第29話 薬師ギルドの値札
行った意味は、たぶんあった。
そう思っていた。
薬師ギルドを出て、最初の角を曲がるまでは。
「ミミルさん!」
後ろから声が飛んできた。
ミミルが足を止める。
俺の入ったエッグ箱も止まった。
追いかけてきたのは、さっきの記録係だった。
紙束を抱えている。
息を切らしている。
嫌な予感がする。
「すみません。評価書の控えに、確認印が一つ足りませんでした」
確認印。
それだけか。
心臓はないが、心臓が縮んだ気がした。
「すぐに終わりますか」
「はい。入口の記録台で」
ミミルは俺を見る。
「戻っても大丈夫ですか?」
右。
入口だけ。
薬を近づけるわけでもない。
たぶん。
俺たちは薬師ギルドへ戻った。
大きな試験室には戻らない。
玄関脇の記録台で、セリアが書類を待っていた。
「こちらの不備です。申し訳ありません」
セリアが頭を下げる。
ミミルは評価書を台へ置いた。
記録係が紙をめくる。
印。
確認。
もう一つ印。
こういうのは大事だ。
俺の本人同意も、採取禁止も、紙に書かれたから守られた。
印一つでも、たぶん意味がある。
面倒ではあるけど。
「これで正式に受理されました」
セリアが評価書を返す。
「五号薬については、追加試作を行う場合、品質の安定と保存性を確認してください」
「同じ材料と手順で、同じ効能になるか、ですね」
「はい。加えて、三日後、七日後の濁りと薬効も必要です」
三日後。
七日後。
薬は作って終わりではないらしい。
俺なら三日も置かれたら、腐っていないか心配される側だ。
卵だから。
「エッグ同席時の反応は、別記録のままですか」
ミミルが聞く。
「そのままです」
セリアは答えた。
「五号薬の製法にも、評価条件にも含めません。保護記録として封じます」
よし。
確認は大事だ。
ミミルが評価書をしまう。
そのときだった。
「ですが、本当に何も採らなくてよかったんですかね」
紙を整理していた別の記録係が言った。
若い男だった。
試験室の端で、ずっと数字を書いていた男だ。
部屋が静かになる。
男は顔を上げた。
「あ、いえ。採取しろという意味ではなくて」
言ってから、まずいと思ったらしい。
遅い。
「何のお話でしょう」
セリアの声が少し硬くなる。
「噂です。噂を聞いただけです」
「どのような」
逃がさない声だった。
男は俺を見た。
正確には、エッグ箱を見た。
「自然に剥がれた殻片でも、高級回復薬以上の値がつくと」
空気が止まった。
高級回復薬。
俺は飲んだことがない。
見たことも、たぶんない。
だが、高級なのはわかる。
名前に高級とついている。
「誰から聞きましたか」
「素材商の間で、そういう話があるとだけ……」
「商会名は」
「知りません。本当です」
男の目が泳ぐ。
俺のひびを見ている。
箱の隙間から見える、細いひびを。
値段を考えている目だった。
殻一枚。
いくら。
小さな欠片。
いくら。
俺一個。
いくら。
気持ち悪い。
俺は箱の底で小さく震えた。
「エッグ?」
ミミルがすぐに気づいた。
箱を胸元へ引き寄せる。
「帰りましょう」
右。
「今の発言も記録します」
セリアが言った。
「噂の出所が不明であることも含めて」
「そこまでしなくても」
男が顔を青くする。
「保護対象となっている存在の価値について、ギルド内で不用意な発言がありました。記録が必要です」
セリアは紙を引き寄せた。
記録係が、記録される側になった。
因果応報が早い。
少しだけ気分がよかった。
ほんの少しだけ。
俺たちが再び出口へ向こうとしたとき。
扉が開いた。
灰色ではない。
濃い緑の外套を着た男が入ってきた。
胸元に金属製の札を下げている。
役所の人間らしい。
その後ろには、二人の護衛。
さらに、革の筒を抱えた従者がいた。
嫌な人数だ。
いい知らせを持ってくる人数ではない。
「薬師ギルド所属、セリア殿で間違いないか」
「はい」
「工房主ミミル殿は」
ミミルの腕が固くなる。
「私です」
役人の目がミミルから箱へ移った。
「では、その箱の中が未分類魔物、通称エッグで間違いないな」
通称。
未分類魔物。
間違いではない。
だが、言い方が嫌だった。
「何のご用件でしょうか」
ミミルは箱を隠すように抱えた。
役人が従者へ手を出す。
革の筒から、巻かれた書状が取り出された。
赤い封蝋。
封蝋には紋章が押されていた。
翼。
薬草。
その間に、細長い杖。
知らない紋章だ。
ただし、偉そうなのはわかる。
印が大きい。
「希少薬用生物保全条例に基づき、対象の所有および飼育状況を確認する」
役人が書状を広げる。
「対象は、竜性反応を有する未分類魔物一体」
俺だ。
どう考えても俺だ。
「エッグは私の従魔です」
ミミルが即座に答えた。
「冒険者ギルドで登録済みです。本人の意思確認もされています」
「登録の存在は把握している」
役人は表情を変えない。
「ただし、竜性反応を持つ未分類魔物は、通常の従魔法の対象外となる可能性がある」
対象外。
その言葉だけが、頭に残った。
従魔登録した。
ミミルの従魔になった。
本人同意も書いた。
勝手に採らない。
勝手に売らない。
全部、記録した。
それが。
対象外。
「可能性だけで、登録を無効にするのですか」
ミミルの声は丁寧だった。
だが、柔らかくはなかった。
「無効とは言っていない。確認する」
「何をですか」
「危険性、希少性、所有権」
最後の言葉が、一番嫌だった。
所有権。
物に使う言葉だ。
家。
土地。
薬瓶。
卵。
俺。
「エッグには意思があります」
「その点も確認事項に含まれる」
「今、ここでですか」
「まずは対象を目視する」
役人が一歩近づいた。
ミミルが一歩下がった。
俺の箱が揺れる。
護衛の手が腰へ動く。
剣には触れていない。
だが、近い。
「お断りします」
セリアが言った。
役人が止まる。
「これは薬師ギルド内です」
セリアは俺たちと役人の間へ入った。
「本日の同席試験は、接触、採取、鑑定を行わない条件で実施されました。試験はすでに終了していますが、対象者がまだ館内にいる以上、同条件で保護します」
「条例に基づく確認だ」
「でしたら、正式な照会を冒険者ギルドへ回してください」
「書状は正式なものだ」
「従魔登録を管轄するのは冒険者ギルドです。こちらだけで所有権の確認はできません」
所有権。
また言った。
セリアは役人をまっすぐ見ている。
「エッグ本人は、先ほど追加試験を拒否しました。その拒否は受理されています。現在、接触を望んでいるとは確認できません」
「人語を話さない魔物の意思表示を、公的な拒否とみなすのか」
「少なくとも、薬師ギルドの試験ではみなしました」
「薬師ギルドの内規と条例は別だ」
「だからこそ、冒険者ギルドを交えます」
セリアは引かなかった。
粘りのない物腰。
押してこない人。
だが。
押されたときまで、弱いわけではなかった。
「こちらで照会書を作成します。本日の保護記録、従魔登録の確認依頼、本人意思に関する既存記録を添付します」
「明朝までに用意できるか」
「用意します」
早い。
話が進んでいる。
俺を置いて。
「待ってください」
ミミルが言った。
「明朝、何があるのですか」
役人が書状を巻き直す。
「薬師ギルド、冒険者ギルド、行政担当による合同会議を開く」
「何を決める会議ですか」
「先ほど述べたとおりだ」
役人は俺の箱を見た。
「対象の危険性」
一つ。
「希少性」
二つ。
「そして、所有権」
三つ。
俺の値段を決める会議ではない。
たぶん。
だが、似ている。
危険なら、取り上げる。
珍しいなら、囲う。
誰のものか決める。
俺が俺のものだという項目があるのかは、わからない。
「ミミルさん」
セリアが振り返る。
「本日はお帰りください」
「でも」
「今ここで確認を受ける必要はありません」
はっきりした声だった。
「照会は私から冒険者ギルドへ回します。受付担当にも、これまでの保護記録をそろえるよう依頼します」
受付嬢の顔が浮かんだ。
名前は知らない。
何度も助けてもらった。
今回も頼ることになる。
「エッグへの接触は認めません」
セリアは役人に向かって言った。
「異議がある場合は、明日の合同会議でお願いします」
役人はしばらく黙っていた。
「よろしい」
ようやく言った。
「ただし、対象を移送、譲渡、隠匿しないこと」
「譲渡なんてしません」
ミミルの声が鋭くなる。
「エッグは品物ではありません」
「条例上の確認事項を述べただけだ」
役人は書状を従者へ返した。
話は終わったらしい。
俺たちは薬師ギルドを出た。
今度こそ。
外は少し暗くなっていた。
試験を終えたときより、人通りが増えている。
仕事帰りの冒険者。
買い物袋を持った女。
荷車を引く男。
薬師ギルドの前で立ち話をする商人。
いつもの町だ。
たぶん。
だが。
「あれか?」
誰かが言った。
小さな声だった。
聞き間違いかもしれない。
「箱の中だろ」
別の声。
ミミルの腕に力が入る。
俺は箱の隙間から外を見た。
目が合った。
男が俺を見ていた。
卵を見る目ではない。
珍しい生き物を見る目でもない。
店先に並んだ薬瓶を見る目。
値札を探す目だった。
男だけではない。
薬師ギルドの扉が開いたからか。
紋章入りの書状を持った役人が来たからか。
噂がもう広がっているのか。
わからない。
わからないが。
視線が増えている。
昨日より。
試験へ来たときより。
明らかに。
「エッグ、大丈夫ですか」
ミミルが小声で聞く。
右へ揺れようとした。
揺れられなかった。
大丈夫ではない。
なら、左だ。
俺は小さく左へ揺れた。
「……そうですよね」
ミミルが箱の布を閉じる。
外が見えなくなる。
暗い。
だが、視線も見えない。
「今日は、まっすぐ帰ります」
右。
「明日は、受付嬢さんにも一緒にいてもらいます」
右。
「所有権なんて、勝手に決めさせません」
右。
強く。
箱の底へ殻をぶつけるほど、右へ揺れた。
俺はミミルの従魔だ。
それは俺が選んだ。
ミミルに拾われたからではない。
登録されたからでもない。
ここにいたいと、俺が決めた。
なのに。
希少。
危険。
高価。
そんな言葉が増えるたび、俺の意思が小さくなっていく。
右と左しかないからか。
人の言葉を話せないからか。
卵だからか。
明日の会議で、何を聞かれるのだろう。
何を調べられるのだろう。
そして。
誰が、俺に値札をつけようとしているのだろう。
工房までの道。
箱の布は閉じたままだった。
それでもわかる。
人とすれ違うたび。
足音が止まる。
声が低くなる。
視線が箱に刺さる。
薬師ギルドの試験は、俺の左で止まった。
だが。
止まらなかったものもあった。
噂。
値段。
所有権。
明日の朝。
今度は薬ではなく。
俺自身が、試される。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」「卵、がんばれ」と思っていただけたら、下の☆☆☆☆☆やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。感想もひとこと置いていってくれたら、殻にヒビが入るくらい励みになります。
廃棄推奨の最弱卵が世界を孵すまで、どうか見届けてやってください。




