第5話 右に揺れたらYES、左に揺れたらNO
ミミル錬金工房。
それが、俺の新しい住処になった。
工房といっても、想像していたような立派な研究施設ではない。
古い木造の小さな建物。
傾いた煙突。
少し軋む床。
壁一面の棚には、薬草や瓶や粉末がぎっしり並んでいる。
そして、全体的に散らかっている。
前世の職場のデスクを思い出した。
書類、付箋、飲みかけの缶コーヒー、いつか整理しようと思っていたファイル。
人は異世界に来ても、散らかった作業場からは逃げられないらしい。
ミミルは俺を机の上に置き、周囲の物を片づけ始めた。
「ごめんね。ちょっと散らかってるけど」
ちょっと?
俺は周囲を見回した。
いや、見回す首はない。
視界に入る範囲だけでも、十分に散らかっている。
床には乾燥中の薬草。
机の端には空の小瓶。
釜の横には焦げた布。
壁には、途中で破れた魔法陣らしき紙。
ちょっとではない。
かなりだ。
俺が小さく震えると、ミミルは苦笑いした。
「今、呆れた?」
俺は迷った。
ここで正直に右へ揺れるべきか。
それとも、恩人に気を遣って左へ揺れるべきか。
前世の俺なら、間違いなく気を遣っていた。
いえ、そんなことありません。
とても素敵な職場ですね。
整理されていて使いやすそうです。
そんな嘘を何度もついてきた。
だが今の俺は卵だ。
表情もない。
気遣いの必要も薄い。
俺は、そっと右へ揺れた。
「やっぱり?」
ミミルは少し頬を赤くした。
「わかってるよ。片づける。片づけるから」
そう言って、彼女は慌てて机の上の紙束を抱えた。
すると、その下から別の紙束が出てきた。
さらにその下から、小さな瓶が転がり落ちた。
「あっ」
瓶は床に落ちて割れた。
中から紫色の煙がふわりと上がる。
ミミルは固まった。
俺も固まった。
いや、俺は元から動けない。
紫色の煙は、ふわふわと広がっていく。
嫌な予感しかしない。
「えっと……」
ミミルがぎこちなく笑った。
「大丈夫。たぶん眠気覚ましの試作品だから」
たぶん。
その言葉ほど信用できないものはない。
煙が俺の殻に触れた。
次の瞬間、殻の内側がぴりっとした。
鑑定表示は出ない。
俺に見えるのは自分の状態だけだ。
だが、わかる。
これ、たぶん体に悪いやつだ。
ステータスを開くと、生命力に変化はない。
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生命力:3/3
魔力:1/3
状態:軽度刺激
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軽度刺激。
毒とは出ていない。
だが、眠気覚ましで状態異常っぽい表示が出るのはどうなのか。
ミミルは慌てて窓を開けた。
「ご、ごめん! 本当にごめん! 大丈夫?」
俺は少し迷って左へ揺れた。
大丈夫ではない、という意味だ。
「あ、駄目? 駄目だよね!」
ミミルはさらに慌てる。
俺は思った。
この子、思ったより危なっかしい。
だが、不思議と嫌な感じはしなかった。
ミミルは俺を雑に扱わない。
売らないと言った。
処分もしないと言った。
俺の反応をちゃんと見ようとしている。
それだけで、この世界ではかなり貴重な相手なのかもしれない。
煙が外へ逃げると、ミミルは俺の前に椅子を持ってきて座った。
「よし。まずは会話の練習をしよう」
会話。
ついに来た。
卵としての俺の社会復帰第一歩である。
ミミルは紙に大きく書いた。
右:はい
左:いいえ
前:怒ってる
後ろ:嫌
「これでどう?」
俺は右へ揺れた。
「よし」
ミミルは嬉しそうに頷く。
「じゃあ、質問するね」
彼女は炭筆を握り直した。
「あなたは、私の言葉が全部わかる?」
右。
「人間だったことがある?」
俺は動きを止めた。
来た。
いきなり核心に近い質問だ。
俺は元人間だ。
前世の記憶がある。
しかし、それを伝えてどうなる?
ミミルは信じるだろうか。
魔物に人間の魂が入っていると知ったら、怖がるだろうか。
教会やギルドに報告されるかもしれない。
俺は悩んだ。
ミミルは俺の沈黙を見て、小さく首をかしげる。
「答えにくい?」
俺は右へ揺れた。
「そっか。じゃあ今は聞かない」
ミミルはあっさり引いた。
俺は少し驚いた。
もっとしつこく聞かれると思っていた。
錬金術師なら、珍しい存在の中身が気になるはずだ。
だがミミルは、俺が答えにくいとわかると、それ以上聞かなかった。
「じゃあ、別の質問」
彼女は明るい声に戻した。
「あなたは、卵のままでいたい?」
左。
即答だった。
できれば孵化したい。
手足が欲しい。
口が欲しい。
せめて自分で移動したい。
ミミルは頷く。
「孵化したいんだね」
右。
「でも、孵化できない?」
俺は少し迷って右。
ステータスに《孵化未遂》と《孵化不全》がある。
おそらくそういうことだろう。
ミミルは真剣な顔になった。
「じゃあ、私が調べる。錬金術で何かできるかもしれないし」
その言葉に、俺は少し心が軽くなった。
心がどこにあるのかはわからない。
卵の中か。
魂的な何かか。
ともかく、嬉しかった。
ミミルは次々と質問を続けた。
「痛みはある?」
少し迷って右。
「お腹は空く?」
わからない。
俺は動かない。
「わからない?」
右。
「魔力は使える?」
俺は少し考えた。
黒い竜の血を吸ってから、魔力は生まれた。
今は1/3まで減っている。
使えると言えば使える。
右へ揺れた。
「でも、そんなに多くはない?」
右。
ミミルはメモを取る。
「魔力反応はあるけど、容量は小さい……っと」
ちゃんと観察されている。
それは少し恥ずかしいが、悪くはない。
「私を信用してる?」
俺は止まった。
これも難しい。
完全に信用しているかと言われると、まだわからない。
拾われて一日も経っていない。
しかも最初は素材扱いだった。
でも、信用したいとは思っている。
どう答えるべきか。
俺が迷っていると、ミミルは慌てた。
「あ、ごめん。今のは答えなくていい。急だったよね」
彼女は炭筆を置き、少しだけ苦笑いした。
「私も、いきなり信用してって言われたら困るし」
そう言ってから、ミミルは小さな声で続けた。
「私、あんまり信用されるの得意じゃないんだ」
その言葉は、少し寂しそうだった。
ミミルは見習い錬金術師。
ギルドでは落ちこぼれ扱い。
工房は借り物。
実験は失敗ばかり。
たぶん彼女も、ずっと自分の居場所を探していたのだ。
俺は、ゆっくり右へ揺れた。
ミミルが目を丸くする。
「今の、信用してるって意味?」
俺はもう一度、右へ揺れた。
完全ではない。
だが、少なくとも今は。
ミミルは少しだけ目を潤ませ、それから照れ隠しのように笑った。
「そっか。ありがとう、エッグ」
エッグ。
やはり、その名前はまだ少し恥ずかしい。
だが、ミミルに呼ばれると不思議と嫌ではなかった。
その後、ミミルは俺のために小さな寝床を作ってくれた。
木箱の中に柔らかい布を敷き、周囲に乾燥薬草を置く。
「これでどう?」
俺は右へ揺れた。
正直、かなり快適だった。
前世の安アパートの布団より快適かもしれない。
卵になってから、住環境の基準がだいぶ下がっている気がする。
ミミルは満足そうに頷いた。
「じゃあ、今日からここがエッグの部屋ね」
部屋。
木箱だけど。
でも、悪くない。
俺は箱の中で少しだけ体を落ち着けた。
すると、ステータスに小さな変化があった。
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条件を達成しました。
称号《拾われた卵》を獲得しました。
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拾われた卵。
称号としては情けない。
だが、《廃棄された卵》よりはずっといい。
ミミルは俺の変化には気づかず、釜の前に立った。
「さて。明日までに回復薬を作らないと、家賃が払えないんだよね」
家賃。
現実的な単語が出てきた。
異世界でも家賃からは逃げられないのか。
ミミルは材料を並べる。
薬草。
水。
魔石の粉。
何かの乾燥した根。
さっき割れた瓶とは別の小瓶。
俺は嫌な予感がした。
「大丈夫。今度はちゃんと作れるはず」
その言葉を聞いて、俺の嫌な予感は確信に変わった。
ミミルは釜に材料を入れ、魔力を流す。
最初は順調だった。
淡い緑色の光。
薬草の香り。
ゆっくり回る液体。
だが、しばらくすると釜の中の光が強くなり始めた。
「あれ?」
ミミルの顔が引きつる。
「おかしいな。魔力、入れすぎた?」
釜が震えた。
ぼこり。
ぼこぼこ。
緑色だった液体が、青くなり、紫になり、なぜか赤く点滅し始める。
明らかにヤバい。
俺は木箱の中で震えた。
ミミル。
それ、たぶん爆発する。
釜が大きく膨らむように音を立てた。
ミミルが慌てて魔力を止めようとする。
「待って、止まって、お願いだから止まって!」
止まらない。
工房中に魔力が膨れ上がる。
俺は逃げられない。
木箱の中で、ただ見ているしかない。
またか。
また俺は、何もできないのか。
そう思った瞬間、俺の殻のひびが熱を持った。
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暴走魔力を確認しました。
固有スキル《因子吸収 Lv1》が反応しています。
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俺の殻が、勝手に魔力を吸い始めた。
釜から溢れた暴走魔力が、ひびを通って俺の中へ流れ込む。
熱い。
苦しい。
だが、黒い竜の血を浴びた時ほどではない。
いける。
俺は全力で意識を集中した。
吸え。
飲み込め。
ミミルの工房を吹き飛ばすくらいなら、俺の殻の中に押し込め。
釜の光が少しずつ弱くなる。
ミミルが驚いた顔で俺を見る。
「エッグ……?」
俺は震える余裕もなかった。
ただ、魔力を吸い続けた。
やがて釜の暴走は収まり、工房に静けさが戻った。
煙だけが、ゆっくりと天井へ昇っていく。
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暴走魔力を吸収しました。
魔力:1/3 → 3/3
《魔力吸収 Lv1》を獲得しました。
ひび割れ率:28% → 34%
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危なかった。
ひび割れ率は上がったが、爆発は防げた。
それに、《魔力吸収》を獲得できた。
これで魔力切れになっても、外から補給できる可能性がある。
ただし、ひび割れ率が上がる。
便利だが、危険な力だ。
ミミルは釜の前で座り込み、しばらく呆然としていた。
そして、俺の木箱の前まで来て、膝をついた。
「ありがとう、エッグ」
彼女は震える声でそう言った。
「あなたがいなかったら、工房ごと吹き飛んでた」
俺は疲れ切っていたが、なんとか右へ揺れた。
どういたしまして。
そのつもりだった。
ミミルはそっと俺の殻に触れた。
「ごめんね。痛かった?」
俺は少し迷った。
痛かった。
でも、大丈夫だった。
どう伝えればいいかわからず、俺は小さく右へ揺れ、それから左にも揺れた。
ミミルは苦笑する。
「痛かったけど、大丈夫ってこと?」
右。
彼女は、本当に察しがいい。
ミミルは俺の殻を優しく撫でる。
「そっか。ありがとう」
俺は少し照れた。
卵なので顔は赤くならない。
たぶん。
その時、机の上で小さな音がした。
カラリ。
ミミルが振り向く。
俺も視線だけを向ける。
そこには、小さな黒い欠片が落ちていた。
俺の殻だ。
さっき魔力を吸った時、ひびから剥がれたらしい。
ミミルはその欠片を拾い上げ、光にかざした。
「これ……エッグの殻片?」
俺は右へ揺れた。
たぶん。
ミミルは棚から小さな水晶を取り出した。
ギルドのものほど大きくはない。
簡易鑑定用の道具らしい。
「古い鑑定水晶だから、詳しくは出ないけど……」
彼女が水晶を殻片に近づけると、淡い文字が浮かんだ。
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竜血を帯びた卵殻片
品質:高
用途:魔力安定剤、回復薬補助材
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ミミルの目が輝いた。
「すごい……! これ、すごい素材だよ!」
俺は嫌な予感がした。
ミミルは興奮した様子で続ける。
「これを使えば、回復薬も安定するかも。売ったら家賃も……」
売ったら。
俺は全力で震えた。
待て。
それ、俺の殻。
たぶん皮膚とか爪とか、そういう扱いのやつ。
勝手に売るな。
ミミルは俺の反応を見て、はっとした顔になった。
「あ……ごめん。嫌だよね」
俺は右へ揺れた。
嫌です。
かなり嫌です。
ミミルは殻片を両手で包み、申し訳なさそうに頭を下げた。
「勝手に売らない。約束する」
俺は少しだけ安心した。
だがミミルは、そっと続ける。
「でも、ほんの少しだけ研究に使わせてもらえないかな。あなたの殻を傷つけたりはしない。落ちた欠片だけでいいから」
俺は迷った。
自分の体の欠片を研究されるのは、正直ちょっと嫌だ。
だが、ミミルは勝手に売らないと言った。
さっきも俺を処分しなかった。
それに、彼女の錬金術が上達すれば、俺自身を守ることにも繋がるかもしれない。
俺は、ゆっくり右へ揺れた。
ミミルの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとう、エッグ! 絶対、大事に使うから」
そう言って、彼女は殻片を小さな瓶に入れた。
瓶のラベルには、丁寧な字でこう書かれた。
エッグの殻片。
……そのままだった。
だが、その瓶を見た時、俺は少しだけ誇らしかった。
廃棄推奨だった俺の殻が、誰かの役に立つかもしれない。
そう思えたからだ。
その夜。
ミミルは机に突っ伏して眠ってしまった。
俺は木箱の中で、静かな工房を見ていた。
窓の外には、異世界の月が浮かんでいる。
俺はまだ卵だ。
弱い。
動けない。
喋れない。
だが、今日ひとつわかった。
俺は役に立てる。
震えるだけじゃない。
怯えるだけじゃない。
廃棄されるだけの存在じゃない。
そう思った時、ステータスが静かに浮かんだ。
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称号《役に立った卵》を獲得しました。
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称号としては、やっぱり微妙だ。
でも、《廃棄された卵》よりはずっといい。
俺は木箱の中で、小さく震えた。
嬉しくて。




