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第52話 工房を出る夜

森へ入って。


 最初に分かったことがある。



 道がない。



 正確には。


 あった。



 獣が通る道。


 虫が通る道。


 根が地面を割って作った、転ぶための道。



 人間と。


 卵には。


 優しくない。



「足元、かなり悪いですね」



 ミミルが。


 低い枝を避けた。



 携帯ゆりかごが。


 大きく傾く。



 俺は。


 布の中で転がった。



 ごつ。



 殻が。


 木枠に当たる。



 痛い。



「ごめんなさい」



 ミミルが。


 慌てて俺を支えた。



 俺は一度。


 震えた。



 ぶる。



 はい。



 大丈夫だ。



 今ので通じたかは。


 分からない。



「大丈夫、ですか?」



 通じていなかった。



 俺は。


 もう一度震えた。



 ぶる。



 はい。



「……よかった」



 合図は。


 まだ新しい。



 一回が、はい。


 二回が、いいえ。



 簡単だ。



 簡単なのに。


 俺たちは何度も確かめる。



 前の俺なら。


 もっと別の伝え方ができたのだろうか。



 分からない。



 忘れたものは。


 思い出せない。



 今は。


 一回震えるところからだ。



 ミミルは。


 森の奥を見た。



 朝日が昇っているはずなのに。


 木々の下は薄暗い。



「まず、水場を探します」



 ぶる。



「そのあと、雨を避けられる場所です」



 ぶる。



「できれば、魔物が出なくて、薬草があって、火を使えて、追手にも見つからない場所がいいですね」



 俺は。


 震えなかった。



 そんな場所。



 あるなら。


 すでに誰かが住んでいる。



 ミミルも。


 少し黙った。



「……一つずつにしましょう」



 ぶる。



 はい。



 現実は。


 一つずつだ。



 三日分の食料。


 水は半日分。


 寝床はない。



 俺は腐毒を漏らす。



 森の魔物が。


 どれくらい強いかも分からない。



 かなり。


 終わっている。



 それでも。


 街へ戻るよりはいい。



 少なくとも。


 森の木は。


 俺を資産とは呼ばない。



 たぶん。



 歩き始めて。


 しばらくした。



 かさ。



 鞄の中で。


 何かが鳴った。



 ミミルが止まる。



 俺も。


 ゆりかごの中で動きを止めた。



 かさ。



 また。



 薬瓶の音ではない。



 紙でもない。



 硬いものが。


 布を擦っている。



「何でしょう」



 ミミルが。


 鞄を下ろした。



 木の根元。


 落ち葉の上。



 中身を。


 一つずつ取り出す。



 包帯。


 小鍋。


 乾燥パン。


 薬包。


 記憶殻の研究記録。



 工房から。


 持ち出したもの。



 少ない。



 少ないのに。


 見覚えのない光があった。



 鞄の底。



 縫い目の隙間で。



 何かが。


 淡く光っている。



「これは……」



 ミミルの指が。


 止まった。



 小さな金属片。



 爪の先ほどしかない。



 端が折れて。


 細い術式の線が残っている。



 俺にも。


 見覚えがあった。



 捕獲具。



 俺を捕まえた。


 あれの欠片だ。



「捨てたはずです」



 ミミルが。


 低く言った。



 そうだ。



 工房へ持ち込んだあと。


 危険だからと分けた。



 記録を取って。


 封じて。


 最後には処分した。



 少なくとも。


 俺が覚えている範囲では。



 いや。



 俺の覚えている範囲は。


 信用できない。



 それでも。


 ミミルの顔を見れば分かる。



 これは。


 ここにあるはずがない。



 金属片の光が。


 少し強くなった。



 俺が。


 近くにいるからだ。



 離れていると。


 薄い。



 ミミルが俺へ近づけると。


 明るくなる。



 間違いない。



 こいつは。


 俺に反応している。



「まだ、術式が生きています」



 ミミルが。


 息を殺した。



「欠けているのに」



 終わっている。



 道具は壊した。



 欠片は捨てた。



 なのに。


 向こうは。


 まだ俺を探している。



 白い外套。


 街の向こうに見えた騎馬。



 あれが。


 頭に浮かんだ。



 俺は。


 二度震えた。



 ぶる。


 ぶる。



「持っていくのは嫌、ですね?」



 ぶる。



「私もです」



 ミミルは。


 金属片を落ち葉へ置いた。



 そのまま離れようとして。



 止まった。



「でも、ここへ置けば」



 追ってきた誰かが。


 俺たちの通った場所を知る。



 捨てるだけでは。


 駄目だ。



 壊す。



 それも危ない。



 術式を刺激して。


 何かを知らせるかもしれない。



 ミミルが。


 薬包を見た。



 迷う。



 今ある薬は。


 どれも少ない。



 街なら。


 作り直せた。



 工房なら。


 代わりがあった。



 今は。


 使えば減る。



 減れば。


 終わりへ近づく。



 ミミルは。


 小瓶を一本取った。



 門を通るため。


 排水路用の中和薬から調整したもの。



 街を出るあいだ。


 俺の腐毒を抑えていた薬だ。



 底に。


 少しだけ残っている。



「金属用ではありません。でも、魔力を散らす灰が入っています」



 ミミルは。


 布へ中和薬を垂らした。



 そこへ。


 捕獲具の欠片を包む。



 光が。


 布の中で滲んだ。



 一度。


 強く。



 俺のひびが。


 熱を持った。



 ぞくりとした。



 痛みではない。



 呼ばれた。



 そんな感じだった。



 遠くから。



 何かに。



 俺は。


 ゆりかごの中で身を縮めた。



「エッグ?」



 ミミルが。


 欠片を地面へ置く。



 俺は。


 二度震えた。



 ぶる。


 ぶる。



 近づけるな。



「これが、何かしているんですね」



 ぶる。



 ミミルは。


 中和薬の残りを全部使った。



 惜しまなかった。



 光が。


 薄くなる。



 消えない。



 それでも。


 さっきよりは弱い。



 ミミルは布ごと小鍋へ入れた。


 蓋をする。


 さらに。


 吸着粉を鍋の周りへ振りかけた。



 薬師にもらった。


 仲間を守るための粉。



 使うのが。


 早すぎる。



 街を出て。


 まだ朝だ。



 三日分どころか。


 一日目も始まったばかりだ。



「全部は使っていません」



 ミミルが。


 俺へ言った。



 俺の考えが。


 顔に出たらしい。



 顔。



 ないけど。



「少しだけです。少しだけ」



 本当か。



 俺は。


 薬包を見た。



 確かに。


 残っている。



 かなり減っている。



 少しの基準が。


 怪しい。



「追跡に使われる可能性があります。ここでは捨てられません」



 ぶる。



「流れの速い水を探しましょう。術式を抑えてから、私たちが進まない方向へ流します」



 俺は。


 少し考えた。



 川へ入れれば。


 欠片は俺たちから離れる。



 追手が反応を辿っているなら。


 違う方向へ進む。



 うまくいくかは。


 分からない。



 でも。


 鞄に入れたままよりはいい。



 ぶる。



 はい。



 ミミルは。


 鍋を鞄の外側へ縛った。



 俺から。


 できるだけ離して。



 再び。


 森を歩く。



 水の音を探す。



 鳥の声。


 葉の擦れる音。


 遠くで何かが鳴く声。



 水は。


 聞こえない。



 代わりに。



 俺の殻から。



 ぽつ。



 黒緑の雫が落ちた。



 落ち葉へ触れる。



 葉の端が。


 ゆっくり黒くなる。



 ミミルが。


 すぐ吸着粉を撒いた。



 雫が。


 灰色の粉へ吸われる。



「抑えていた薬が、切れ始めています」



 分かっている。



 俺も。


 漏らしたくて漏らしているわけではない。



 動くと。


 出る。



 揺れても。


 出る。



 つまり。



 歩くだけで。


 森へ毒を撒く。



 最悪だ。



 街では人を傷つける。



 森では草を傷つける。



 どこへ行っても。


 迷惑卵。



 俺は。


 動かないようにした。



 ゆりかごの揺れに逆らわず。


 殻を布へ預ける。



 ぽつ。



 また。



 ミミルが止まった。



「エッグ」



 声が。


 少し厳しい。



「動かないようにしても、止まりません」



 その通りだ。



「あなたが悪いわけでもありません」



 それは。


 分からない。



 俺から出ている。



 なら。


 俺のせいだ。



 ミミルが。


 俺の殻を両手で包んだ。



「今は、治せないだけです」



 今は。



 その言葉を。


 強く言った。



「治す方法を探します。森でも薬は作れます。道具が足りなければ作ります。素材が違えば、配合を変えます」



 無茶だ。



 工房もない。



 試験器具もない。



 薬草があるかも。


 分からない。



「だから、勝手に諦めないでください」



 俺は。


 動きを止めた。



 ばれた。



 顔はない。



 声も出ない。



 それでも。



 ばれた。



 俺は。


 一度震えた。



 ぶる。



 はい。



「よろしいです」



 ミミルが。


 少しだけ笑った。



 歩く。



 毒が落ちる前に止まり。


 粉で受ける。



 また歩く。



 遅い。



 追われているのに。



 遅い。



 太陽が。


 木々の隙間から高くなったころ。



 ようやく。



 水の音がした。



 細い流れだった。



 岩の間を。


 透明な水が走っている。



 ミミルは。


 すぐには近づかなかった。



 上流を見る。


 足跡を見る。


 水草を見る。



 小さな虫が。


 水面を滑っていた。



「飲めそうです。ただ、一度沸かします」



 火。



 煙。



 追手。



 ミミルも。


 同じことを考えたらしい。



「夜まで待ちましょう」



 水は。


 見つかった。



 寝床は。


 まだ。



 食料は。


 三日分。



 追跡具は。


 鍋の中。



 俺の腐毒は。


 止まらない。



 一つずつ。



 一つ解決して。



 二つ増えている。



 順調に。


 終わっている。



 ミミルは。


 上流と下流を見比べた。



 水は。


 街のある方角とは違う方向へ流れている。



「流します」



 鍋を。


 岩の上へ置く。



 蓋を開ける。



 吸着粉と中和薬に包まれた欠片は。


 まだ。


 弱く光っていた。



 俺のひびも。


 かすかに熱い。



 ミミルが。


 長い枝で布を押した。



 水へ。



 布は。


 一度岩へ引っかかった。



 外れる。



 流れていく。



 淡い光が。


 水の底で揺れた。



 遠ざかる。



 俺の殻の熱も。


 薄くなる。



 完全には。


 消えなかった。



 森の奥。



 水の流れる先で。



 光が。


 一度だけ強く瞬いた。



 合図のように。



 それから。


 見えなくなった。



「行きましょう」



 ミミルが。


 空になった鍋を拾った。



 声は。


 静かだった。



 でも。


 手が震えていた。



 俺たちは。


 追跡具を捨てた。



 追跡を外せたかは。


 分からない。



 向こうへ。


 何かを知らせたかもしれない。



 それでも。



 ここには。


 いられない。



 水場から離れ。


 腐毒の跡を。


 一つずつ消しながら進む。



 やがて。



 俺は。


 妙な音に気づいた。



 かり。



 かり。



 土を。


 何かが掻いている。



 ミミルも止まった。



 茂みの向こう。



 小さな影がある。



 長い耳。



 額から伸びた。


 短い角。



 そいつは。


 地面を掘っていた。



 掘り出した根を。


 前足で押さえている。



 俺たちを見る。



 逃げない。



 俺を見る。



 鼻を動かす。



 腐毒の匂いに。


 気づいたはずだ。



 なのに。



 一歩。



 こちらへ近づいた。



 ミミルが。


 俺を庇うように立つ。



 角のある兎は。


 さらに一歩。



 俺の殻が。


 かすかに震えた。



 自分で動かしたのではない。



 魔力が。



 内側で。



 相手の鼓動に合わせるように。



 揺れた。



 兎の耳が。


 ぴんと立つ。



 次の瞬間。



 そいつは身を翻した。



 逃げた。



 と思った。



 違った。



 数歩先で止まり。



 こちらを振り返った。



 そして。



 また走る。



 また止まる。



「ついてこい、と言っているのでしょうか」



 分からない。



 外した捕獲具が。


 追手を連れてくるかもしれない。



 角のある兎が。


 安全な場所へ案内する保証もない。



 そもそも。


 俺たちは。


 兎に道を教わろうとしている。



 終わっている。



 でも。



 水以外の手がかりは。


 初めてだった。



 俺は。


 一度震えた。



 ぶる。



 はい。



 ミミルが。


 頷く。



「行ってみましょう」



 角のある兎が。



 今度は。



 待たずに走った。



 森の。


 さらに深い方へ。



 三日分の食料が。


 なくなる前に。



 俺たちは。



 生きられる場所を。



 見つけなければならない。

街を出た二人に、さっそく追跡の痕跡が迫ります。

森で出会った小さな案内役は、味方なのでしょうか。


お読みいただきありがとうございます!


「続きが気になる」「卵、がんばれ」と思っていただけたら、下の☆☆☆☆☆やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。感想もひとこと置いていってくれたら、殻にヒビが入るくらい励みになります。


廃棄推奨の最弱卵が世界を孵すまで、どうか見届けてやってください。

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