第47話 俺を薬にしろ
右へ震えた。
「行きましょう」
ミミルが。
走る。
全員が。
続く。
「誰か……いるのか……!」
「いる!」
盾役が叫び返した。
「救助隊だ! 声を出し続けろ!」
「こっち……二人、いる……!」
二人。
生きている。
黒い雨を。
盾が弾く。
腐った蔓を。
剣が払う。
足元の薬草は。
もう薬草ではなかった。
黒い泥になって。
靴底へまとわりつく。
「止まれ!」
先頭の男が。
腕を広げた。
道がない。
正確には。
道だったものが。
途中から黒い池になっている。
その向こう。
崩れた岩棚の上に。
二人いた。
一人は座り込み。
もう一人は。
倒れた仲間の服をつかんでいる。
「来るな!」
座っていた男が叫んだ。
「ここは、下から噴いてる! 踏んだら脚が溶ける!」
黒い池の中心で。
泡が割れた。
じゅう。
飛んだ雫が。
岩をへこませる。
嫌な音だ。
俺の殻が。
先に痛がった。
「縄を渡す!」
「無理だ! こいつは動かせない!」
倒れている方の脚が。
黒く染まっていた。
遅い。
このままでは。
縄が届いても。
戻る前に毒が回る。
俺は。
ゆりかごの縁へ体を当てた。
右。
「駄目です」
ミミルは。
俺を見る前に答えた。
「ここから吸えば、池の毒まで入ってきます」
右。
「駄目です」
今度は。
俺を見た。
「先ほどとは量が違います」
分かっている。
「エッグ」
分かっている。
「あなたの生命力は、もう」
右。
ミミルの唇が。
強く結ばれた。
「……縄を二本ください」
盾役が。
黙って渡した。
一本を。
ミミルの腰へ。
もう一本を。
ゆりかごへ。
「落とさない」
「引き戻せ」
「三つ数える」
ミミルが。
黒い池の前へ膝をついた。
俺を。
両手で抱える。
「届かなければ、すぐ戻します」
左。
「これは譲りません」
右。
俺の返事を見て。
ミミルが息を吸った。
「一」
後ろで。
縄が張る。
「二」
俺は。
ひびを下へ向ける。
「三」
黒い池へ。
近づいた。
熱い。
まだ触れていない。
なのに。
殻の内側が焼ける。
黒い泡が。
ひびへ伸びた。
吸う。
腐毒が入る。
多い。
これまでとは。
違う。
傷から吸った毒は。
細い糸だった。
これは。
川だ。
黒い川が。
ひびから流れ込んでくる。
薬性魔力を。
ぶつける。
押す。
薄める。
変える。
変わらない。
もう一度。
押す。
黒が。
濁る。
さらに押す。
一部だけ。
透明になる。
足りない。
俺の中身が。
足りない。
なら。
殻も使え。
殻の奥から。
白いものが溶けた。
黒と混ざる。
透明へ。
================
ひび割れ率:49%
生命力:1/3
================
池の縁が。
わずかに下がった。
「今だ!」
縄が飛ぶ。
岩棚の男が受け取る。
倒れた仲間の胸へ回す。
「引け!」
五人が。
縄を引いた。
倒れた男が。
岩棚から滑り落ちる。
黒い池へ。
脚が触れた。
「ぐああっ!」
叫び声。
引け。
早く。
俺は。
もっと吸う。
池の水位を。
ほんの少しでも下げる。
黒い川が。
殻の中で暴れる。
俺の中が。
俺のものではなくなる。
それでも。
「抜けた!」
倒れていた男が。
こちら側へ引き上げられた。
続いて。
もう一人。
二人とも。
戻った。
「エッグ!」
縄が引かれる。
黒い池から。
俺の体が離れた。
吸い込んでいた腐毒が。
糸のように切れる。
ミミルの手へ。
戻る。
殻が。
軋んだ。
割れてはいない。
でも。
表面が。
柔らかい。
「治療を!」
引き上げた男の脚は。
膝下まで黒かった。
ミミルが。
薬瓶を取り出す。
残りは。
少ない。
俺は。
右へ震えた。
「させません」
ミミルが。
俺を胸元へ抱いた。
「もう吸わせません」
男の脚から。
黒が上がっていく。
膝。
腿。
速い。
「切るしかない」
「ここでか」
「上まで回れば死ぬ!」
剣が。
抜かれる。
男は。
歯を食いしばった。
「やれ」
俺は。
右へ。
震えた。
「駄目です!」
ミミルの声が。
迷宮に響いた。
「次も戻れる保証はないんです!」
全員が。
止まった。
「前とは違う。残った殻で、もう一度戻れるなんて、誰にも分かりません」
知っている。
「記憶だって、もう欠けているんです」
知っている。
「これ以上失ったら、あなたがあなたのまま戻る保証もない!」
それも。
知っている。
工房へ来た日のこと。
布の色。
答えを間違えた。
空っぽの場所。
次は。
ミミルの顔を。
忘れるかもしれない。
俺が。
俺ではない何かに。
なるかもしれない。
怖い。
死ぬのは。
一度目より。
ずっと怖い。
それでも。
目の前で。
男の脚を。
黒が上っている。
俺は。
右へ震えた。
一度。
強く。
「……エッグ」
もう一度。
右。
俺を使え。
違う。
俺を。
薬にしろ。
削られるのではない。
売られるのでもない。
俺が決めた。
俺が。
仲間を助けるために。
俺を使う。
ミミルの腕が。
震えた。
「あなたは、ずるいです」
声も。
震えていた。
「そんなふうに決められたら、私は……あなたを道具にしないために、あなたの意思を無視することになる」
ミミルは。
目を閉じた。
すぐに。
開いた。
「一度だけです」
右。
「この人を治したら、帰ります」
右。
「絶対にです」
俺は。
右へ震えた。
ミミルが。
俺のひびを。
男の脚へ当てる。
吸う。
男の中から。
腐毒が流れ込む。
黒が。
膝から下がる。
腿から消える。
薬性魔力は。
もう押し返さなかった。
黒に触れた端から。
削られていく。
なら。
削られる前に。
変えろ。
早く。
全部。
透明な雫が。
殻の表面に浮いた。
「受け皿!」
小皿が差し込まれる。
一滴。
二滴。
三滴。
男の脚へ。
塗られる。
黒が止まった。
呼吸が。
戻った。
「助かった……」
よかった。
これで。
全員。
「戻るぞ!」
盾役が叫んだ。
「核はどうする」
「この人数じゃ無理だ。入口まで退いて応援を――」
音がした。
ぼこり。
黒い池が。
盛り上がる。
中央から。
太い根のようなものが突き出た。
迷宮の奥へ。
続いている。
脈打つたび。
腐毒があふれる。
池だけではない。
壁のひびから。
天井の穴から。
黒い雫が噴き出した。
「走れ!」
隊列が。
反転する。
来た道へ。
だが。
黒い雨が。
先に道を埋めた。
出口へ続く通路が。
黒い霧で塞がれる。
「別の道は!」
「ない!」
「盾を重ねろ!」
三枚の盾が並ぶ。
黒い雨が当たる。
じゅう。
表面が溶ける。
一枚。
穴が開く。
二枚目。
縁が崩れる。
三枚目の裏で。
ミミルが俺を抱いた。
「下がって!」
盾の穴から。
一滴。
飛んだ。
ミミルの腕へ。
「っ!」
袖が。
黒くなる。
布が消える。
その下の肌へ。
黒が食い込んだ。
ミミル。
俺は。
腕の中で跳ねた。
「平気です」
平気ではない。
「薬を塗れば」
瓶は。
空だ。
小皿も。
さっき使った。
ミミルは。
俺から腕を離した。
隠した。
「駄目です」
俺は。
転がった。
ゆりかごの縁へ。
「エッグ」
落ちる。
ミミルの腕へ。
ひびを。
傷へ押しつける。
「やめて!」
吸う。
黒が入る。
ミミルの腕から。
腐毒が消える。
俺の中へ。
================
ひび割れ率:71%
================
殻の内側で。
何かが破れた。
熱くない。
もう。
痛くもない。
それが。
一番怖い。
ミミルが。
俺を引き離した。
「どうして……!」
腕の黒は。
消えている。
よかった。
でも。
道は。
まだ塞がっている。
盾は。
もう持たない。
通路全体に。
腐毒が満ちている。
ここだけ吸っても。
また核から流れ込む。
なら。
全部。
引き受ける。
俺は。
通路の奥を見た。
黒い根。
脈打つ源。
その上。
天井に。
大きな亀裂がある。
腐毒に溶かされ。
岩が浮いている。
根元には。
細い石の柱が一本。
あれが。
落ちれば。
通路は埋まる。
核から続く根も。
黒い池も。
向こう側へ。
残った問題は。
ここにある毒だけ。
俺は。
ミミルの腕から抜けた。
床へ落ちる。
柔らかくなった殻が。
潰れかける。
「エッグ!」
転がる。
黒い霧へ。
一回。
半回転。
遅い。
それでも。
前へ。
盾役が。
俺を拾った。
「何をする気だ」
俺は。
石の柱へ向けて震えた。
右。
柱。
右。
天井。
「まさか」
男が。
亀裂を見た。
「崩す気か」
右。
「全員、生き埋めになるぞ」
左。
出口側へ。
俺は体を傾ける。
毒を消す。
全員を通す。
最後に。
崩す。
男の顔が。
歪んだ。
「お前はどうする」
俺は。
右にも。
左にも。
震えなかった。
答えは。
それで十分だった。
「駄目です」
ミミルが。
俺を奪い返した。
「それだけは認めません」
強く。
抱きしめる。
「一緒に帰ると言ったでしょう」
言った。
「全員で帰ると」
そうだ。
だから。
ミミルも。
帰れ。
俺は。
薬になる。
ひびを。
黒い通路へ向けた。
吸う。
霧が。
揺れた。
「やめてください!」
吸う。
黒い雨が。
途中で曲がる。
俺へ。
集まる。
「エッグ!」
吸う。
床の黒が。
細い流れになった。
ひびへ。
壁の毒も。
盾に残った毒も。
負傷者の服についた毒も。
全部。
入ってくる。
================
ひび割れ率:84%
================
殻の白が。
黒く染まる。
薬性魔力を。
押し出す。
黒を。
透明へ。
透明な液が。
殻の外へにじんだ。
「瓶を!」
ミミルが叫ぶ。
空の瓶が。
並べられる。
一つ。
二つ。
三つ。
雫では。
足りない。
もっと。
《薬性分泌》。
出せ。
全員分。
傷が残っている。
吸い込んだ毒が残っている。
帰る途中で。
また倒れるかもしれない。
だから。
俺を。
薬にしろ。
殻の表面から。
透明な液があふれた。
瓶へ。
小皿へ。
空になった薬袋へ。
「塗れ!」
「少しずつ飲ませろ!」
「動ける者から負傷者へ!」
透明な液が。
全員へ渡る。
黒ずんでいた指が。
元の色へ戻る。
浅かった息が。
深くなる。
震えていた脚が。
立つ。
================
ひび割れ率:93%
================
あと。
少し。
通路の霧が。
薄くなる。
「道が見えた!」
「走れる!」
「負傷者を先に!」
動け。
早く。
俺の殻から。
黒い泡が出た。
内側から。
溶けている。
「ミミル」
盾役が。
彼女の肩をつかんだ。
「行くぞ」
「エッグを置いていけません」
「置いていかない。抱いて走れ」
ミミルは。
俺を持ち上げた。
走る。
一人目が。
薄くなった霧を抜ける。
二人目。
三人目。
救助した二人も。
肩を借りて。
通り抜ける。
俺から。
透明な液が落ちる。
通った者の足元へ。
残る腐毒を。
消していく。
「全員抜けた!」
まだ。
核がある。
黒い根が。
脈打つ。
また。
通路へ毒を吐く。
俺は。
ミミルの手の中で。
石の柱へひびを向けた。
「分かっています」
ミミルの声が。
かすれた。
「でも、あなたをそこへ置くことはできません」
置かなくていい。
近づけて。
俺は。
右へ震えた。
「一緒にやるんですね」
右。
ミミルは。
俺を抱えたまま。
柱へ走った。
「援護しろ!」
盾役が。
残った盾を掲げる。
剣士が。
黒い根を切り払う。
柱の前。
ミミルが。
俺の殻を押し当てた。
「一度で」
右。
「必ず」
右。
微振動。
震える。
小さく。
攻撃にもならない。
石を砕く力もない。
でも。
腐毒で。
柱の中は空洞になっている。
小さな揺れが。
中へ入る。
かり。
石の粉が落ちた。
もっと。
震える。
かり。
かり。
柱に。
細い亀裂が走る。
天井の大岩が。
軋む。
「崩れるぞ!」
「走れ!」
ミミルが。
俺を胸へ抱く。
走る。
後ろで。
柱が折れた。
天井が。
落ちる。
黒い根を。
池を。
迷宮核へ続く道を。
岩が埋めていく。
轟音。
風。
石の破片。
ミミルが。
俺を守るように背を丸めた。
盾役が。
二人まとめて引いた。
境目を。
越える。
最後の一人が。
こちらへ飛び込む。
その後ろへ。
大岩が落ちた。
道が。
閉じた。
黒い雨の音が。
止まる。
誰も。
欠けていない。
全員。
いる。
================
ひび割れ率:100%
生命力:0/3
================
ああ。
出た。
今回は。
見間違いではない。
百。
きれいに。
終わっている。
「エッグ?」
ミミルが。
俺を見る。
俺の殻は。
もう白くなかった。
黒く。
半分ほど。
透けている。
「帰りましょう」
そうだな。
「すぐに工房へ戻ります」
うん。
「先生にも、薬師ギルドにも、できることを全部聞きます」
うん。
「だから」
ミミルの手が。
震えている。
「右へ、動いてください」
動け。
右へ。
いつものように。
ほんの少しでいい。
震えろ。
俺の体は。
動かなかった。
「エッグ」
もう。
痛くない。
音も。
遠い。
「お願いします」
ミミルの顔が。
ぼやける。
忘れたくない。
この顔を。
声を。
俺を。
廃棄しなかった人を。
「右へ……」
ごめん。
無理だ。
殻の内側から。
黒い液がにじんだ。
外側からも。
殻が溶けた。
「いや」
ミミルが。
両手で包む。
こぼさないように。
俺を。
集めるように。
「駄目です」
白い殻が。
指の間で。
薄くなる。
「まだ、帰っていません」
全員。
帰れる。
「エッグも一緒でなければ、全員ではありません」
そうか。
それは。
困ったな。
なら。
戻らないと。
もう一度。
戻れるかは。
分からないけど。
ミミルの手の中に。
小さな殻が。
一片だけ。
残った。
黒く濡れ。
端が溶けた。
俺だったもの。
それを。
ミミルは。
胸へ抱いた。
「帰ります」
返事は。
できなかった。
「あなたも」
それでも。
ミミルは。
最後まで。
俺を。
置いていかなかった。
全員で帰るため、エッグは再び自分の命を使いました。
ミミルの手に残った、小さな殻。その先を見届けていただければ幸いです。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」「卵、がんばれ」と思っていただけたら、下の☆☆☆☆☆やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。感想もひとこと置いていってくれたら、殻にヒビが入るくらい励みになります。
廃棄推奨の最弱卵が世界を孵すまで、どうか見届けてやってください。




