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第43話 忘れた昨日、残った振動

工房へ戻っても。



 ミミルは。


 窓を開けなかった。



 扉に封鎖薬。


 窓枠に遮断紙。


 煙突には。


 魔力を散らす灰。



 白い光は。


 もう見えない。



 でも。



 見えないから。


 届かなかったとは限らない。



 あの共鳴が。


 ここにいると。


 向こうへ伝えていたら。



 また来る。



 商人か。


 貴族か。


 白い面か。



 全部かもしれない。



「熱は、下がりましたか?」



 ミミルの指が。


 俺のひびへ触れる。



 さっきよりは。


 ましだ。



 だから。



 右。



「痛みは、ありませんか?」



 ない。



 もう。


 ほとんど。



 俺は。


 右へ揺れた。



 ミミルの指が止まる。



「痛みが、あるんですね」



 違う。



 ない。



 今のは。



 俺は慌てて。


 左へ揺れた。



「ありませんか?」



 右。



 そう。



 ない。



 ミミルは。


 俺を見た。



 いや。



 殻しかないから。


 どこを見られているのかは分からない。



 でも。


 見られている。



「もう一度、確認します」



 静かな声だった。



「右が、はい」



 右。



「左が、いいえ」



 左。



 合っている。



 当たり前だ。



 こんなの。


 今まで何度もやった。



「先ほど、痛みがないという質問に、右へ答えました」



 ……そうだ。



 間違えた。



 ただの間違いだ。



 白い光で。


 ひびが熱くなって。



 疲れて。



 少し。


 混乱しただけ。



「怖がらなくて大丈夫です」



 ミミルは。


 俺ではなく。



 自分へ言っているようだった。



「疲れているだけかもしれません」



 右。



 そうだ。



 それでいい。



 そういうことに。


 しておきたい。



 ミミルは俺を。


 作業台の中央へ置いた。



 いつもの布が敷かれる。



 厚くて。


 少し毛羽立っていて。



 色は。



 色。



 何色だった。



「ここへ来た日のことを、覚えていますか?」



 右。



 覚えている。



 ミミルが。


 俺を拾った。



 捨てられそうだった俺を。


 工房へ連れてきた。



「最初に置いた場所は、この作業台でしたか?」



 俺は。


 台の上を見る。



 薬瓶。


 乳鉢。


 乾燥させた薬草。



 最初。



 最初は。



 ここだったか。



 棚だった気もする。



 籠だった気もする。



 床に置かれた気も。



 いや。



 床は嫌だ。



 俺は卵だが。


 落とし物ではない。



「覚えていませんか?」



 右へ行こうとして。



 止まった。



 覚えている。



 はずなのに。



 場所だけが。


 出てこない。



 俺は。


 弱く震えた。



 はいでも。


 いいえでもない。



「では、布の色は?」



 答えられない。



 そもそも。


 右と左で。


 色は答えられない。



 ミミルも気づいた。



「すみません。聞き方を変えます」



 一度。


 息を吸う。



「白でしたか?」



 左。



「青でしたか?」



 左。



「茶色でしたか?」



 俺は。



 揺れられなかった。



 今敷かれている布は。


 薄い茶色だ。



 ずっと使っている。


 いつもの布。



 なのに。



 最初からこれだったのか。



 途中で替えたのか。



 分からない。



 穴が。



 開いている。



 暗くもない。



 ぼやけてもいない。



 そこに何かがあったことだけは分かる。



 でも。


 中身がない。



 昨日置いた薬瓶を。


 誰かが持っていったみたいに。



 記憶を置いていた場所だけが。


 空いている。



 俺は。



 最初に工房へ来た。



 ここで。


 ミミルに守られた。



 それは分かる。



 そのとき。



 何を見た。



 どんな匂いがした。



 ミミルは。


 最初に何を言った。



 知らない。



 俺のことなのに。



 俺が。


 知らない。



 殻が。


 細かく震えた。



「エッグ」



 ミミルの両手が。


 俺を包む。



「今、思い出せなくても大丈夫です」



 違う。



 大丈夫ではない。



 忘れた。



 俺は。



 死ぬ前の何かを。


 落としてきた。



 技能だけではなかった。



 転がる力。



 探す力。



 それだけでは。



 なかった。



「一時的な混乱かもしれません」



 ミミルは。


 そう言いながら。



 検査器具を出した。



 細い銀針。


 薄い硝子板。


 魔力を流すための。


 青い薬液。



 俺の殻は削らない。



 針も刺さない。



 硝子板を。


 ひびの近くへ置く。



「少し、魔力を流します。嫌なら左へ」



 右。



 やってくれ。



 知りたい。



 怖いけど。



 知らないままのほうが。


 もっと怖い。



 青い薬液が。


 硝子板の溝を進む。



 銀針が震えた。



 俺の殻から。


 細い光が浮かぶ。



 曲がる線。



 重なる輪。



 小さな枝。



 ミミルは。


 紙へ一本ずつ写していく。



「再構築後に生じた紋」



 新しい線へ印。



「薬性反応」



 別の線。



「私への反応」



 銀針が。


 強く震えた。



 そこは。


 ある。



 ミミルの声。


 手の温度。


 守ろうとする腕。



 忘れていない。



 よかった。



 全部ではない。



 俺はまだ。



 俺だ。



 だが。



 ミミルの筆が止まった。



「ここに、つながるはずです」



 硝子板の一部。



 枝が。


 途中で切れている。



 何もない。



 傷ついているのではない。



 薄くなったのでもない。



 最初から線など。


 なかったような空白。



「工房の場所に対する反応はあります。私に対する反応もあります」



 ミミルが。


 かすれた声で言う。



「でも、その二つを結ぶ紋がありません」



 場所。



 ミミル。



 その間。



 初めて。


 ここへ来た記憶。



「欠けています」



 その言葉が。



 俺の中へ落ちた。



 ひびより。


 深い場所へ。



 俺は。


 死んだ。



 戻った。



 戻れたと思っていた。



 少し弱くなって。



 少しできないことが増えて。



 それでも。


 俺は俺のまま。



 そう思っていた。



 違った。



 戻る途中で。



 俺の昨日が。


 一つ。



 戻ってこなかった。



 ミミルは。


 すぐに俺を抱いた。



「ごめんなさい」



 なぜ。



 ミミルが謝る。



「私が、もっと残せていれば」



 違う。



 右。



 違う。



 何度も。


 右へ震える。



 ミミルのせいではない。



 俺が死んだ。



 俺が戻った。



 その代償だ。



 でも。



 次は。



 次に死んだら。



 何を落とす。



 この工房か。



 仲間として得たものか。



 ミミルか。



 それとも。



 俺が俺だということか。



 怖い。



 死ぬことより。



 戻ってきた俺が。



 今の俺ではなくなることが。



「待ってください」



 ミミルが。


 急に顔を上げた。



 俺を布の上へ戻す。



 棚へ向かい。


 一番下の引き出しを開ける。



 鍵。



 封鎖紙。



 小さな木箱。



 その中に。



 欠片があった。



 古い殻片。



 今の白みがかった殻とは違う。



 くすんだ色。



 細いひび。



 小さな欠け。



 俺だ。



 死ぬ前の。



 俺の殻。



「初めて工房へ来たあと、自然に落ちたものです」



 ミミルは。


 殻片を捨てなかった。



 売らなかった。



 削らなかった。



 封じて。


 残していた。



「反応を見るだけです。吸収させません。嫌なら――」



 右。



 触れたい。



 俺の昨日に。



 ミミルが。


 古い殻片を近づける。



 こつ。



 今の殻へ。


 昔の俺が触れた。



 光った。



 青い布。



 違う。



 布ではない。



 青い袖。



 俺を抱えている。



 雨の匂い。



 焦げた薬草。



 傾いた棚。



 窓から差す。


 夕方の橙色。



 ミミルの顔。



 泥で汚れて。



 疲れていて。



 それでも。



『ここなら、捨てられません』



 声。



 俺へ向けられた。



 最初の。



 声。



 見えた。



 一瞬だけ。



 光景は。


 すぐに消えた。



 また。


 空白になる。



 でも。



 今のは。



 あった。



 俺の中ではなく。



 殻片の中に。



 残っていた。



 俺は。


 強く震えた。



「見えたんですか?」



 右。



「工房へ来たときのことが?」



 右。



 右。



 右。



 ミミルの手が震える。



 今度は。


 怖さだけではなかった。



 彼女は古い殻片を。


 硝子板の中央へ置いた。



 青い薬液を。


 一滴。



 銀針が。


 大きく振れる。



 殻片から。



 細い紋が浮かんだ。



 現在の俺から欠けていた枝と。


 同じ形。



「殻に、残っている」



 ミミルがつぶやく。



「経験したときの魔力の紋が」



 筆が走る。



 空白だった紙へ。



 新しい線。



 古い殻片の線。



 今の俺から欠けた線。



 二つが。


 紙の上でつながる。



「失う前に、写せれば」



 ミミルは。


 小さな薬瓶を並べた。



 定着液。



 保護液。



 五号薬を作るときにも使った。


 低刺激の基剤。



 俺を削るものは。


 一つもない。



「エッグ」



 ミミルが。


 俺と同じ高さまで屈む。



「今日のことを、殻片へ残す試験をしてもいいですか?」



 右。



 残したい。



 白い光を見たこと。



 怖かったこと。



 答えを間違えたこと。



 忘れていたこと。



 昔の俺に。


 助けられたこと。



 そして。



 ミミルが。


 諦めなかったこと。



 全部。



「名前が必要ですね」



 ミミルは。


 新しい記録紙の上へ。



 ゆっくり書いた。



 記憶殻。



「殻を消費する研究ではありません」



 一行。



「自然に落ちた殻片のみを使用」



 一行。



「本人の同意ごとに記録」



 一行。



「取り出すためではなく、戻すために保存する」



 もう一行。



 ミミルは。


 最初の殻片を。


 俺の隣へ置いた。



 俺たちが最初に残す記憶は。



 難しいものではなかった。



「私の名前は、ミミルです」



 右。



「あなたの名前は、エッグです」



 右。



「私たちは、相棒です」



 俺は。



 殻の奥まで。



 強く。



 右へ震えた。



 銀針が振れる。



 新しい殻片へ。



 三本の魔力紋が。


 ゆっくり刻まれていく。



 名前。



 名前。



 関係。



 忘れたくないものから。



 一つずつ。



 俺たちは。



 昨日を。



 殻へ残し始めた。

戻ってきたエッグに、初めて明確な代償が見つかりました。

失った昨日を、残された殻がつなぎ止めます。


お読みいただきありがとうございます!


「続きが気になる」「卵、がんばれ」と思っていただけたら、下の☆☆☆☆☆やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。感想もひとこと置いていってくれたら、殻にヒビが入るくらい励みになります。


廃棄推奨の最弱卵が世界を孵すまで、どうか見届けてやってください。

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