やし…それから」

 と延々と伝え聞いたその西陣の大物の噂の数々を喋りまくった。

「ところでもうすぐ八坂はんの豆まきのことですねんけどな」 

「はあ、そうですなあ」

 節分が近づいていたこともあって女将の話は急に八坂神社の恒例の豆まきの話になった。

「えらい世のなかになりましたわ」

「何がですか?」

「この間組合のほうで話を聞きましたんやけど、これまで豆をまくのは伝統ある屋形の芸妓衆と決まってましてんけどこれからはそれにあまりこだわらないちゅうて言いおすのや」

「八坂はんの豆まきいうたら祗園界隈のいわば一大行事です。花街は花街で伝統ある屋形の芸妓衆が出てこの厄払いをしてきたもんどす。どこの芸妓はんでもええからということになったらこれまでの伝統はどないなりますのや。」

 珠は嘆いていた。伝統を盾にとって強烈に批判していた。そこには何よりも百年以上もつづく「春駒」に他を寄せ付けない驕りがあった。まるで品格を傷つけられたかのような怒りが含まれていたのである。

相槌をつづけると話が長くなる。

「なるほど色々とあるんですね」

 拓馬は急いで帰り支度を始めると玄関へ進みながら鞄から手帳を取り出していた。千秋の送った合図が頭のなかに残っていてその確認をしようと思ったのである。手帳で確認したのは千秋の出番の時刻の確認だった。これまでお互いが空いている時間に数回会っていたので今日の合図はそのことを告げている。それは明日の午前中になっていた。

「そしたら明日はまた遅出ということで」

 手帳を仕舞い玄関のたたきに下りながらまだ話のつづきのありそうな珠に向かって声をかけた。

「ごくろうはんどした」

珠の気の抜けたような声が返ってきた。


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