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第30話 うちの子は物じゃない

翌朝。



 俺は箱の中で目を覚ました。



 いや。



 目はない。



 だから、正確には。



 工房の床を歩く音で、朝だと気づいた。



 こつ。



 こつ。



 こつ。



 いつもより速い。



 ミミルの足音だ。



「契約書」



 紙の音。



「試験記録」



 また、紙の音。



「五号薬の採取拒否記録」



 さらに、紙の音。



「それから、会話確認表……」



 忙しそうだ。



 俺は箱の内側を右へ叩いた。



 こつん。



 足音が止まる。



「起きましたか、エッグ」



 右。



「おはようございます」



 右。



 箱の蓋が開いた。



 朝の光が差し込む。



 ミミルの顔が見えた。



 寝ていない顔だった。



 目の下が少し暗い。



 机の上には、何枚もの紙が並んでいた。



 従魔契約書。



 冒険者ギルドの記録。



 薬師ギルドの試験記録。



 文字の読めない俺でも、同じ紙を何度も並べ替えたことくらいはわかる。



「大丈夫です」



 ミミルが言った。



 俺はまだ何も聞いていない。



「きちんと説明できます。登録もあります。エッグが自分の意思で答えられることも、記録されています」



 右。



「だから、大丈夫です」



 今度は。



 左へ揺れた。



 大丈夫ではない。



 たぶん。



 ミミルも。



 俺も。



「……はい」



 ミミルが少しだけ笑った。



「怖いです」



 右。



「でも、行きましょう」



 右。



 逃げれば、隠匿。



 町を出れば、移送。



 誰かに預ければ、譲渡。



 昨日の役人は、先に逃げ道を塞いでいた。



 なら。



 正面から行くしかない。



 俺は卵だ。



 扉を蹴破る手もない。



 契約書へ署名する指もない。



 人の言葉を話す口もない。



 それでも。



 右と左はある。



 今まで、それでミミルと話してきた。



 今日も同じだ。



 値札をつけられそうになったら。



 左へ揺れる。



 全力で。



     ◇



 合同会議は、冒険者ギルドの二階で開かれた。



 窓の少ない部屋だった。



 中央に長い机。



 椅子が九脚。



 壁際には、記録係の小さな机。



 扉のそばには、剣を下げた職員が二人立っている。



 逃げられない部屋。



 そう見えた。



 俺の箱は、ミミルの膝の上に置かれた。



 蓋は開いている。



 閉じ込められてはいない。



 机の向こう側には、昨日の役人。



 その隣に、紺色の上着を着た男が座っていた。



 胸には、銀糸で縫われた紋章。



 貴族家の代理人らしい。



 細い顔。



 細い指。



 机の上には、やけに厚い書類。



 俺を見る目だけは細くない。



 開いた箱の中を、隅まで測るように見ている。



 その視線を遮る位置に、セリアが座った。



 灰色のローブ。



 薬師ギルドの紋章。



 いつもと同じ、粘りのない物腰。



 だが。



 椅子を置いた位置は、偶然ではないと思う。



 ミミルの反対側には受付嬢。



 その隣には、岩みたいな男が座っていた。



 冒険者ギルドのギルド長だ。



 太い腕。



 傷だらけの手。



 俺より机を壊しそうな見た目をしている。



 危険生物の審査。



 まず、あの人から始めたほうがいいのでは。



「これより、希少薬用生物保全条例に基づく合同確認を開始する」



 役人が言った。



 記録係の筆が動き始める。



「対象は、従魔名エッグ。登録上の種別は未分類。所有者――」



「保護責任者です」



 受付嬢が遮った。



 役人の眉が動く。



「従魔登録上、ミミルさんは保護責任者として記載されています。所有者とは記載されていません」



「従魔契約である以上、実質的な所有関係だろう」



 紺色の男が言った。



 受付嬢は机の上の紙を一枚めくった。



「本人同意あり。意思疎通可能。素材採取には双方の同意が必要。以上が登録時の備考です」



「魔物の反応を、同意と見なした記録にすぎない」



 男は俺を見た。



「犬が餌を求めて鳴くことと、どれほど違うのですかな」



 犬。



 卵。



 少なくとも、俺は餌を求めて鳴けない。



 少し負けた気がする。



「違いを確認するために、過去の記録を提出しています」



 ミミルが言った。



 声は震えていない。



 膝は少し震えている。



 箱を通してわかる。



「エッグは、質問に対して右を肯定、左を否定として答えます。質問の順番を変え、同じ内容を言い換えても、回答は一致しています」



「飼育者の誘導では?」



「では、私以外が質問してください」



 即答だった。



 男の細い指が止まる。



「その前に」



 役人が書類へ目を落とした。



「対象の性質について確認する。提出された調査資料によれば、この生物の殻片には回復薬の薬効を大幅に向上させる性質がある。また、竜性反応を持ち、外部魔力を吸収し、攻撃を受けた際には強い振動を発するという」



 俺のひびが。



 少しだけ、熱くなった。



 外部魔力。



 強い振動。



 知っている者はいる。



 ギルド。



 ミミル。



 襲ってきた男たち。



 全部が秘密ではない。



 だが。



「さらに」



 役人が続ける。



「殻の内側へ触れた魔力を一時的に保持し、その後、性質の異なる反応を示す可能性がある」



 ミミルの膝が止まった。



 受付嬢が顔を上げる。



 セリアの目が、書類へ向いた。



 俺も動けなかった。



 殻の内側。



 そこを見たのは。



 蹴られたとき。



 ひびへ魔道具を押し当てられたとき。



 あの襲撃者たちだけだ。



「その資料」



 セリアが言った。



 穏やかな声だった。



「どちらから入手されましたか」



「調査元を明かす必要はありません」



 紺色の男が答えた。



「審査対象の危険性を示す資料です」



「薬師ギルドの記録には、殻の内側へ触れた魔力についての記載はありません」



「独自調査です」



「どのような方法で?」



「それも申し上げられません」



「では、対象への無断接触を含む可能性があります」



 セリアは一枚の紙を抜き取った。



「こちらには、工房襲撃後に確認された損傷と、捕獲用魔道具による接触痕が記録されています。位置と反応が、今お読みになった資料の記述と一致します」



 部屋が静かになった。



 記録係の筆だけが動く。



 さらさら。



 さらさら。



 逃がさない音だ。



「偶然でしょう」



 紺色の男が言った。



「それに、我々はヴァルム商会とは無関係です」



 誰も。



 まだ、その名前を出していなかった。



 受付嬢の目が細くなる。



 ギルド長が、太い指で机を一度叩いた。



 どん。



 俺より強い。



「商会との関係は、こちらから質問する予定だった」



 ギルド長が言った。



「答えを先にもらえて助かる」



「誤解なさらぬよう。世間で噂されている組織名を挙げただけです」



「そうか」



 ギルド長は、それ以上追及しなかった。



 だが。



 記録係の筆は止まらなかった。



「資料の出所については別途確認します」



 役人が言った。



「今は対象の扱いが先だ」



 書類が一枚、めくられる。



「希少薬材を生成する未分類生物であり、攻撃性と竜性反応を有する。一般工房での飼育は、本人のみならず周辺住民にも危険を及ぼす可能性がある」



「本人」



 俺は、その言葉を聞いた。



 役人が俺を本人と呼んだ。



 偶然か。



 書類の言い回しか。



 わからない。



「ゆえに」



 役人は続けた。



「専門施設での隔離飼育が妥当との意見が提出されている」



 隔離。



 飼育。



 箱の中が、急に狭くなった。



 工房へ男たちが入ってきた夜。



 蹴られた。



 押さえつけられた。



 袋へ詰められそうになった。



 あのときと同じだ。



 俺の行き先を。



 俺以外が決める。



「反対します」



 ミミルが言った。



「対象には危険性がある」



「エッグが振動を使ったのは、工房へ侵入され、攻撃を受けたときです」



「結果として人間を負傷させた」



「侵入者です」



「制御不能になれば、飼育者にも被害が及ぶ」



「私は飼育者ではありません」



 ミミルの両手が、箱を包んだ。



「エッグの相棒です」



 紺色の男が、薄く笑った。



「感情論ですな」



「いいえ」



 ミミルは紙を差し出した。



「記録です」



 一枚目。



「従魔登録時、エッグは契約への同意を示しました」



 二枚目。



「素材採取には、本人と私の両方の同意が必要だと登録されています」



 三枚目。



「薬師ギルドの試験では、接触、採取、追加鑑定を禁止条件として提示しました」



 四枚目。



「五号薬の試験前、エッグに採取を頼まないと確認し、同意を得ました」



「それは、あなたが採取を拒否した記録でしょう」



「違います」



 ミミルはもう一枚出した。



「これは、以前に殻片を使う試験を検討した際の記録です。自然に剥がれた殻片であっても、エッグが拒否した場合は使わないと決めています」



「生物が自ら生み出したものを、保全目的で採取することは珍しくありません」



「珍しいかどうかではありません」



 ミミルの声が強くなる。



「嫌だと言える相手から、嫌だと言ったものを取らない。それだけです」



 男の笑みが消えた。



「あなたは未熟な見習いだ。希少な薬材を適切に管理できる専門知識も、危険な魔物を制圧する力もない」



「はい」



 ミミルは認めた。



 認めるのか。



「私は、エッグより強くありません。工房の防備も十分ではありません。専門家より知らないことも、たくさんあります」



 箱を包む指に力が入る。



「だから記録しました。ギルドへ相談しました。採取を止めました。危険な試験を断りました」



 ミミルは、男を見た。



「知らないから、勝手に決めなかったんです」



 静かだった。



「あなた方は、エッグが何者か知らないのに、薬材だと決めました」



「薬材を生成することは事実だ」



「殻片に薬効があることと、エッグ自身が薬材であることは同じではありません」



「詭弁です」



「では、人の髪が薬の材料になれば、その人も薬材ですか」



 男が黙る。



「血が薬になるなら、その人を施設で飼育していいんですか」



「人間と魔物を同列に扱うつもりか」



「意思がある存在へ所有権を適用するなと言っています」



 ミミルの手が震えていた。



 声は震えていなかった。



「エッグは物ではありません」



 昨日も聞いた言葉だった。



 役人へ言ったときより。



 強い。



「うちの子は、物じゃない」



 胸の奥。



 胸はない。



 だが。



 殻の内側で、何かが震えた。



 俺の《微振動》ではない。



 熱い。



 少し痛い。



 俺は。



 右へ揺れた。



 箱の底へ、殻が当たる。



 こつん。



 小さな音。



 全員が俺を見た。



「今のは?」



 役人が聞く。



「肯定です」



 ミミルが答えた。



「都合のいいところで反応させたようにも見える」



 紺色の男が言う。



 なら。



 聞け。



 俺は逃げない。



「ギルド長」



 セリアが言った。



「意思確認をお願いします。質問者はミミルさん以外。質問内容は、その場で決めてください」



「いいだろう」



 ギルド長が俺を見た。



 岩みたいな顔。



「右が肯定。左が否定だな」



 俺は右へ揺れた。



「お前の名はエッグか」



 右。



「お前は椅子か」



 左。



 椅子ではない。



 卵だ。



「ミミルに右へ動けと命令されているか」



 左。



「この部屋が好きか」



 左。



 嫌いだ。



 かなり。



 ギルド長の口元が、少しだけ動いた。



「質問の意味を理解しているようだな」



「単純な条件づけです」



 男はまだ言う。



「飼育者への依存反応も考えられます。適切な施設へ移せば、時間とともに――」



「では」



 受付嬢が男を見た。



「あなたが質問してください」



「私が?」



「誘導だと主張されたのは、あなたです」



 男は黙った。



 やがて、椅子を少し引いた。



 俺と正面から向き合う。



「この場で専門施設の説明を理解できるとは思えない」



「短い質問でお願いします」



 受付嬢が言った。



 男の目が俺へ向く。



 値札を探す目。



 昨日、道で見たものと同じ。



「ミミルという娘から離れたいか」



 左。



 殻が箱の壁へ当たった。



 ごつん。



 少し痛い。



 だが、足りない。



 俺はもう一度、左へ揺れた。



 ごつん。



「一度で十分です」



 ミミルが箱を押さえる。



「痛めます」



 でも。



 これだけは、間違われたくない。



「環境が変わることへの恐怖反応でしょう」



 男が言った。



 どこまで。



 俺の左を小さくすれば気が済む。



「質問を変えます」



 セリアが言った。



 俺をまっすぐ見る。



「エッグ」



 静かな声。



「あなたは、ミミルと一緒にいたいですか」



 右。



 強く。



 箱の底が鳴った。



 こつん。



 右。



 もう一度。



 こつん。



 右。



「エッグ」



 ミミルの声が近い。



 俺は、さらに右へ揺れた。



 これが俺の答えだ。



 拾われたからではない。



 登録されたからでもない。



 薬を作れるからでもない。



 ミミルが。



 俺の左を。



 嫌だという答えを。



 消さなかったからだ。



 役に立たなくても。



 殻片が足りなくても。



 試験を止めてくれた。



 だから。



 一緒にいたい。



 それを言うために。



 俺には右しかない。



 なら。



 何度でも、右へ揺れる。



「記録してください」



 セリアが言った。



 記録係の筆が動く。



 さらさら。



 今度は。



 俺の意思を残す音だった。



     ◇



 会議は、そこで終わらなかった。



 危険性。



 管理能力。



 条例。



 責任。



 同じ言葉が、何度も机の上を行き来した。



 俺は途中で疲れた。



 揺れすぎた。



 生命力は減っていない。



 ひびも増えていない。



 だが、殻の内側が重い。



 人間はすごい。



 剣も魔法も使わず。



 紙だけで卵を疲れさせる。



「接収の根拠は不足している」



 長い話のあと。



 ギルド長が言った。



 紺色の男が顔を上げる。



「危険性は否定されていません」



「危険性だけなら、登録従魔の半分を隔離することになる」



「希少な薬効を持つ点は?」



「それは保護の理由にはなる。接収の理由にはならん」



 ギルド長は腕を組んだ。



「意思疎通が可能。従魔契約への本人同意あり。継続的な相互選択も確認できた。素材採取を拒否した記録もある」



「魔物に人格を認める前例となりますぞ」



「人格の認定ではありません」



 役人が口を挟んだ。



 全員の視線が集まる。



「現行の条例では、知性を有する未分類従魔の扱いが定められていない。よって、既存の所有規定のみを適用することも、保全規定のみを適用することも不適当だ」



 役人は新しい紙を机へ置いた。



「暫定保護命令を検討する」



 紺色の男の指が動いた。



「そのような命令は、同一対象へ一度しか発令できないはずです」



「その通りだ」



 一度。



 それが多いのか。



 少ないのか。



 俺にはわからない。



「発令中に追加調査を行い、分類と扱いを決定する。保護対象は、意思ある未分類従魔エッグ。保護責任者はミミル」



 ミミルの手が、箱の縁をつかんだ。



「接収、強制採取、本人意思に反する契約変更を禁止する。鑑定、接触、試験は、保護責任者および本人の同意を要する」



 右。



 小さく揺れた。



 もう力が残っていない。



「ただし」



 来た。



 人間の話で、一番怖い言葉。



 ただし。



「現在の工房は、複数回の侵入を受けている。防備も不十分だ。保護場所としての継続使用は認められない」



 ミミルの顔が曇る。



「では、どこへ?」



「冒険者ギルド管理の保護棟を使用する」



 受付嬢が地図を開いた。



「街の反対区画です。一般の宿泊棟とは分けられていて、出入りは記録されます。ミミルさんも保護責任者として滞在できます」



「エッグと一緒に?」



「はい」



 俺は右へ揺れた。



 よかった。



 そこが重要だ。



「移送は明朝。ギルド職員が護衛します」



 明日。



 また移動。



 工房を離れる。



 あの机。



 小皿。



 乾燥棚。



 俺のために作った箱。



 全部を置いていくのだろうか。



「必要な道具は運べます」



 受付嬢が言った。



 顔に出ていたのかもしれない。



 ミミルの顔に。



「工房は封鎖しません。ただし、保護命令中にエッグを戻すことはできません」



「わかりました」



 ミミルは答えた。



「準備します」



「暫定保護命令の発令に、薬師ギルドは賛成します」



 セリアが言った。



「冒険者ギルドも賛成だ」



 ギルド長が続ける。



 役人は書類へ署名した。



 最後に。



 紋章の入った印が押される。



 どん。



 俺の右より、大きな音だった。



「これをもって、暫定保護命令を発令する」



 終わった。



 たぶん。



 俺には値札がつかなかった。



 代わりに。



 保護という札がついた。



 自由になったわけではない。



 明日は、決められた場所へ移される。



 鑑定も続く。



 調査もされる。



 何者なのか。



 まだ決められていない。



 それでも。



 素材。



 危険生物。



 所有物。



 そのどれかだけには、されなかった。



「承知しました」



 紺色の男が立ち上がった。



 あっさりしていた。



 机の書類を重ねる。



 乱れた端を、細い指で丁寧に揃える。



「公正な判断に感謝いたします」



 負けた顔ではない。



 怒ってもいない。



 ミミルを見ない。



 セリアも見ない。



 俺だけを見た。



 一度。



 短く。



「では、我々はこれで」



 男は部屋を出た。



 扉が閉まる。



 足音が遠ざかる。



 静かだった。



 静かすぎた。



 ギルド長が扉を見たまま言う。



「聞き分けがよすぎるな」



「同感です」



 セリアが答えた。



 俺のひびが、わずかに熱を持つ。



 終わっていない。



 たぶん。



 だが。



「エッグ」



 ミミルが呼んだ。



 俺は見上げる。



 目はない。



 たぶん、見上げた。



「一緒に帰りましょう」



 右。



「明日の準備をして」



 右。



「明日も、一緒に行きましょう」



 右。



 それでいい。



 今は。



 それだけでいい。



 部屋を出る前。



 記録係の机が見えた。



 紙の最後に、何が書かれたのか。



 俺には読めない。



 でも。



 今日の俺の右と左は。



 消されなかった。



 人の言葉と同じように。



 記録された。



 俺は物ではない。



 薬材でもない。



 ミミルのそばにいたいと。



 自分で決めた。



 ひび割れ卵だ。

お読みいただきありがとうございます!


「続きが気になる」「卵、がんばれ」と思っていただけたら、下の☆☆☆☆☆やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。感想もひとこと置いていってくれたら、殻にヒビが入るくらい励みになります。


廃棄推奨の最弱卵が世界を孵すまで、どうか見届けてやってください。

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