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第32話 一台だけの護送馬車

翌朝。



 馬車は一台だけだった。



 護送馬車。



 そう聞けば、もっとこう。



 鉄板。


 格子。


 重装甲。



 そういうものを想像する。



 でも。



 工房の前に止まっていたのは、灰色の幌を張った普通の馬車だった。



 荷車より少し頑丈。


 窓が小さい。


 扉に冒険者ギルドの封印札がある。



 それだけ。



「目立たせないためです」



 セリアが言った。



 灰色のローブ。


 薬師ギルドの紋章。


 いつもと同じ、粘りのない声だった。



「護衛を増やしすぎれば、かえって保護対象の移送だと知らせることになります」



 なるほど。



 だから一台。



 護衛は二人。



 一人は御者台。


 もう一人は馬車の後ろ。



 セリアは中。


 ミミルも中。



 俺も中。



 結局。



 護送されるのは。



 卵一個である。



「エッグ、揺れませんか?」



 右。



 ミミルの膝の上には、俺用の箱がある。



 内側には緩衝材。


 横には移送箱。



 五号薬。


 低刺激の保護材。


 研究帳。



 昨日決めたものだけだ。



 工房の扉が閉じられる。



 鍵が回る。



 ミミルの手が、少しだけ止まった。



「戻ってきます」



 右。



 馬車が動いた。



     ◇



 移送経路は、街の外ではなかった。



 工房区から市場区へ。



 市場区を抜ける。



 石橋を渡る。



 その先にある、冒険者ギルドの保護棟へ入る。



 近い。



 人も多い。



 襲うなら向いていない。



 少なくとも。



 普通なら。



 馬車の外から声がする。



 野菜を売る声。


 パンを売る声。


 値切る声。


 怒鳴る声。



 車輪が石畳を踏む。



 ごとん。



 箱が揺れる。



 ごとん。



 また揺れる。



 俺は緩衝材へ沈んだ。



 快適。



 護送される卵としては。



 たぶん。



 問題は。



 鼻がないのに、臭うことだった。



 苦い。



 薬草の苦みではない。



 舌を痺れさせるような。



 冷たい苦さ。



《素材感知》が反応している。



 馬車の右。



 市場の端。



 樽。



 中身は見えない。



 でも、臭う。



 ごとん。



 次。



 左。



 布を積んだ荷車。



 布ではない。



 荷台の下から。



 同じ臭い。



 ごとん。



 次。



 排水溝。



 また。



 同じ。



 樽。



 荷車。



 排水溝。



 ばらばらの場所から。



 同じ苦い臭い。



 嫌な予感しかしない。



 俺は箱の中で強く震えた。



 ぶるぶるぶるぶる。



「エッグ?」



 ミミルが蓋を開ける。



「揺れが強い?」



 左。



「痛い?」



 左。



「何か見つけましたか?」



 右。



 セリアの目が細くなる。



「素材の気配を拾いましたか」



 右。



「方向は?」



 俺は右へ揺れた。



 すぐに左へ揺れる。



 それから下。



「複数?」



 右。



 セリアが小窓の覆いを少し上げた。



 外を見る。



 すぐに閉じる。



「御者。速度を落とさず聞いてください」



「はい」



「経路上に不審物が複数あります。次の角で――」



 大きな音がした。



 前。



 木箱が潰れる音。



 馬が鳴いた。



 馬車が急停止する。



 俺は箱の壁へ転がった。



「何がありました?」



「荷車が横転した!」



 御者が叫ぶ。



「道を塞いでます!」



「後退を」



 後ろからも音がした。



 もっと重い。



 車輪が外れ。



 積み荷が石畳へ崩れる音。



 後ろの護衛が扉を叩いた。



「後方も塞がれた!」



 前。



 荷車。



 後ろ。



 荷車。



 横は。



 石橋の欄干。



 いつの間にか。



 馬車は橋の中央にいた。



 逃げ道。



 なし。



 周到すぎる。



「扉を開けないでください」



 セリアが言った。



 声は静かだった。



 でも。



 手はローブの内側へ入っている。



 薬瓶を握っていた。



 外で笛が鳴った。



「衛兵だ!」



 男の声。



「橋に危険物が持ち込まれた! 住民は離れろ!」



 市場の声が変わった。



 ざわめき。



 悲鳴。



 走る足音。



「護衛は前後の荷車を確認しろ! 御者は馬を落ち着かせろ!」



 命令が飛ぶ。



 迷いがない。



 護衛が応じかける。



「待ってください」



 セリアが遮った。



「衛兵の所属を確認します。詰所名と責任者名を」



 一瞬。



 外の声が止まった。



 短い間だった。



「緊急時だ! 質問はあとにしろ!」



 偽物。



 たぶん。



 いや。



 確実に。



 白い煙が、小窓の隙間から入ってきた。



 甘い。



 さっきの苦い臭いと混ざる。



 頭の内側が重くなる。



 眠り薬。



「布を!」



 ミミルが叫ぶ。



 移送箱を開く。



 五号薬。



 一本。



 栓を抜く。



「御者さん、これを! 飲まずに、布へ染み込ませて口元に!」



 瓶を前へ渡す。



 もう一本。



 後ろの護衛へ。



「刺激は弱いですが、眠気を抑えられます!」



 五号薬。



 低刺激。



 低効力。



 完成とは言えない薬。



 でも。



 今は。



 その弱さが必要だった。



 御者が咳き込む。



「意識は、あります!」



 後ろからも返事が来る。



「こっちもだ!」



 よし。



 ミミルが俺の箱へ布をかぶせる。



「エッグ、苦しくない?」



 右。



 本当は少し苦しい。



 でも。



 卵なので。



 呼吸しているのか、俺自身もよく分からない。



 幌の上で音がした。



 しゃら。



 金属。



 次の瞬間。



 黒い輪が小窓から飛び込んできた。



 輪には短い鎖。



 表面に紫色の文字。



 捕獲用魔道具。



 俺へ向かってくる。



「エッグ!」



 俺は《転殻》を使った。



 箱の縁を越える。



 落ちる。



 座席。



 床。



 ごつん。



 痛い。



 でも。



 黒い輪は空の箱を噛んだ。



 輪が閉じる。



 紫の光が走る。



 危なかった。



 あれ。



 完全に俺用だ。



 馬車を壊さない。



 ミミルを狙わない。



 護衛も殺さない。



 俺だけ。



 生け捕り。



 素材扱いにも。



 ほどがある。



「対象が床へ落ちた!」



 外から声。



 見えている。



 幌越しに。



 こちらが。



 セリアが薬瓶を投げた。



 小窓の外で割れる。



 黄色い煙。



 男の咳。



「後ろの護衛は中へ! 前方は御者から離れないでください!」



「了解!」



 扉が開く。



 護衛が入ろうとする。



 その足へ。



 別の鎖が絡んだ。



 護衛が外へ引かれる。



「ぐっ!」



 扉が閉まらない。



 白い煙が濃くなる。



 ミミルが俺を拾おうと手を伸ばした。



 そのとき。



 馬車の下から。



 重い音が響いた。



 がちん。



 車体が傾く。



 馬が前へ進もうとする。



 車輪は回らない。



 もう一度。



 がちん。



 橋の下から伸びた鎖が。



 車軸へ巻きついていた。



 固定された。



 馬車ごと。



「下にもいます」



 セリアが言った。



「橋へ入る前から、配置されていたようですね」



 そこまで。



 準備していた。



 道沿いの樽。



 荷車。



 排水溝。



 眠り薬を撒く場所。



 前後を塞ぐ荷車。



 橋の下の鎖。



 偽の衛兵。



 全部。



 俺たちがここを通ると知っていた。



 幌が膨らんだ。



 刃が突き出る。



 布を縦に裂く。



 朝の光が差し込んだ。



 切れ目へ手がかかる。



 黒い手袋。



 男が中へ入ってくる。



 顔には布。



 腰には輪と鎖。



 そして。



 右手に短剣。



 短剣の柄には、削られた跡があった。



 完全には消えていない。



 秤。



 その片方に硬貨。



 もう片方に薬瓶。



 見覚えがある。



 ヴァルム商会。



 男は短剣を逆手に持った。



 刃を俺へ向けない。



 ミミルにも。



 切るためではない。



 脅すため。



 男の視線が。



 床の俺へ止まる。



「殻を割るな」



 低い声。



「傷も増やすな」



 周囲へ命じる。



「卵だけ回収する」

お読みいただきありがとうございます!


「続きが気になる」「卵、がんばれ」と思っていただけたら、下の☆☆☆☆☆やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。感想もひとこと置いていってくれたら、殻にヒビが入るくらい励みになります。


廃棄推奨の最弱卵が世界を孵すまで、どうか見届けてやってください。

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