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第45話 薬草迷宮の黒い雨

警鐘は。


 街を出ても聞こえていた。



 一度。


 二度。


 三度。



 途切れない。



 薬草迷宮へ続く道を。


 人が走っている。



 薬師。


 冒険者。


 担架を持った衛兵。



 戻ってくる者もいた。



 服が焦げている。


 腕に布を巻いている。


 布の下から。


 白い煙が上がっている。



「水をかけるな! 広がるぞ!」


「中和液を先に!」


「足りない! 薄めて使え!」



 怒鳴り声が。


 あちこちから飛ぶ。



 携帯ゆりかごの中で。


 俺は揺れていた。



 走っているのに。


 殻へ衝撃が来ない。



 革紐が引く。


 ばねが沈む。


 布が戻す。



 快適。



 いや。


 感心している場合ではない。



「エッグ。苦しくありませんか?」



 右。



「ひびは?」



 右。



 問題ない。



 ミミルは頷き。


 さらに速度を上げた。



 薬草迷宮の入口は。


 丘の裂け目にあった。



 普段なら。


 青い苔が光り。


 甘い薬草の匂いが流れてくるらしい。



 今は。



 黒い。



 裂け目の奥から。


 黒い靄が。


 呼吸するように膨らんでいる。



 地面には。


 溶けた草。



 黒い汁。



 踏み込んだ靴跡さえ。


 縁から崩れていた。



「戻った者は!」



 革鎧の冒険者が叫ぶ。



「入口付近の班だけだ! 第三採取区画に二班残ってる!」


「迷宮の抜け道は?」


「崩落してる。正面から行くしかない!」



 正面。



 あれへ。



 俺のひびが。


 じわりと熱くなった。



 嫌がっている。



 同時に。


 吸いたがっている。



 どっちだ。



 俺の体なのに。


 意見を統一してほしい。



 薬師ギルドの者が。


 布包みを配っていた。



「口と鼻を覆え! 中和薬は一人二本! 一本は自分用、もう一本は救助者用だ!」


「二本で足りるのか?」


「足りない! だから戻れなくなる前に戻れ!」



 安心できる答えが。


 一つもない。



 ミミルも。


 薬液を受け取る。



 小瓶が二本。


 腰へ収まった。



 それだけ。



「あなたは入口で待機を」



 薬師が。


 ゆりかごを見て言った。



 俺ではない。


 ゆりかごを見た。



 中に何がいるのか。


 確かめる余裕すらないらしい。



 俺は。


 右へ震えた。



 大きく。



「エッグは同行します」



「中は腐毒だぞ」


「分かっています」


「その卵に毒への耐性があっても、今回のものは別だ。麻痺毒でも眠り薬でもない。生きた肉も、革も、金属も腐らせる」



 知ってる毒と。


 違う毒。



 つまり。



 俺の耐性は。


 役に立たない。



 終わってる。



「無効化できるとは考えていません」



 ミミルの手が。


 ゆりかごの縁に触れる。



「この子が危険だと合図したら、すぐ戻ります」



 右。



 戻る。



 危険なら。



 たぶん。



 手遅れになる前に。



 冒険者が。


 黒い裂け目を見る。



「人数が要る。入るなら俺たちの真ん中だ。勝手に離れるな」


「はい」



 五人。


 ミミル。


 俺。



 救助隊は。


 迷宮へ入った。



 最初に聞こえたのは。


 雨の音だった。



 ぱた。



 ぱたぱた。



 天井から。


 黒い雫が落ちている。



 一滴が。


 岩へ当たった。



 じゅっ。



 煙が上がる。



 岩が。


 指一本分。


 へこんだ。



 雨。



 これは。


 雨と呼んでいいのか。



 降ってくる。


 溶ける。


 死ぬ。



 黒い雨。



「盾、上!」



 冒険者たちが。


 油を塗った盾を掲げる。



 黒い雫が当たるたび。


 表面が泡立った。



 ミミルは。


 その下を進む。



 ゆりかごにも。


 厚い布がかけられた。



 暗い。



 外が見えない。



 でも。


 匂いは入ってくる。



 腐った果実。


 焼けた髪。


 苦い薬。



 息をするたび。


 殻のひびが。


 ちくりと痛んだ。



 毒は。


 雨だけではない。



 空気にもいる。



 薄い。


 細かい。


 見えない何かが。



 ひびから入り込もうとしている。



 俺は。


 震えた。



 左。



 ミミルが。


 すぐに止まる。



「毒が濃いです」



「分かるのか?」


「この子の反応で」



 先頭の冒険者が振り返る。



「右は?」


「大丈夫という合図です」


「じゃあ、どっちへ行ける?」



 布が少し持ち上がった。



 正面。


 左。


 右。



 三本の通路。



 全部。


 黒い靄に包まれている。



 違いが分からない。



 俺にも。



 このままでは。



 分からない。



 ひびを。


 少しだけ開く。



 白い修復パテが。


 縁を支えている。



 壊れない。



 塞がれてもいない。



 黒い空気が。


 触れた。



 熱い。



 いや。



 痛い。



 殻の内側を。


 ざらざらした舌で。


 削られるような痛み。



 生命力を。


 確認したくなる。



 でも。



 今は数字を見ている場合ではない。



 左の通路から。


 ほんの少し。



 右の通路から。


 もう少し。



 正面から。



 大量。



 黒いものが流れ込む。



 俺は左を向くように。


 ゆりかごを揺らした。



「左です」



「信用していいんだな?」


「私は信用します」



 即答。



 重い。



 信頼が重い。



 でも。



 ゆりかごよりは。


 ずっといい。



 俺は右へ震えた。



 隊列が。


 左へ入る。



 一歩。



 二歩。



 黒い靄が薄くなった。



「本当だ。息が楽になった」


「止まらないでください。流れが変わるかもしれません」



 ミミルが言う。



 そのとおり。



 空気は。


 動いている。



 薄い場所が。


 ずっと薄いとは限らない。



 俺はひびから。


 ごく少しずつ。


 腐毒を取り込んだ。



 痛い。



 吸えば。


 内側が焼ける。



 それでも。


 流れてくる向きは分かる。



 毒の少ない場所も。



 安全ではない。



 少し遅く死ぬ場所だ。



「次、右ですか?」



 右。



「その先は?」



 左。



「危険?」



 右。



 ミミルが足を止めた。



「右の先にも、濃い場所があります」



「ではどうする?」


「進みます。ほかは、もっと危険です」



 そう。



 一番まし。



 それだけ。



 救助隊は。


 壁際へ寄った。



 黒い雨の切れ目を。


 一人ずつ走る。



 最後の冒険者が。


 足を滑らせた。



 盾が傾く。



 一滴。



 肩へ落ちた。



「ぐっ!」



 革鎧が。


 黒く縮む。



 留め具が。


 ぼろりと崩れた。



 ミミルが小瓶を抜く。



 薬液を。


 傷の周りへかける。



 泡。



 白煙。



 鼻を刺す匂い。



「鎧を外してください!」


「腕は!?」


「まだ皮膚まで深く入っていません。早く!」



 鎧を切り離す。



 地面へ落ちた革が。


 黒い泥になった。



 一本。



 もう。


 使った。



 残り一本。



 救助者用だった薬が。



 先へ進む。



 雨音が。


 強くなる。



 ぱたぱたではない。



 ざあ。



 ざああ。



 通路の奥で。


 黒い雨が降っている。



 その手前。



 岩陰から。



「誰か……!」



 声。



 冒険者たちが走る。



 窪みに。


 人がいた。



 三人。



 一人は立てない。



 一人は腕を押さえている。



 もう一人は。


 折れた採取籠を盾にしていた。



 籠の上半分は。


 もうない。



「救助隊だ!」


「遅いぞ……!」



 悪態。



 生きている。



 悪態をつけるくらいには。



「ほかの班は?」


「奥だ。二人。こっちへ来る途中で、雨が増えて分断された」


「動けるか?」


「こいつは無理だ。脚をやられた」



 ズボンの裾が。


 溶けている。



 その下。



 皮膚が黒くただれていた。



 ミミルが。


 残った小瓶を見る。



 一本。



 負傷者。


 一人。



 奥にも。


 二人。



 足りない。



 最初から分かっていた。



 それでも。



 実際に並べると。



 もっと足りない。



「使います」



 ミミルが。


 瓶を開けた。



 ためらわない。



 黒い傷へ。


 少しずつ垂らす。



 俺は。


 ひびの奥が熱くなるのを感じた。



 薬。



 傷。



 毒。



 薬性魔力が。


 勝手に動こうとする。



 でも。



 今は。


 届かない。



 ゆりかごの中からでは。



 俺は前へ震えた。



「エッグ?」



 もう一度。



 前。



「傷へ近づきたいのですか?」



 右。



 ミミルは。


 すぐには動かなかった。



 黒い傷。


 俺の殻。


 空になった瓶。



 順番に見る。



「触れません。近づけるだけです」



 右。



 ゆりかごが。


 負傷者の脚の横へ下ろされる。



 熱い。



 黒い毒が。


 傷口から漂っている。



 俺のひびへ。


 入ってくる。



 痛みが増した。



 薬性魔力を。


 押し返す。



 傷へ。



 白い泡が。


 わずかに増えた。



「傷の広がりが止まった……?」



「完全には止まりません。運べるうちに」



 俺も。


 完全には止められない。



 吸った腐毒が。


 殻の内側に残っている。



 麻痺しない。



 眠くもならない。



 ただ。



 溶ける。



 知らない毒。



 俺を。


 きちんと殺せる毒。



 負傷者を背負い。


 隊列が戻る。



 奥の二人は。



 置いていけない。



 だが。



 まず。


 この三人を入口へ。



 そう決めて。



 来た通路へ戻った。



 そこで。



 全員が止まった。



 音が違う。



 雨ではない。



 濁流。



 黒い靄が。


 通路いっぱいに押し寄せている。



 床も。


 壁も。


 天井も。



 黒い。



「さっきは、こんな……」



 冒険者が。


 盾を前へ出す。



 黒い流れが触れた。



 一瞬で。



 盾の縁が消えた。



「下がれ!」



 盾を捨てる。



 床へ落ちる前に。


 半分が崩れた。



 戻れない。



 別の通路を探す。



 右。



 黒い雨。



 左。



 崩落。



 奥。



 取り残された二人。



 出口は。


 目の前にあるはずなのに。



 そこへ続く道がない。



 俺は。


 流れてくる腐毒へ。


 ひびを向けた。



 濃い。



 さっきまでとは。


 比べものにならない。



 吸う前から分かる。



 これは。


 通路に溜まった毒ではない。



 もっと奥から。


 今も。


 増え続けている。



「迷宮の流れが変わってる」



 採取班の一人が。


 青ざめた顔で言った。



「薬草迷宮は、奥の核から水と魔力を巡らせてる。それが全部、腐毒になって噴き出してるんだ」



「止まる可能性は?」


「ない」



 短い答え。



「核の異常を止めない限り、増える。ここも埋まる」



 天井から。



 一滴。



 黒い雨が落ちた。



 じゅっ。



 俺たちの間に。


 新しい穴が開く。



 出口は塞がれた。



 負傷者がいる。



 中和薬はない。



 奥には。


 まだ二人。



 そして。



 黒い雨は。



 増えている。



 逃げ場が。



 なくなっていく。



 俺のひびの中で。


 吸い込んだ腐毒が。


 殻を焼いた。



 痛い。



 怖い。



 また死ぬかもしれない。



 それでも。



 毒が流れてくる向きだけは。



 はっきりと分かった。



 迷宮の奥。



 核がある方角。



 俺は。



 そちらへ震えた。

新しいゆりかごで、エッグは薬草迷宮へ。

耐えられる毒ではなくても、ひびから取り込めば道を探せる――その代償が、静かに殻を蝕み始めます。


お読みいただきありがとうございます!


「続きが気になる」「卵、がんばれ」と思っていただけたら、下の☆☆☆☆☆やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。感想もひとこと置いていってくれたら、殻にヒビが入るくらい励みになります。


廃棄推奨の最弱卵が世界を孵すまで、どうか見届けてやってください。

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