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第44話 孵れば、もう変われない

記憶殻の銀針が。


 止まった。



 三本の紋は。


 殻片に残っている。



 名前。



 名前。



 相棒。



 そこまでは。


 よかった。



 問題は。


 その隣に置かれた紙だった。



「孵化後の形質固定について」



 ミミルが読み上げる。



 聞きたくない題名だ。



 俺は。


 右にも左にも震えず。


 紙を見た。



 文字は読める。



 けれど。


 読めるからこそ。



 見なかったことには。


 できなかった。



「ギルドの保管庫から、卵型魔物の研究記録を借りました」



 紙は一枚ではない。



 古い報告書。


 解剖図。


 孵化前後の鑑定記録。



 どれも。


 端が黄ばんでいた。



「孵化前に複数の属性へ反応した個体も、孵化後は一つの形質に定着しています」



 炎と風を取り込んだ卵。



 孵ったのは。


 炎を吐く鳥。



 風への反応は。


 消えた。



 毒と水を取り込んだ卵。



 孵ったのは。


 毒を持つ水棲獣。



 その後。


 別の因子を与えても。


 形は変わらなかった。



「孵化は、成長ではあります」



 ミミルの指が。


 次の記録へ移る。



「殻に守られた不安定な器官が完成し、生命力も安定する。外からの衝撃にも強くなる」



 強くなる。



 安定する。



 いいことばかりに。


 聞こえる。



「卵の時期に起きていた、魔力紋の欠落も止まった例があります」



 俺は。


 動けなかった。



 記憶が。



 削れなくなる。



 あの日のことを。


 もう失わずに済む。



 ミミルの名前を。


 忘れずに済む。



 俺たちが相棒だということを。


 殻片へ預けなくても。


 抱えていられる。



「今のエッグにも、孵化を促す薬を作れるかもしれません」



 ミミルの手元には。


 小さな瓶があった。



 まだ空だ。



 中身はない。



 けれど。



 薬師のミミルが。


 作れるかもしれないと言った。



 なら。


 たぶん作れる。



「成功すれば、今の殻の脆さはなくなる可能性があります」



 転がっただけで。


 ひびが増える殻。



 布に包まれなければ。


 机からも下りられない体。



 誰かを助けたいと思っても。


 運んでもらわなければ。


 そこへ行くことすらできない。



 孵れば。



 足が生えるかもしれない。



 翼かもしれない。



 牙かもしれない。



 少なくとも。



 卵ではなくなる。



 ひび割れ卵でも。


 なくなる。



 悪くない。



 悪くないはずだ。



「ただし」



 来た。



 その言葉が。



 ミミルの声を。


 重くした。



「孵化後に、新しい形質を獲得した記録はありません」



 紙がめくられる。



「高濃度の魔力を与えても、毒へ晒しても、傷ついた器官を再生させても、変化は既存の形質の範囲内です」



 俺のひびが。



 冷えた。



「今のエッグが持っている、外から何かを取り込んで変わる性質も」



 ミミルは。


 そこで言葉を切った。



 技能の名前は。


 彼女には見えない。



 死んだあと。


 殻を継いで戻ったことも。



 薬液や毒を取り込み。


 今の俺になったことも。



 彼女は。


 現象としてしか知らない。



 それでも。


 意味は同じだった。



「孵化すれば、失われる可能性が高いです」



 《因子吸収》。



 《殻継転生》。



 ひび割れているから。


 入ってくるもの。



 死んでも。


 別の卵として戻る力。



 それが。



 閉じる。



 今の俺のまま。


 固定される。



 薬魔卵。



 脆くて。


 自分ではほとんど動けず。



 いくつかの薬を分泌できて。



 麻痺と眠りに。


 少し強い。



 それが。


 俺の完成形になる。



 もう。



 変われない。



 俺は。


 空の瓶を見た。



 安全。



 記憶。



 体。



 全部。


 欲しい。



 欲しいに決まっている。



 死ぬのは怖い。



 忘れるのは。


 もっと怖い。



 今度。


 ミミルの名前を失ったら。



 記憶殻に触れることさえ。


 思いつけないかもしれない。



 なら。



 孵るべきだ。



 ここで終わっても。



 生きていられるなら。



「私は」



 ミミルが。



 空の瓶へ手を伸ばした。



「エッグには、安全でいてほしいです」



 指が。


 瓶に触れる。



「もう、あんなふうに壊れてほしくない」



 声が。


 震えていた。



 あのとき。



 俺の殻は砕けた。



 薬液へ沈み。



 動かなくなった。



 それを見ていたのは。


 俺ではない。



 ミミルだ。



「ですから、孵化を――」



 俺は。



 右へ震えかけた。



 安全になりたい。



 忘れたくない。



 ミミルを。


 もう泣かせたくない。



 だから。



 右。



 そう伝えれば。



 全部。


 楽になる。



 けれど。



 俺は。


 止まった。



 孵化すれば。



 もう変われない。



 今の俺では。


 ミミルを背負えない。



 追ってくる奴らから。


 守れない。



 世界のどこかにある。


 俺のひびと同じ傷へも。



 たぶん。


 届かない。



 欠けている。



 弱い。



 何度も。


 それで終わりだと思った。



 でも。



 俺はひびから取り込んだ。



 血も。



 魔力も。



 薬も。



 毒も。



 終わるはずだった場所から。



 次の俺になった。



 ひびがなくなれば。



 俺は。


 もう俺ではない。



 俺は。



 左へ震えた。



 ミミルの指が止まる。



「孵化は、しない?」



 右。



「今は、ですか?」



 右。



 今は。



 まだ。



 決めない。



 孵化そのものが。


 間違いだとは思わない。



 いつか。



 何かになる日が来るかもしれない。



 けれど。



 怖さだけで。



 今の可能性を閉じたくない。



「記憶を失う危険があっても?」



 右。



「殻が壊れやすいままでも?」



 右。



「また、死ぬかもしれなくても?」



 震える。



 怖い。



 ものすごく怖い。



 それでも。



 右。



 ミミルは。



 長く。


 何も言わなかった。



 やがて。



 空の瓶を。


 机の端へ退けた。



「分かりました」



 紙へ。


 一本の線が引かれる。



 孵化促進剤。



 その文字の上へ。



 細い線。



 消してはいない。



 ただ。



 今は作らないと。



 分かる線だった。



「孵化させません」



 ミミルが。


 俺の前へ屈む。



「エッグが選ぶまでは」



 殻の奥が。


 温かくなった。



「ですが、壊れやすいままにはしません」



 ミミルは立ち上がった。



 棚から。


 低刺激の基剤。



 樹脂。



 細かく砕いた薬石。



 乾燥させた粘菌の膜。



 いくつもの材料を。


 机へ並べる。



「ひびを塞ぎ切ると、エッグの変化を妨げるかもしれません」



 小鍋へ。


 基剤が落ちる。



「ですから、閉じません」



 樹脂。



 薬石。



 膜。



 透明な液体が。


 白く濁っていく。



「広がらないように、縁だけを支えます」



 それは。



 治す薬ではなかった。



 俺のひびを。


 消す薬でもなかった。



 ひび割れたまま。



 壊れにくくするもの。



 ミミルは。


 細い硝子棒の先へ。


 完成した白いパテを取った。



「少し冷たいですよ」



 右。



 ひびの縁へ。



 薄く。



 本当に薄く。


 白い線が引かれる。



 冷たい。



 けれど。


 痛くない。



 固まっても。



 ひびの中央は開いている。



 空気も。



 魔力も。



 通る。



 俺が俺でいるための傷を。



 残したまま。



 殻だけが。


 少し強くなった。



 ミミルが。


 布の上で俺をそっと押す。



 ころり。



 いつもなら。



 その程度でも。


 嫌な音がする。



 今日は。



 鳴らない。



「卵殻修復パテ。これなら、どうでしょう?」



 俺は。



 右へ震えた。



 もう一度。



 右。



 右。



「では、持ち運ぶ方も変えましょう」



 今度は。


 木枠。



 革紐。



 綿。



 薄い金属ばね。



 小さな箱の中へ。


 布が吊られていく。



 揺らすと。



 中央の布だけが。


 ゆっくり動いた。



 外側の衝撃は。



 ばねと革紐へ逃げる。



「箱ではありません」



 ミミルが言う。



「荷物を入れるものではありませんから」



 俺を。


 中央へ置く。



 布が沈み。



 ぴたりと支えた。



「携帯ゆりかごです」



 ゆりかご。



 卵なのに。



 赤ん坊扱い。



 いや。



 箱よりはいい。



 かなりいい。



 ミミルが持ち上げる。



 揺れた。



 でも。



 殻には響かない。



 これは。



 楽だ。



 俺は調子に乗って。


 右へ大きく震えた。



 ゆりかごが揺れた。



 戻った。



 また揺れた。



 ちょっと楽しい。



「気に入りましたか?」



 右。



「よかった」



 ミミルが笑う。



 孵らなくても。



 今日を生きる方法はある。



 変われる余地を残したまま。



 壊れないための工夫もできる。



 俺たちは。



 選ばなかった。



 決められなかったのではない。



 今は決めないと。



 二人で決めた。



 そのとき。



 工房の扉が。



 強く叩かれた。



「ミミル! いるか!」



 何度も。



 急かす音。



 ミミルが扉を開ける。



 立っていたのは。


 泥まみれの冒険者だった。



 肩で息をしている。



 靴には。



 黒ずんだ草の汁。



 それから。



 鼻を刺す。



 腐った甘い匂い。



「薬草迷宮で腐毒が噴いた!」



 ミミルの顔から。


 笑みが消える。



「採取班が戻ってない。三人、いや、奥の班も合わせればもっといる!」



 腐毒。



 その言葉に。



 俺のひびが。



 熱を持った。



「中和薬が足りない。薬師ギルドから、動ける者は全員来てくれって!」



 ミミルが。


 俺を見る。



 机の端には。



 空の瓶。



 孵化を促すはずだった瓶。



 俺の殻には。



 乾いたばかりの白い線。



 体の下には。



 新しいゆりかご。



「エッグ」



 右。



 まだ。



 何も聞かれていない。



 それでも。



 答えは決まっていた。



 孵れば。



 安全になれたかもしれない。



 卵のままなら。



 また壊れるかもしれない。



 でも。



 卵のままだから。



 あの毒へ。



 届くものがあるかもしれない。



 ミミルが。


 携帯ゆりかごの革紐を握る。



「行きましょう」



 右。



 工房の外から。



 警鐘が鳴った。



 俺は。



 孵らないまま。



 次の傷へ向かった。

安全な完成形か、危険な可能性か。

エッグは答えを確定せず、「今は選ばない」ことを自分で選びました。


お読みいただきありがとうございます!


「続きが気になる」「卵、がんばれ」と思っていただけたら、下の☆☆☆☆☆やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。感想もひとこと置いていってくれたら、殻にヒビが入るくらい励みになります。


廃棄推奨の最弱卵が世界を孵すまで、どうか見届けてやってください。

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