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第36話 廃棄卵は、もう一度転がる

右へ揺れた。



 つもりだった。



 実際には。



 ほんの少し。



 殻の底が。



 ガラス鉢を擦っただけだった。



「……エッグ」



 ミミルの声が震える。



「おかえりなさい」



 その一言で。



 分かった。



 俺は。



 戻ってきた。



 死んで。



 殻片になって。



 また。



 卵になった。



 意味が分からない。



 意味が分からないが。



 ミミルがいる。



 それだけは。



 分かる。



 ミミルが。



 包帯の巻かれた手を伸ばす。



 だが。



 ガラス鉢へ触れる寸前で。



 止めた。



「触っても、大丈夫ですか?」



 右。



 YES。



 俺は。



 もう一度。



 力を込めた。



 動かない。



 いや。



 動け。



 右だ。



 そっち。



 淡い緑の殻が。



 わずかに傾き。



 そのまま。



 ころん。



 左へ倒れた。



 逆。



 終わってる。



「……ふふ」



 ミミルが。



 泣きながら笑った。



「エッグですね」



 失礼な。



 否定できないけど。



 ミミルの指先が。



 そっと。



 俺の殻へ触れた。



 温かい。



 覚えている。



 この手を。



 工房で。



 道の上で。



 馬車の中で。



 何度も。



 俺を抱えてくれた手だ。



 その手を。



 俺は守ろうとした。



 それから。



 何があった。



 薬品の匂い。



 馬車の下。



 火花。



 ミミルを。



 逃がして。



 俺は。



 俺は――。



 思い出せない。



 黒い穴がある。



 死ぬ直前だけ。



 記憶が。



 焼け落ちている。



 思い出そうとすると。



 殻の内側が。



 冷たくなった。



「エッグ?」



 ミミルが。



 すぐに気づいた。



「無理に動かなくていいです。もう、何もしなくていいですから」



 違う。



 戻ってきた。



 なら。



 確かめなければ。



 俺は。



 殻の底へ力を集めた。



《転殻》。



 いつも通り。



 少し傾いて。



 重みを流して。



 転がる。



 はずだった。



 身体が浮く。



 軽い。



 軽すぎる。



 勢いだけがついて。



 つるり。



 俺は。



 鉢の縁へ向かって転がった。



「エッグ!」



 ミミルの手が。



 俺を受け止める。



 その拍子に。



 薄い音がした。



 ぴし。



 嫌な音。



 殻の表面へ。



 細いひびが一本。



 走っていた。



 復活直後。



 もうひび。



 新品ですらない。



 再生品だった。



「動かさないでください!」



 薬師たちが。



 一斉に寄ってくる。



 低刺激の保護材が。



 俺の周りへ追加された。



 柔らかい。



 だが。



 情けない。



 前より軽い。



 前より脆い。



《転殻》もうまく使えない。



《殻硬化》の感覚も。



 どこにもない。



 身体の奥へ呼びかけても。



 返事がなかった。



「鑑定板を」



 灰色のローブを着たセリアが。



 静かに言った。



 板の光が。



 俺の殻をなぞる。



 文字が。



 ゆっくりと浮かんだ。



================



名称:卵



種別:不明



危険度:測定保留



状態:不安定



備考:殻質脆弱。低活動。要経過観察。



================



 板に出るのは。



 昔から、これだけだ。



 外から見て分かることしか映らない。



 種族の名前も。



 技能の名前も。



 一度も出たことがない。



「これだけ、ですか」



 ミミルが聞いた。



「これだけです」



 セリアは。



 鑑定板から目を離さなかった。



「板に表示されるのは、外から今確認できることだけです。できなくなったことも、これまで取り込んだものも、何が起きたのかも出ません」



「では、前にできていたことが、本当にできなくなったのかは……」



「本人の反応と、安全な検査で確かめるしかありません」



 本人。



 その言い方に。



 少しだけ救われた。



 素材ではない。



 検体でもない。



 本人だ。



「できることについても同じです。外から見えたことしか書けません。何と呼ぶのかも、どう働くのかも、何を引き換えにしているのかも、板からは読めません」



 セリアが。



 記録用の紙へ書き込む。



「分からないものは、分からないまま残します。《判定不能》か《未確認》。推測で欄を埋めることはしません」



 二人は。



 板を見ている。



 俺は。



 板ではないものを見ていた。



 誰にも見せられない場所に。



 昔と同じ形で。



 文字が並んでいる。



================



個体名:なし



種族:薬魔卵



種族ランク:F



レベル:1/5



生命力:1/1



状態:再構築直後



通常スキル:

《微振動 Lv1》



================



 一つ。



 通常スキルの欄に。



 一つしかない。



 少ない。



 前より。



 ずっと少ない。



 ミミルは。



 しばらく黙っていた。



 やがて。



 俺へ視線を戻した。



「エッグ。覚えていないことはありますか?」



 ある。



 右へ。



 動こうとした。



 今度は。



 ミミルの手が支えてくれた。



 わずかに右へ傾く。



「私のことは?」



 NO。



 覚えている。



 左。



「工房は?」



 左。



「五号薬は?」



 左。



「石橋で、襲われたことは?」



 右。



 覚えている。



 途中まで。



「最後に何が起きたかは?」



 右。



 分からない。



 ミミルの指が。



 固くなる。



「……そうですか」



 声は。



 静かだった。



 けれど。



 俺を支える手は。



 震えていた。



「死ねば、強くなって戻れる」



 ミミルが。



 一つずつ。



 言葉を選ぶ。



「そんなふうには考えません」



 俺は。



 動かなかった。



「戻れないかもしれない。殻片が残らないかもしれない。戻っても、技能を失うかもしれない」



 ミミルの目が。



 俺を見る。



「それに、エッグがエッグでなくなるかもしれない」



 記憶の穴が。



 また。



 冷たくなる。



「だから、二度と進化の手段として使いません。便利な方法にも、実験にもさせません」



 右。



 YES。



 今度は。



 間違えなかった。



 俺だって。



 死にたくない。



 痛かったかどうかすら。



 もう思い出せない。



 それが。



 一番怖かった。



     ◇



 検査は。



 日が昇ってから始まった。



 俺の殻へ。



 針を刺す検査はなし。



 殻を削る検査もなし。



 自然に出た反応だけを。



 薬師たちが記録する。



 最初に見つかったのは。



 俺の下に敷かれた布だった。



「濡れています」



 薬師が。



 布を持ち上げる。



 淡い緑色の液が。



 ほんの一滴。



 染みていた。



 どこから出た。



 俺か。



 ひびの周りが。



 少し湿っている。



 薬師が。



 液を小皿へ移す。



 水で薄め。



 傷つけた薬草の葉へ落とした。



 裂けた葉の縁が。



 わずかに閉じる。



「治癒反応です」



 鑑定板が。



 もう一度光った。



================



名称:卵



種別:不明



危険度:測定保留



状態:不安定



備考:薬性の分泌反応を確認。殻質脆弱。要経過観察。



================



 板が書いたのは。



 起きたことだけだった。



 名前は。



 俺の中に出た。



================



通常スキル:

《微振動 Lv1》

《薬性分泌 Lv1》



================



 薬性分泌。



 俺のひびから。



 回復液が出る。



 量は。



 一滴。



 少ない。



 ものすごく少ない。



 回復薬一本どころか。



 薬草の葉一枚。



 それでも。



 ゼロではない。



 次は。



 眠り薬を。



 俺から離した場所で開けた。



 直接かけない。



 空気へ混じる量も。



 人間に影響が出ないほど。



 ごく微量。



 前なら。



 それでも身体が重くなった。



 今は。



 何もない。



 麻痺薬も同じだった。



 薬師たちが。



 時間を空け。



 濃度を変え。



 何度も反応を確認する。



 そのたびに。



 板へ文字が増えた。



《睡眠耐性 Lv1》。



《麻痺耐性 Lv1》。



 死ぬ前に浴びた薬。



 吸い込んだ毒。



 たぶん。



 それが今の俺を作った。



 だが。



 鑑定板には。



 理由までは出ない。



 確かなのは。



 今。



 眠りと麻痺が。



 少し効きにくいということだけだ。



 一方で。



 竜血の熱は。



 消えていた。



 殻の奥を探っても。



 赤黒い力は答えない。



 威嚇しようとしても。



 小さな振動しか出ない。



 素材を探ろうとしても。



 薬草と石の違いさえ。



 ぼんやりしていた。



 板には。



 失ったものの名前は出ない。



 だから。



 俺が覚えている。



 俺が。



 失ったことを。



     ◇



 昼を過ぎる頃。



 セリアが。



 何枚かの書類を持って戻ってきた。



「石橋の襲撃について、現場の薬瓶と拘束具が回収されました。馬車の固定具にも細工の跡があります」



 ミミルが。



 俺の隣で顔を上げる。



「証拠として残せますか?」



「残します。護送記録、現場記録、使用薬品、目撃証言。すべてギルドの正式記録へ入れます」



 セリアは。



 きっぱりと言った。



「復活したと知れば、貴族側が改めて所有権や管理権を主張する可能性があります。ですが、襲撃との関係が否定できない以上、引き渡しは認められません」



 引き渡し。



 嫌な言葉だ。



「エッグは保護棟で管理します。ただし、隔離ではありません」



 セリアが。



 次の紙を差し出す。



「ミミルさんを保護責任者として登録します。共同生活が可能な部屋を用意しました。出入りは記録されますが、無断の検査、採取、接触は認めません」



「私も、一緒に?」



「はい。エッグ本人の同意があれば」



 ミミルが。



 俺を見る。



「一緒にいても、いいですか?」



 何を聞いている。



 当たり前だ。



 俺は。



 右へ傾いた。



「ありがとうございます」



 礼を言うのは。



 こっちだ。



 俺はまた。



 守られる。



 前より弱くなって。



 前より脆くなって。



 自力で転がることすら。



 難しくなって。



 それでも。



 ミミルは。



 俺を置いていかない。



     ◇



 夕方。



 五号薬の確認結果が届いた。



 殻片は。



 使われていない。



 俺へ接触もしていない。



 普通の素材だけで作った。



 軽傷者向けの補助薬。



 正式試験へ進むことが。



 決まった。



「通りました」



 ミミルが。



 紙を持ったまま。



 俺の前へ座る。



「エッグを材料にしない薬です」



 目の下には。



 疲れが残っている。



 包帯も。



 まだ外れていない。



 それでも。



 嬉しそうだった。



「最初の一本を、守れました」



 最初の一本。



 俺を削らず。



 俺を傷つけず。



 それでも誰かを助けられる薬。



 俺は。



 ミミルの手を見た。



 包帯の端から。



 赤く腫れた皮膚が。



 少しだけ見えている。



《薬性分泌》。



 どうやって使う。



 分からない。



 だが。



 ひびの周りへ。



 意識を集める。



 身体の奥にある。



 淡い温かさを。



 押し出す。



 殻が。



 じわりと湿った。



 一滴。



 本当に。



 たった一滴。



 俺は。



 身体を傾けた。



 緑の雫が。



 ミミルの指先へ落ちる。



「エッグ?」



 雫は。



 包帯へ染み込み。



 その下の赤みを。



 ほんの少しだけ薄くした。



 火傷が消えたわけではない。



 包帯が要らなくなったわけでもない。



 それでも。



 ミミルの顔から。



 痛みが少し消えた。



「……治して、くれたんですか?」



 右。



 YES。



 守られてばかりだった。



 拾われて。



 庇われて。



 名前をつけてもらって。



 生きる場所を。



 何度も守ってもらった。



 そんな俺が。



 初めて。



 自分の力で。



 ミミルの傷を。



 少しだけ癒やした。



「ありがとう、エッグ」



 ミミルの指が。



 俺の殻を撫でる。



 その手は。



 前より少しだけ。



 温かかった。



     ◇



 最後に。



 セリアが。



 新しい判定票を持ってきた。



 以前の紙も。



 隣へ置かれる。



 そこには。



 今でも。



 嫌になるほど。



 はっきり書かれていた。



《廃棄推奨》。



 新しい判定票へ。



 セリアが。



 赤い印を押す。



《経過観察・廃棄禁止》。



 廃棄。



 禁止。



 俺は。



 何度も。



 その文字を見た。



 廃棄されない。



 役に立つからでも。



 希少だからでも。



 高く売れるからでもない。



 俺が。



 生きているから。



 俺の意思が。



 記録されているから。



 その下に。



 備考欄があった。



《食用非推奨》。



 残ってる。



 そこは。



 変わらないのか。



「安全性が確認できませんので」



 セリアが。



 真顔で言った。



 知ってる。



 食うな。



 こんなもの。



 ミミルが。



 小さく笑う。



 俺は。



 新しい保護材の上で。



 身体を傾けた。



 前より軽い。



 前より脆い。



 うまく転がれない。



 失ったものも多い。



 思い出せないことまである。



 それでも。



 廃棄推奨ではなくなった。



 ミミルと。



 一緒にいられる。



 俺のひびから出た一滴で。



 大切な相棒の傷を。



 少しだけ癒やせた。



 なら。



 まだ。



 終わっていない。



 俺は。



 右へ重心を寄せた。



 保護材が。



 ゆっくり沈む。



 淡い緑の卵が。



 ころり。



 今度こそ。



 右へ転がった。

お読みいただきありがとうございます!


「続きが気になる」「卵、がんばれ」と思っていただけたら、下の☆☆☆☆☆やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。感想もひとこと置いていってくれたら、殻にヒビが入るくらい励みになります。


廃棄推奨の最弱卵が世界を孵すまで、どうか見届けてやってください。

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