第49話 忘れても、また仲間になれる
忘れた。
右が、はい。
左が、いいえ。
意味は分かる。
でも。
それを。
ミミルと決めた日のことは。
何も。
残っていない。
「もう一度、確認してもいいですか」
ミミルが言った。
目は赤い。
けれど。
泣いてはいなかった。
「右が、はい。左が、いいえです」
右。
はい。
俺は。
動こうとした。
黒緑色の殻が。
震えた。
右へ。
転がる。
はずだった。
なのに。
体の奥が。
急に。
熱くなった。
違う。
これは。
動くための力じゃない。
毒だ。
止めろ。
出すな。
そう思った時には。
ひびの一つから。
黒い雫が。
膨らんでいた。
「エッグ?」
ミミルの手が伸びる。
駄目だ。
触るな。
左。
違う。
今は。
左では伝わらない。
動けば。
また漏れる。
雫が落ちた。
じゅっ。
器の底が。
黒く焼けた。
ミミルの指先が。
その真上にあった。
俺は。
全身を震わせた。
やめろ。
来るな。
近づくな。
毒が。
ひびから噴いた。
「ミミル!」
先生が。
彼女の肩を引いた。
黒い飛沫が。
手袋をかすめる。
革が。
濡れた紙みたいに。
崩れた。
その下の肌が。
赤くなった。
俺は。
動けなかった。
ミミルを。
傷つけるところだった。
俺が。
ミミルを。
「隔離布を!」
「器ごと覆え!」
扉の外にいた薬師たちが。
工房へ入ってきた。
厚い布が。
俺の上へ。
落ちる。
暗くなった。
何も。
見えない。
当然だ。
俺は。
毒だ。
近づくだけで。
危ない。
「待ってください」
ミミルの声がした。
「今のは、攻撃ではありません」
「制御できていないなら同じことだ」
知らない声が返す。
「腐毒を吸収して変質した個体だぞ。漏出するなら、封印容器から出すべきではない」
「意思疎通にも失敗している」
「失敗ではありません」
ミミルが。
強く言った。
「私が、以前のやり方を押しつけました」
「合図一つで腐毒が出たんだ。次は手袋では済まない」
「だから確認します。今のエッグと」
布の端が。
持ち上がった。
ミミルが。
しゃがんでいる。
右手には。
新しい手袋。
赤くなった指は。
その中に隠れていた。
俺は。
後ろへ下がろうとした。
でも。
動けない。
「触りません」
ミミルは。
両手を膝に置いた。
「近づきすぎません」
俺を。
見た。
「それでも、話してもいいですか」
右へ。
動こうとして。
止まる。
駄目だ。
その答え方は。
今の俺には。
危ない。
俺は。
何もできなかった。
「では、そこから決めましょう」
ミミルは。
小さな木札を二枚。
床へ置いた。
一枚には。
丸。
もう一枚には。
ばつ。
「転がらなくていい方法にします」
俺は。
見た。
「一度だけ震えたら、はい」
ミミルが。
丸い札を指した。
「二度、震えたら、いいえ」
今度は。
ばつ。
「これは、昔の続きではありません」
昔。
俺が。
知らない日。
「今、ここで。私とエッグが、初めて決める合図です」
初めて。
「使ってもいいですか」
一度。
震える。
ぶる。
毒は。
出ない。
ミミルが。
笑った。
今度は。
涙を落とさなかった。
「ありがとうございます」
先生が。
腐毒の落ちた器を調べる。
「次だ。今、自分から毒を出したつもりか」
二度。
ぶる。
少し置いて。
ぶる。
「いいえ、ですね」
ミミルが。
俺の代わりに伝えた。
「合図をしようとして、漏れましたか」
一度。
ぶる。
「私を敵だと思いましたか」
二度。
ぶる。
ぶる。
それだけは。
違う。
忘れている。
欠けている。
でも。
ミミルを。
敵だとは。
思わない。
「では、私はあなたのそばにいてもいいですか」
一度。
ぶる。
ミミルの肩から。
力が抜けた。
「はい」
彼女は。
俺の答えを。
声にした。
「私も、そばにいます」
薬師たちは。
黙っていた。
封印布は。
まだ俺の半分を覆っている。
黒い雫の跡も。
消えていない。
合図ができても。
毒が消えたわけではない。
「意思があることと、安全であることは別だ」
さっきの薬師が言った。
「今は抑えられても、再発しない保証はない。危険物として封印し、経過を見るべきだ」
危険物。
封印。
言い返せない。
実際に。
漏らした。
「それなら」
扉の外から。
別の声がした。
「俺たちも封印されるのか?」
足を引きずりながら。
冒険者が入ってきた。
迷宮で。
腐毒に倒れた男だ。
その後ろにも。
腕を吊った女。
顔色の悪い薬師。
助けた連中が。
いた。
「こいつが制御を失う可能性があるってんなら、俺だって同じだ」
男が。
包帯の巻かれた脚を叩く。
「毒にやられた時、仲間へ剣を振った。覚えてねえけどな」
「それとこれは」
「同じじゃない」
女が言った。
「だから、同じにしろとも言わない」
俺の前へ。
一歩。
出る。
ミミルが。
止めようとした。
女は。
そこで止まった。
近づきすぎない。
「危険なら、決まりを作ればいい。持ち運ぶ器も、漏れた時の薬も、合図も」
吊った腕を。
少し上げる。
「でも、最初から物として封じるのは違う」
男が。
うなずいた。
「こいつは俺たちを救った仲間だ」
仲間。
「腐毒の池を吸って」
薬師が続けた。
「自分の殻がなくなるまで、退路を作りました」
「その結果、今こうなった」
先生が。
黒く焼けた器を見る。
「危険になったのは事実だ」
「はい」
ミミルが答えた。
「だから、管理は受けます。試験もします。持ち運びの条件も守ります」
俺を見た。
「ただし、本人の同意を取ります」
本人。
俺。
「封印する物ではなく、自分で答える一個として扱ってください」
一個。
一人ではない。
一匹でも。
一体でもない。
一個。
卵には。
ちょうどいい。
契約管理官のベルクが。
扉のところに立っていた。
いつから。
いたんだ。
あの人。
気配が。
帳簿と同じくらい薄い。
「証言は記録します」
抱えていた書類を。
机へ置く。
「救助された冒険者、同行した薬師、救助隊責任者。全員が、対象を救助活動の参加者と認めています」
対象。
ちょっと。
物っぽい。
「加えて、本人が新しい合図で意思を示したことも確認しました」
少し。
戻った。
「危険性を理由に、管理条件は必要です。ただし、危険性のみを理由に、すでに認められた権利を取り消す規定はありません」
ベルクが。
二枚の札を出した。
一枚は。
硬い革。
もう一枚は。
薄い金属。
どちらにも。
小さな穴がある。
「仮登録ではありません」
革札を。
俺の前へ置く。
「エッグ個別の冒険者証です。所有者欄はエッグ本人。保護責任者欄にミミル」
俺の。
冒険者証。
「こちらは薬師ギルド協力員証。ミミルの付属物ではなく、独立した協力員として記録します」
金属札が。
革札の横へ。
並ぶ。
「受領しますか」
俺は。
一度。
震えた。
ぶる。
「はい」
ミミルが言った。
ベルクが。
札を。
小さな袋へ入れた。
袋には。
毒を通しにくい透明な窓がある。
それを。
俺の器の縁へ。
結んだ。
二枚の札が。
触れ合う。
かち。
小さな音。
「勝手に持ち主が決まるものではありません」
ベルクが。
結び目を確かめる。
「これは、あなたのものです」
俺のもの。
素材価値でも。
保護材でも。
ミミルの持ち物でもない。
俺の。
証。
「よかったですね、エッグ」
ミミルが。
笑う。
俺は。
一度。
震えた。
ぶる。
よかった。
「私たちは、また仲間になれますか」
それは。
違う。
また。
ではない。
昔を。
俺は覚えていない。
同じ場所へ。
戻れるかも。
分からない。
だから。
二度。
ぶる。
ぶる。
ミミルの笑顔が。
少しだけ。
固まった。
俺は。
すぐに。
一度。
震えた。
ぶる。
「……いいえ。はい?」
そう。
違う。
そして。
そうだ。
俺は。
器の中で。
ほんの少し。
ミミルの方へ傾いた。
転がらない。
毒も出さない。
ただ。
そちらを向く。
「また、ではなく」
ミミルが。
ゆっくりと言った。
「今から、仲間になる?」
一度。
ぶる。
それだ。
忘れたなら。
終わりではない。
もう一度。
最初から。
知ればいい。
俺は。
ミミルを知らない俺として。
ミミルのそばにいる。
ミミルも。
前の俺ではなく。
今の俺へ。
話しかける。
右でも。
左でもない。
新しい。
はい。
窓付きの袋で。
二枚の札が鳴った。
かち。
冒険者。
薬師ギルド協力員。
そして。
ミミルの仲間。
俺は。
どれも。
自分で。
はいと答えた。
失った合図をなぞるのではなく、二人で新しい合図を作りました。
過去を忘れても、関係は今の選択から結び直せると思います。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」「卵、がんばれ」と思っていただけたら、下の☆☆☆☆☆やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。感想もひとこと置いていってくれたら、殻にヒビが入るくらい励みになります。
廃棄推奨の最弱卵が世界を孵すまで、どうか見届けてやってください。




