第37話 蘇った卵の健康診断
右へ転がった。
それだけで。
殻の奥が。
ぴしりと鳴った。
嫌な音だった。
俺は止まった。
ミミルの手が。
すぐに俺を包む。
「エッグ。痛みますか?」
少し。
だが。
右か左しかない。
右なら痛い。
左なら痛くない。
俺は。
迷ってから。
右へ揺れた。
ミミルの顔が曇った。
「やはり、今日は休みましょう」
早い。
まだ一回転しただけだ。
いや。
一回転すらしていない。
ころり。
それだけだ。
俺はもう一度。
右へ重心を寄せた。
「休む、で右ですか?」
違う。
これは。
続ける。
俺は左へ揺れ。
それから。
検査台の上に置かれた布へ。
身体を向けた。
セリアが。
俺と布を見比べる。
「検査を続けたい、という意味でしょうか」
右。
YES。
ミミルの指に。
力が入った。
「ですが、新しい殻はまだ安定していません。今も、ひびが」
分かっている。
分かっているが。
休めば元に戻るのか。
失ったものが。
寝て起きれば。
全部戻ってくるのか。
それを知りたい。
俺は。
もう一度。
右へ揺れた。
ミミルが唇を結ぶ。
「……分かりました」
声が。
少しだけ震えていた。
「ただし、少しでも異常があれば中止します。エッグが続けたくてもです」
右。
そこは従う。
死んだばかりだ。
また死ぬ気はない。
俺は。
保護材を重ねた検査台の中央へ置かれた。
周囲には。
柔らかい布。
低い木枠。
その外側にも。
さらに厚い保護材。
卵一個に。
大げさすぎる。
少し前の俺なら。
笑っていたかもしれない。
今は。
笑えない。
ころりで。
ひびが入った。
大げさではない。
むしろ。
足りないかもしれない。
「最初は、移動の確認です」
セリアが記録板を持つ。
「以前は、自力で一定方向へ転がることができました。停止は苦手でしたが、平らな場所でも加速する様子が確認されています」
止まれない。
そこまで記録されてるのか。
消したい。
俺の黒歴史を。
いや。
今はそれどころではない。
俺は。
身体へ意識を集めた。
《転殻》。
前は。
そう念じれば。
身体の内側から。
勢いが生まれた。
足がなくても。
地面を蹴れなくても。
転がれた。
今は。
何も起きない。
もう一度。
力を込める。
何も。
起きない。
身体を傾ければ。
重さに引かれて。
ゆっくり倒れる。
だが。
それだけだ。
技能による動きではない。
ただの。
卵の転がり方だ。
「エッグ?」
ミミルが呼ぶ。
俺は。
左へ揺れた。
できない。
セリアの筆が動く。
「自発的な転動反応、確認できず」
確認できず。
違う。
あったものが。
なくなった。
俺にだけ見える表示を。
頭の中で開く。
そこに。
《転殻》はなかった。
分かっていた。
目覚めたときから。
分かっていた。
それでも。
実際に動けないと。
重い。
俺は。
転がることすら。
できなくなった。
「次は、素材への反応です」
セリアが。
三つの小瓶を並べた。
乾燥させた薬草。
魔力を含んだ鉱石。
ただの小石。
以前なら。
見なくても分かった。
どこに何があるか。
殻の向こうから。
輪郭が浮かんだ。
今は。
三つとも。
何も感じない。
瓶を入れ替えられる。
布を被せられる。
気配を探る。
分からない。
どれが薬草で。
どれが鉱石で。
どれが小石か。
全部。
ただの沈黙だった。
「反応はありますか?」
左。
NO。
場所を変えて。
もう一度。
左。
NO。
三度目。
左。
NO。
偶然でも。
一つくらい。
当てたかった。
だが。
当てずっぽうで右へ揺れても。
意味はない。
セリアの筆が。
また動く。
「素材を識別していた反応も、現時点では確認できません」
また。
なくなった。
倉庫で。
役に立った力。
ミミルが。
俺を助手として紹介できるかもしれないと。
笑ってくれた力。
なくなった。
瓶が片づけられる。
代わりに。
薄い木片が運ばれてきた。
「外殻の強度確認は行いません」
セリアが先に言った。
「圧力を加える検査は危険です。今回は、本人が外殻を意図的に変化させられるかだけを確認します」
俺は。
殻を固くしようとした。
前は。
補強剤を受け入れて。
殻へ行き渡らせる感覚があった。
薄い層を。
重ねるような感覚。
それを探す。
ない。
淡い緑の殻は。
何も変わらない。
力を込めるほど。
さっきのひびが。
じくじく痛んだ。
「もう十分です」
ミミルが。
俺を持ち上げようとした。
俺は右へ揺れた。
「続けたい、ですか?」
右。
「どうしてですか」
答えられない。
右と左では。
足りない。
失ったものだけを知って。
終わりたくない。
俺は。
何になった。
どうして。
淡い緑の殻になった。
どうして。
ミミルの火傷を。
少しだけ癒やせた。
死んで。
弱くなっただけなのか。
違うはずだ。
違ってほしい。
俺は。
検査台の端に置かれた。
薬液の皿へ身体を向けた。
ミミルは。
しばらく何も言わなかった。
やがて。
俺の殻を。
両手で包んだ。
「私を庇ったからです」
声が。
近かった。
「私が、あのとき動けなかったから。エッグは無理をして、壊れて……」
違う。
俺は左へ揺れた。
「私がもっと早く気づいていれば」
左。
「捕獲用の薬にも、眠り薬にも」
左。
「あなたは、こんなに弱くならずに済んだかもしれません」
左。
違う。
違う。
何度左へ揺れても。
ミミルの顔は晴れない。
なら。
俺は。
右へ揺れた。
「……はい?」
俺が決めた。
そう伝えたい。
庇ったのも。
抵抗したのも。
最後まで諦めなかったのも。
俺が決めた。
ミミルのせいではない。
右。
右。
俺は決めた。
ミミルが。
俺の動きを見つめる。
「エッグが、自分で選んだことだと?」
右。
YES。
「だから、私が勝手に後悔してはいけない?」
少し違う。
だが。
今は右だ。
ミミルは。
目を伏せた。
「……ずるいです」
何が。
「それでは、私だけがあなたの意思を無視して、守ったつもりになるところでした」
ミミルの親指が。
ひびを避けて。
殻を撫でた。
「続けましょう。ただし、本当に少しずつです」
右。
YES。
◇
最初に使ったのは。
五号薬だった。
ただし。
飲む量ではない。
薄めたものを。
布の端へ。
一滴。
セリアが落とした。
「触れさせるだけです。異常があれば、すぐ洗浄します」
俺は。
布へ近づけられた。
ひびの近くへ。
薬液の匂いが触れる。
その瞬間。
殻の奥が。
温かくなった。
さっき。
緑の雫を出したときと同じ。
いや。
少し違う。
外から来たものを。
ひびが迎えている。
吸い込むのではない。
薬液に含まれた魔力へ。
身体の内側から。
何かを返している。
布の上の一滴が。
小さく泡立った。
「止めますか?」
左。
NO。
泡は。
すぐに消えた。
濁りが。
ゆっくり薄くなる。
以前。
五号薬の近くで起きていた変化。
殻片を入れていないのに。
泡や濁りが。
整っていった。
あのときは。
理由が分からなかった。
今は。
分かる。
俺の中に。
薬の力がある。
ひびの周りが。
じわりと湿る。
淡い緑の雫が。
また一滴。
殻を伝った。
セリアが。
新しい硝子皿で受ける。
「薄い薬性反応があります」
「治癒液と同じものですか?」
「似ていますが、同一ではありません。五号薬の反応にも近い。複数の薬液が混ざったような……」
セリアが。
言葉を切った。
俺には。
名前が見えていた。
《薬性分泌 Lv1》。
やはり。
これは残っている。
いや。
残ったのではない。
前には。
なかった。
死んで。
生まれ直して。
手に入れた。
セリアが。
試験用の紙へ。
起きた現象だけを書き込む。
淡緑色の液体を分泌。
弱い薬性反応。
五号薬接触時に泡と濁りが減少。
それだけだ。
技能の名前は。
俺にしか見えない。
「次は麻痺性の薬液です」
ミミルの肩が。
目に見えて固くなった。
「濃度は?」
「捕獲に使われたものの百六十分の一以下です。小動物にもほぼ影響が出ない量まで薄めています」
「エッグの今の身体は、小動物より軽いです」
「ですので、直接は触れさせません」
小さな箱の端へ。
薬液を染み込ませた紙が置かれた。
俺は反対側。
間には。
指二本分以上の距離がある。
「少しでも反応があれば、蓋を開けます」
箱が。
閉じられた。
薄い匂いが。
漂ってくる。
あのときの匂いだ。
身体を止めた。
捕獲用の薬。
動こうとしても。
力が抜けた。
殻の内側まで。
冷たくなった。
嫌な記憶だった。
俺は。
身構えた。
だが。
何も起きない。
匂いは分かる。
薬があることも分かる。
それでも。
身体は痺れない。
微振動も。
止まらない。
「エッグ。右へ揺れられますか?」
右。
「左へ」
左。
「もう一度、右へ」
右。
問題ない。
蓋が開けられる。
新鮮な空気が入る。
セリアは。
俺の反応を確認し。
紙へ書いた。
「麻痺反応、認められず」
俺の表示には。
《麻痺耐性 Lv1》。
新しい文字がある。
襲撃者の薬。
俺を止めたもの。
それが。
今度は。
俺を守る力になっている。
「続けますか?」
ミミルが聞く。
俺は。
一度だけ。
右へ揺れた。
次は。
眠り薬だった。
ミミルを倒した。
甘い匂い。
あの匂いを嗅いだとき。
俺は。
ミミルを起こそうとした。
何度もぶつかった。
起きなかった。
目の前で。
連れていかれそうになった。
今度の箱は。
すぐには閉められなかった。
ミミルが。
俺を見つめている。
「怖くありませんか?」
怖い。
右へ揺れた。
ミミルが息を呑む。
それでも。
俺は。
もう一度。
右へ揺れた。
怖い。
続ける。
「……分かりました。私も、ここにいます」
箱が閉じる。
甘い匂いが。
薄く広がる。
俺は。
ミミルの声を聞いていた。
「エッグ」
右。
「聞こえますか?」
右。
「眠くは?」
左。
時間が過ぎる。
甘い匂いは。
確かに身体へ入っている。
だが。
意識は沈まない。
ミミルの声も。
セリアの筆が紙を擦る音も。
全部聞こえる。
俺は。
右へ。
左へ。
何度も揺れた。
箱が開く。
ミミルが。
すぐに俺を抱き上げた。
「大丈夫ですか?」
右。
大丈夫だ。
表示が。
静かに浮かぶ。
《睡眠耐性 Lv1》。
俺を殺しかけたものが。
俺の中にいる。
薬液。
麻痺毒。
睡眠薬。
あの場に残っていた魔力。
死ぬ直前まで。
ひびから入り込んだもの。
それらが。
俺を元に戻したのではない。
俺という卵を。
別の形へ。
組み直した。
◇
検査が終わり。
俺は。
新しい保護材の中央へ戻された。
ひびには。
薄い補修布が貼られている。
転がる力はない。
素材も見つけられない。
殻を固くすることもできない。
俺は。
ステータスを開いた。
個体名:エッグ
種族:薬魔卵
種族ランク:F
レベル:1/10
ひび割れ率:4%
生命力:4/4
魔力:3/3
攻撃力:0
防御力:1
敏捷:0
知力:8
運:1
固有スキル:
《殻継転生 Lv1》
通常スキル:
《微振動 Lv1》
《薬性分泌 Lv1》
《麻痺耐性 Lv1》
《睡眠耐性 Lv1》
称号:
《転生者》
《孵化不全》
《廃棄を免れた卵》
《一度死んだもの》
少ない。
前より。
ずっと少ない。
育てた技能も。
上げたレベルも。
失われている。
《微振動》まで。
最初からだ。
だが。
何も残らなかったわけではない。
俺だったものを核に。
死んだ場所にあったものが。
新しい俺を作った。
蘇った。
そう思っていた。
同じ俺が。
同じ身体へ。
帰ってきたのだと。
違う。
俺は。
帰ってきたのではない。
作り直された。
次も。
同じとは限らない。
技能だけで済むとも。
限らない。
思い出せないことがある。
それが何かさえ。
思い出せない。
死ぬたびに。
俺は。
何を失う。
何度まで。
俺でいられる。
「エッグ」
ミミルの声に。
俺は顔を上げられない。
卵だから。
顔はない。
今だけは。
それでよかった。
「失ったものは、すぐには戻せないかもしれません」
ミミルの指が。
俺のそばへ置かれる。
触れるのではなく。
俺が近づくのを。
待つように。
「でも、新しくできるようになったこともあります」
俺は。
その指へ。
身体を傾けた。
ころり。
ほんの少しだけ。
自分の重さで転がる。
指に触れる。
「一緒に、確かめましょう」
右。
YES。
過保護でも。
勝手でもない。
ミミルは。
俺に聞いた。
俺は。
自分で答えた。
それでいい。
失ったなら。
また覚える。
弱いなら。
また強くなる。
ただし。
死ねば強くなれるなどとは。
考えない。
一度の死で。
これだけ失った。
二度目は。
もっと高くつくかもしれない。
◇
セリアは。
検査記録の最後に。
長い文章を書いていた。
書き終えると。
ミミルへ読み上げる。
「死亡前後における能力の連続性は認められない。一方、死亡時に接触していた薬液、毒物、残留魔力の影響とみられる新たな反応を確認」
筆先が。
紙の最後へ触れる。
「本現象は単純な蘇生ではなく、残存した殻を核とする身体および能力の再構築である可能性が高い」
再構築。
やはり。
そうなる。
「この記録は、薬師ギルドと冒険者ギルドの双方で封印指定にします。今後の試験には、エッグ本人と保護責任者であるミミルさん、双方の同意を必要とする旨も追記します」
「ありがとうございます」
「ただし」
セリアの手が止まった。
机の端には。
別の封筒が置かれていた。
灰色の紙。
封蝋は。
すでに切られている。
「今朝、この検査記録について外部から照会がありました」
ミミルの表情が変わる。
「まだ検査も終わっていなかったのに?」
「正確には、死亡後に新たな生命反応が確認された対象について、です」
誰だ。
早すぎる。
俺が生き返ったことを。
もう知っている。
「回答はしていません」
セリアは。
封筒を裏返した。
そこには。
見覚えのある意匠があった。
貴族家の紋章。
以前。
俺の希少性と。
危険性と。
誰のものかを。
調べようとしていた連中。
「ですが、相手は確認を諦めていません」
セリアが。
新しい検査記録を閉じる。
「次は、照会では済まないでしょう」
俺は。
ミミルの指へ。
身体を寄せた。
戻ってきた。
弱くなって。
別の力を持って。
それでも。
戻ってきた。
生きている。
だから。
誰のものになるかを。
勝手に決められるつもりはない。
俺は。
右へ揺れた。
ミミルも。
俺の殻へ手を添えた。
「はい」
まだ。
終わっていない。
俺たちの生活も。
俺を欲しがる連中も。
ここから。
また始まる。
蘇ったエッグの身体には、失ったものと新たに刻まれたものがありました。
死は進化の近道ではなく、確実に代償を伴う再構築です。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」「卵、がんばれ」と思っていただけたら、下の☆☆☆☆☆やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。感想もひとこと置いていってくれたら、殻にヒビが入るくらい励みになります。
廃棄推奨の最弱卵が世界を孵すまで、どうか見届けてやってください。




