第51話 保護の外へ
工房へ戻ったとき。
空は。
まだ暗かった。
鍵を開ける。
扉を押す。
いつもの匂いがした。
乾燥薬草。
煮詰めた樹液。
洗ったばかりの硝子瓶。
帰ってきた。
なのに。
もう。
ここを出るために帰ってきた。
「時間がありません」
ミミルは。
灯りを一つだけつけた。
窓の鎧戸は。
閉じたまま。
「必要なものだけ選びます」
必要なもの。
棚には。
薬草がある。
瓶がある。
道具がある。
机がある。
椅子がある。
寝台がある。
ここで。
俺は何度も転がった。
机から落ちた。
椅子の脚にぶつかった。
薬液へ沈んだ。
割れた。
死んだ。
ろくな思い出がない。
いや。
ある。
ミミルが。
俺を拾った。
捨てなかった。
ここは。
俺が初めて。
廃棄物ではなくなった場所だ。
「エッグ」
ミミルが。
大きな鞄を床へ置いた。
「持っていける量は、この中に入る分だけです」
少ない。
工房の全部は。
入らない。
当然だ。
工房だから。
鞄に入ったら。
それはもう。
工房ではない。
ミミルは。
棚の薬瓶へ手を伸ばした。
止めた。
隣の瓶へ伸ばした。
また。
止めた。
結局。
解毒薬を二本。
止血薬を三本。
消毒液を一本。
それだけ。
鞄へ入れた。
器具も。
小鍋。
乳鉢。
薬匙。
折り畳み式の天秤。
炉は。
置いていく。
大鍋も。
置いていく。
五号薬の試験に使った。
目盛りつきの硝子筒も。
ミミルの手が。
その硝子筒に触れたまま。
動かなかった。
俺が近くにいると。
泡が整った。
濁りが減った。
殻を削らなくても。
役に立てた。
あれを確かめた。
大事な道具だ。
「……持てませんね」
ミミルが。
手を離した。
硝子筒は。
棚に残った。
かち。
小さな音がした。
ただ。
棚へ戻しただけだ。
なのに。
何かを。
切った音に聞こえた。
次に。
ミミルは机の引き出しを開けた。
紙束。
観察記録。
試験記録。
薬液の配合表。
俺の殻の変化。
振動の回数。
転がった距離。
多い。
多すぎる。
ミミルは。
紙束を一枚ずつ見た。
そして。
分けた。
薬の配合。
置いていく。
ギルドの試験記録。
置いていく。
契約の控え。
置いていく。
自然に落ちた殻片へ。
魔力の紋を写した記録。
それは。
鞄へ入れた。
記憶殻。
俺がまた死んで。
何かを忘れたとき。
俺を。
俺へ戻すための研究。
ミミルは。
その紙束を油布で包んだ。
紐を。
二重に結んだ。
「これは、持っていきます」
ぶる。
はい。
俺も。
それがいい。
薬師としての研究より。
俺の記憶。
選ばれて。
嬉しい。
嬉しいけど。
薬師としては。
たぶん。
終わっている。
ミミルは。
携帯ゆりかごを広げた。
革紐。
ばね。
厚い布。
俺を。
荷物にしないための道具。
底へ。
薄い金属板を入れる。
腐毒が漏れたときのためだ。
前の俺なら。
傷を治す薬を出せた。
今は。
出そうとすると。
床を腐らせる。
旅向きではない。
ものすごく。
旅向きではない。
「揺れますよ」
ミミルが。
俺をゆりかごへ入れた。
革紐を留める。
身体が。
布に包まれた。
これなら。
走っても。
割れにくい。
たぶん。
割れにくいだけで。
安全ではない。
工房の外に出れば。
薬草迷宮より。
何がいるか分からない。
俺は弱い。
薬で。
仲間を治せない。
腐毒を出せば。
仲間まで傷つける。
しかも。
忘れている。
何を忘れたのかさえ。
全部は分からない。
終わっている。
また。
終わっている。
でも。
最初から。
だいたい終わっていた。
今さらだ。
ミミルが。
最後に。
壁際の小箱を開けた。
中には。
白い石。
細い銀線。
焼き針。
俺は。
その道具を見たことがある。
従魔登録のとき。
殻へ印をつけた道具だ。
保護棟に入るとき。
俺の所在を確かめた。
迷子になったとき。
保護するため。
逃げたとき。
捕まえるため。
同じものだった。
「エッグ」
ミミルが。
床へ膝をついた。
目の高さを。
俺に合わせる。
「これから、追跡の印を消します」
分かっている。
「消せば、あなたの従魔登録は無効になります」
俺は。
従魔ではない。
もう。
個別の札を持っている。
でも。
「冒険者ギルドの保護対象からも外れます。薬師ギルドの協力員資格も、所在確認不能として停止されます」
袋の中で。
二枚の札が。
重なっている。
俺が。
俺として。
認められた札。
街を出ても。
俺のものだと思った。
それは。
間違っていない。
ただ。
使えるとは。
限らない。
「工房の使用許可も失います」
ミミルが。
静かに言った。
「薬師として薬を売る信用も、なくなります」
俺のせいだ。
そう思った。
すぐに。
違うとも思った。
俺を渡せと言った奴らのせいだ。
保護の印を。
回収の目印にした奴らのせいだ。
でも。
ミミルが失うものは。
戻らない。
「嫌なら、二度震えてください」
ミミルは。
焼き針を持ったまま。
待った。
勝手に。
焼かない。
勝手に。
決めない。
俺は。
一度。
震えた。
ぶる。
はい。
ミミルが。
目を閉じた。
短く。
息を吐く。
「分かりました」
白い石を。
小さな火へかざす。
石の中で。
光が集まった。
銀線を伝い。
焼き針へ流れる。
針先が。
赤くなった。
「痛かったら、動いてください」
それは。
動くなという意味では。
針が。
俺の殻へ触れた。
じゅっ。
熱い。
痛い。
ものすごく。
痛い。
俺は動いた。
反射で。
「ごめんなさい」
ミミルの手が止まる。
これでは。
終わらない。
俺は。
一度震えた。
ぶる。
続けろ。
たぶん。
今のは。
痛かったら動け。
ではなく。
痛くても続けろ。
だ。
合図の使い方が。
難しい。
ミミルは。
もう一度。
針を当てた。
殻の奥で。
細い何かが。
焼けていく。
見えない糸。
俺と。
街をつないでいた糸。
保護棟。
冒険者ギルド。
薬師ギルド。
工房。
一つずつ。
遠くなる。
銀線の先にあった白い石が。
ひび割れた。
光が。
消えた。
同時に。
俺の中で。
何かが切れた。
音はしなかった。
でも。
分かった。
もう。
俺を探す印はない。
もう。
俺を守る印もない。
ミミルが。
針を置いた。
焼けた殻を。
冷却布で押さえる。
「終わりました」
その声は。
震えていた。
俺は。
ゆりかごの中から。
ミミルの指へ触れた。
殻だから。
握れない。
転がることしか。
できない。
少し。
寄った。
それだけ。
ミミルの指が。
俺を包んだ。
「行きましょう」
灯りを消す。
工房が。
暗くなった。
ミミルは。
鞄を背負った。
俺のゆりかごを。
胸の前へ下げた。
扉へ向かう。
途中で。
一度だけ。
振り返った。
棚。
机。
椅子。
硝子筒。
置いていくものばかりだった。
ミミルは。
鍵を机の上へ置いた。
扉を閉めた。
鍵は。
かけなかった。
もう。
俺たちの工房ではないから。
裏の薬材搬入口は。
本当に。
夜間点検中だった。
扉の前には。
荷車が三台。
薬草箱が。
高く積まれている。
セリアが。
帳簿を持って立っていた。
「西倉庫へ運ぶ薬材です」
それだけ。
言った。
荷車の御者台には。
迷宮から戻った薬師がいた。
腕には。
まだ包帯が巻かれている。
荷台の横には。
冒険者が二人。
腐毒の池から。
逃げた者たちだ。
俺が助けた。
俺を助けた。
仲間。
冒険者の一人が。
薬草箱を持ち上げた。
荷台の奥に。
一人分の隙間があった。
「壊れ物は、奥だ」
それしか。
言わなかった。
ミミルが。
頭を下げる。
「ありがとうございます」
「薬材を運ぶだけだ」
冒険者は。
俺を見なかった。
見れば。
嘘になるから。
セリアが。
帳簿を開く。
「積荷は十二箱。封印確認済みです」
数えない。
数えれば。
十二箱と。
二人になる。
「門の検査では、私の確認印を見せてください」
御者が。
無言で帳票を受け取った。
セリアは。
ミミルへ何も渡さなかった。
別れの言葉も。
逃げるための命令も。
ただ。
帳簿へ線を引いた。
「夜間点検を終了します」
搬入口が。
開いた。
荷車が。
動き出す。
工房の並ぶ道を抜ける。
石畳の音が。
荷台へ響く。
ごと。
ごと。
俺は。
携帯ゆりかごの中で揺れた。
割れない。
大丈夫。
街は。
眠っている。
窓の灯りは少ない。
パン窯から。
煙が上がり始めていた。
夜明けが近い。
西門には。
門番が四人いた。
いつもより。
多い。
荷車が止まる。
「積荷は」
「薬師ギルドの廃棄薬材です」
廃棄。
その言葉に。
少し。
安心した。
俺の得意分野だ。
門番が。
帳票を見た。
「十二箱」
「ああ」
「荷台を確認する」
足音が近づく。
薬草箱が。
一つ。
開けられた。
乾いた葉が。
かさりと鳴る。
次。
また次。
俺は。
動かなかった。
腐毒も。
漏らさない。
呼吸は。
しているか分からない。
卵でよかった。
今だけは。
門の外から。
蹄の音が聞こえた。
遠い。
だが。
多い。
白面の回収部隊。
まだ。
姿は見えない。
こちらへ。
近づいている。
「奥も見る」
門番の手が。
箱へかかった。
冒険者が。
その前へ立った。
「上の箱を全部降ろすのか」
「規則だ」
「腐毒迷宮から回収した薬材だぞ」
門番の手が。
止まる。
「封印は」
「薬師ギルドが確認した」
帳票には。
セリアの印がある。
門番は。
印を見た。
冒険者の包帯を見た。
その下にある。
腐毒の傷も。
「……通れ」
門が。
開いた。
荷車が進む。
石の壁を。
くぐる。
境目は。
一本の溝だった。
荷車の車輪が。
そこを越えた。
ごとん。
それだけ。
俺たちは。
街の外へ出た。
誰も。
追ってこない。
門が。
背後で閉じる。
蹄の音は。
近づいている。
荷車は。
街道を西へ進んだ。
しばらくして。
森へ続く細道の前で止まる。
ミミルが。
荷台から降りた。
冒険者たちも。
降りた。
「街道は使うな」
一人が言った。
「夜明けになれば、全部の門と宿が調べられる」
もう一人が。
包みを差し出した。
固いパン。
干し肉。
水袋。
「三日分だ」
「受け取れません」
「迷宮で立て替えた分を返しただけだ」
ぶっきらぼうに。
言った。
ミミルは。
包みを受け取った。
「……はい」
御者台の薬師が。
小瓶を一本。
投げた。
ミミルが。
慌てて受け止める。
「腐毒を漏らしたときの吸着粉だ。卵には使うな。周りへ撒け」
治す薬ではない。
俺を。
封じる薬でもない。
俺が失敗したとき。
仲間を守るための薬だ。
今の俺に。
必要なもの。
ミミルが。
深く頭を下げた。
「必ず、お返しします」
「返しに来るな」
薬師が言った。
冷たい。
と思った。
違った。
「追われている間はな」
荷車が。
街道へ戻っていく。
冒険者たちも。
乗った。
別れの言葉は。
なかった。
手も振らなかった。
俺たちを。
見送らなかった。
仲間だから。
逃げた方向を。
知らないために。
空が。
薄く白んだ。
街の向こうに。
白い影が見えた。
騎馬。
同じ色の外套。
間に合った。
ぎりぎり。
いつも。
ぎりぎりだ。
ミミルが。
細道へ入った。
草が深い。
枝が低い。
携帯ゆりかごが。
歩みに合わせて揺れる。
街の壁が。
木々に隠れていく。
俺には。
追跡の印がない。
ミミルには。
工房がない。
資格も。
信用も。
安全も。
なくなった。
あるのは。
鞄一つ。
記憶殻の研究記録。
最低限の道具。
三日分の食料。
腐毒を漏らす卵。
終わっている。
旅立ちの荷物として。
かなり。
終わっている。
「エッグ」
ミミルが。
歩きながら呼んだ。
「怖いですか」
怖い。
当然だ。
森から。
獣の声が聞こえる。
俺は。
今の自分の技能すら。
全部は分からない。
薬性治療は使えない。
死ねば。
次は何を忘れるか分からない。
俺は。
一度。
震えた。
ぶる。
はい。
ミミルが。
少しだけ笑った。
「私もです」
そうか。
よかった。
よくない。
二人とも。
怖い。
終わっている。
「それでも、行きましょう」
ぶる。
はい。
森の入口に。
朝日が差した。
街の道より。
暗い。
保護棟より。
危ない。
工房より。
何もない。
でも。
誰かに決められた場所ではない。
俺たちは。
逃がされた。
助けられた。
それでも。
最後の一歩は。
俺たちが。
自分で決めた。
ミミルが。
魔物の森へ踏み込む。
俺も。
彼女の胸元で。
一緒に越えた。
街の保護の外へ。
誰の所有物でもない。
俺たちの旅へ。
第二部の節目となる旅立ちでした。
失ったものを抱えた二人が、ここから自分たちの道を選んでいきます。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」「卵、がんばれ」と思っていただけたら、下の☆☆☆☆☆やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。感想もひとこと置いていってくれたら、殻にヒビが入るくらい励みになります。
廃棄推奨の最弱卵が世界を孵すまで、どうか見届けてやってください。




