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第31話 持っていけないもの

工房へ戻ると。


 机の上に、木箱が一つ置かれていた。



 見覚えはない。



 俺の箱ではない。


 移送用の箱でもない。



 ただの荷箱だ。



 ただし。


 大きくない。



「持ち出せる荷物は、これ一箱です」



 受付嬢が言った。



 やっぱり。



 嫌な予感はしていた。



「一箱……」



 ミミルが呟く。



「経路を知られないため、運搬人員も最小限にします。大きな荷車や荷物は目立ちますから」



「出発時刻は?」



「直前にお伝えします」



「私にも?」



「はい」



 受付嬢は、はっきり答えた。



「工房の外で待つことも避けてください。合図があるまで、普段どおりに」



 普段どおり。



 この状況で。



 無理がある。



 工房の扉には、内側から閂がかかっている。


 窓には布が下ろされている。


 外を誰かが通るたび、ミミルの肩がわずかに動く。



 普段どおりではない。



「護衛は冒険者ギルドから二名。それと、薬品の管理確認としてセリアさんが同行します」



「セリアさんも?」



「薬師ギルドから申し出がありました。五号薬を運ぶ場合、管理記録が必要になるそうです」



 灰色のローブの薬師。



 あの人なら。


 少なくとも、勝手に俺へ触れたりはしない。



 たぶん。



「保護棟には最低限の寝具と調理設備があります。薬品棚も用意されています。ただ、錬金器具はありません」



 ミミルが工房を見回した。



 乳鉢。


 小皿。


 秤。


 細口瓶。


 乾燥棚。


 加熱台。



 全部。


 ここで使ってきた。



 成功した道具。


 失敗した道具。


 焦がした鍋もある。


 欠けた小皿もある。



 俺を溶かしかけた液体を入れていた皿も。



 あれはいらない。



 絶対にいらない。



「準備ができたら、箱の蓋は閉めずに置いてください。出発前に確認します」



「わかりました」



 受付嬢は扉の外を確かめてから出ていった。



 閂が戻される。



 工房に。


 俺とミミルだけが残った。



 木箱も。



 ミミルは、しばらく動かなかった。



 俺も動かなかった。



 机の上の箱は。


 小さかった。



「一箱ですね」



 ミミルが言った。



 誰に確認したのかはわからない。



「一箱なら、選ばないと」



 棚へ向かう。



 まず、乳鉢を持った。



 箱へ入れる。



 乳棒も入れる。



 秤を持つ。



 入らない。



 乳鉢を出す。


 秤を入れる。



 小皿を重ねる。


 薬瓶を並べる。



 乾燥させた水苔。


 月露草。


 普通の回復薬。


 失敗した回復薬。


 保護材。


 補強剤。



 入らない。



 全然、入らない。



「これは必要です」



 ミミルが秤を押し込む。



「乳鉢も……小さいものなら」



 小さな乳鉢を入れる。



「加熱台は向こうで借りられるかもしれません。瓶は……薬だけ移せば」



 棚から瓶を取る。



 戻す。



 別の瓶を取る。



 また戻す。



 手が止まっている。



 俺は《転殻》を使った。



 ご。



 床を進む。



 こ。



 机の脚へ当たった。



「エッグ?」



 ご。



 こ。



 方向を変える。



 棚へ向かう。



 今日も速くはない。



 だが。


 選ぶくらいならできる。



 たぶん。



 俺は薬瓶の棚へ近づいた。



 《素材感知》。



 意識を広げる。



 薬草。


 水。


 鉱粉。


 樹脂。


 乾燥苔。



 いろいろある。



 強い反応もある。



 質のいい月露草。


 高価そうな魔石粉。


 俺の自然に剥がれた殻片を入れた、封印箱。



 どれも価値が高い。



 だから。



 無視した。



 弱い反応を探す。



 泡が整わなかった瓶。


 濁った瓶。


 柑橘の匂いが残った失敗作。



 その奥。



 五号薬。



 低効力。


 低刺激。



 すごく治る薬ではない。



 だが。


 俺を削らなくても作れた薬だ。



 俺は棚の前で止まった。



 右へ揺れる。



「五号薬?」



 右。



「持っていくんですか?」



 右。



 ミミルが瓶を取った。



 薄い緑色の液体が揺れる。



「もっと効き目の強い薬もあります」



 俺は左へ揺れた。



 そっちはいらない。



「五号薬がいい?」



 右。



 ミミルは瓶を見た。



 それから。


 少しだけ笑った。



「そうですね。向こうでも、続きを試せます」



 そう。



 完成していない。



 だから持っていく。



 次。



 俺は床を進んだ。



 作業台の下。



 乾燥板の上に、灰色の塊が並んでいる。



 保護材の試作品。



 硬すぎたもの。


 剥がれたもの。


 縮んだもの。



 そして。



 触れても、俺のひびが熱くならなかったもの。



 ミミルが殻へ塗るのをやめたあと。


 容器の内側へ使えるように調整していた。



 柔らかい。


 匂いも弱い。


 魔力の刺激も少ない。



 その代わり。


 乾くのが遅い。



 保護材としては。


 たぶん、半端だ。



 俺は、その灰色の塊へ殻を当てた。



「それも?」



 右。



「まだ完成していませんよ」



 右。



「乾燥時間も長いです。強度も四号より下です」



 右。



 知ってる。



「高価な素材も使っていません」



 右。



 それがいい。



 ミミルが膝をついた。



 灰色の塊を指で押す。



 ゆっくり沈む。


 ゆっくり戻る。



「エッグの殻を、刺激しないために作ったものです」



 右。



「失敗作に近いです」



 左。



 違う。



 まだ途中だ。



 ミミルは黙った。



 灰色の塊を布で包む。


 五号薬の隣へ入れる。



 箱は、半分ほど埋まった。



「次は?」



 俺は作業台を回った。



 遠い。



 自分で選び始めたことを、少し後悔した。



 棚の端。


 布袋。


 器具箱。



 違う。



 もっと奥。



 ミミルの机。



 上には紙が積まれている。



 成功した調合表。


 薬師ギルドへ出す書類。


 仕入れの記録。


 借金の計算。



 その下に。


 厚い帳面があった。



 角が擦れている。



 何度も開かれた研究帳。



 俺が来る前の記録もある。



 俺を拾ったあとの記録もある。



 殻に塗ってはいけなかった液。


 刺激が強すぎた薬。


 剥がれた殻片の重さ。


 五号薬の泡。


 距離を変えたときの濁り。



 成功より。


 失敗のほうが多い。



 たぶん。



 俺は机の脚へ当たった。



 ごん。



「研究帳?」



 右。



「これは……重いですよ」



 右。



「紙だけで、箱の場所を取ります」



 右。



 ミミルは帳面を持ち上げた。



 箱へ置く。



 五号薬。


 灰色の保護材。


 研究帳。



 それだけで。


 ほとんど埋まった。



 高価な素材は入っていない。



 立派な器具もない。



 成功品も少ない。



 持っていくのは。


 二人で失敗したものばかりだった。



「これでいいんですか?」



 右。



「月露草は?」



 左。



「魔石粉」



 左。



「自然に剥がれた殻片の保管箱」



 俺は止まった。



 殻片。



 俺の欠片。



 あれは。


 高い。


 狙われている。



 それに。



 あれを置いていけば。


 誰かに盗られるかもしれない。



 俺は右へ揺れかけた。



 だが。



 ミミルが保管箱を両手で持っていた。



 鍵がついている。


 封印札もある。



 箱の中の殻片は。


 俺から落ちたものだ。



 俺だったもの。



 俺は右へ揺れた。



「持っていきましょう」



 ミミルは小さく頷いた。



 木箱へ入れようとする。



 入らない。



 研究帳を出せば入る。


 五号薬を減らせば入る。


 保護材を置けば入る。



 ミミルの手が。


 研究帳へ伸びた。



 俺は机の脚を叩いた。



 ごん。



 ミミルが止まる。



「帳面は残さない?」



 左。



「では、五号薬を一本だけに」



 左。



「保護材を減らす?」



 左。



「でも、殻片は……」



 ミミルが保管箱を見る。



 俺も見る。



 目はない。



 たぶん、見た。



 価値は高い。



 薬にもなる。



 金にもなる。



 証拠にもなる。



 俺の一部だ。



 でも。



 あの帳面も。


 俺たちの一部だ。



 五号薬も。


 灰色の塊も。



 俺は保管箱へ近づいた。



 左へ揺れた。



「置いていくんですか?」



 右。



 ミミルの眉が下がった。



「盗まれるかもしれません」



 右。



「取り戻せないかもしれません」



 右。



 それでも。



 俺は研究帳へ殻を当てた。



 これを持っていく。



 殻片より。



 失敗した記録を。



 次も失敗するために。



 いや。



 次は少しだけ、うまくやるために。



「……わかりました」



 ミミルは保管箱を抱えた。



 棚の奥へ戻す。



 さらに布をかける。


 周囲へ普通の瓶を並べる。



「受付嬢に、保管場所だけ伝えます。記録にも残してもらいます」



 右。



「なくならないように」



 右。



「ここへ戻ってこられるように」



 右。



 ミミルの手が止まった。



「エッグ」



 呼ばれる。



 俺は動かない。



「保護棟へ行けば、安全です」



 右。



「でも……」



 言葉が途切れる。



 ミミルは、膝の上で手を握った。



「安全な場所へ行くという言葉が」



 小さい声だった。



「あなたを、もっと安全に扱える誰かへ預けるという意味に変わったら」



 俺は右へも左へも揺れなかった。



「私は、断れるでしょうか」



 ミミルは俺を見ていた。



「今日みたいに、書類を出されて。命令だと言われて。私より設備がある。私より知識がある。私より強く守れると、言われて」



 箱の中で。


 五号薬が小さく揺れた。



「私はまだ見習いです」



 知ってる。



「失敗もします」



 知ってる。



「あなたを危険な目に遭わせました」



 それも。



 知ってる。



 俺は《転殻》を使った。



 少し進む。



 ミミルの足へ当たる。



 右へ揺れた。



「私と行く?」



 右。



「保護棟にも?」



 右。



「そのあとも?」



 右。



 ミミルは息を吐いた。



 泣いてはいない。



 たぶん。



 少しだけ、声が震えていた。



「保護棟へ移るだけです」



 俺へ言う。



 自分へ言う。



「街を捨てるわけではありません」



 右。



「工房も捨てません」



 右。



「安全になったら、戻ってきます」



 右。



「一緒に」



 右。



 そうだ。



 俺は預けられる荷物ではない。



 ミミルも。


 俺を運ぶだけの人ではない。



 保護責任者。



 従魔の主人。



 見習い錬金術師。



 いろいろ呼び方はある。



 でも。



 たぶん。



 相棒だ。



 俺たちは。



 箱へ最後の隙間を作った。



 小さな乳棒。


 包帯。


 水。


 普通の回復薬を一本。



 そして。


 ミミルが作った緩衝材を、箱の内側へ詰める。



 五号薬の瓶を包む。



 研究帳の角を守る。



 灰色の保護材を固定する。



「これなら、馬車が揺れても大丈夫です」



 ミミルが箱を軽く揺らす。



 音はしない。



 俺は右へ揺れた。



 外が暗くなっていた。



 出発時刻は、まだ知らされていない。



 馬車がどこから来るのかも。


 どの道を通るのかも。



 ただ。



 護衛は決まった。



 冒険者ギルドの二人。



 薬師ギルドのセリア。



 馬車の中には。


 ミミルの緩衝材。



 五号薬。



 殻を刺激しない、未完成の保護材。



 研究帳。



 俺。



 ミミル。



 それだけ。



 持っていけないものは多い。



 器具。


 素材。


 工房。



 俺の殻片。



 でも。



 持っていくものは決めた。



 俺たちが。


 ここで積み重ねたものだ。



     ◇



 夜。



 街の鐘楼に、人影が立っていた。



 白い面。



 目も。


 鼻も。


 口もない。



 平らな面が、遠くの工房へ向けられている。



 手元には、細い銀板。



 その表面へ、文字が刻まれていく。



『対象、未分類卵型個体』



『竜性反応、継続』



『薬性反応、増大傾向』



 白い指が止まる。



 鐘楼の下では、夜警が歩いていた。



 誰も上を見ない。



 誰も人影に気づかない。



 銀板へ。


 新しい文字が刻まれる。



『世界卵反応、規格外』



 わずかな間。



『不良品指定との一致、不明』



 白い面は動かない。



『現段階では観測を継続』



 鐘が鳴った。



 低い音が、街へ広がる。



 工房の窓が震える。



 箱の中で。


 五号薬の表面に、小さな泡が一つ浮かんだ。



 割れずに。



 消えずに。



 薄い緑の液体の中へ、沈んでいった。

お読みいただきありがとうございます!


「続きが気になる」「卵、がんばれ」と思っていただけたら、下の☆☆☆☆☆やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。感想もひとこと置いていってくれたら、殻にヒビが入るくらい励みになります。


廃棄推奨の最弱卵が世界を孵すまで、どうか見届けてやってください。

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