第20話 小さな一歩と新しい始まり
翌朝。
俺はギルドの仮眠室で目を覚ました。
いや、目はない。
毎回この説明をするのも面倒だが、ないものはない。
それでも、意識が浮かび上がる感覚はある。
昨日より、殻の中は静かだった。
ロイムの魔力拘束具から吸い込んだ嫌なざわつきは、かなり薄れている。
ひび周辺の熱も、ほとんどない。
俺は自分だけに見える表示を確認した。
================
生命力:3/3
魔力:3/3
ひび割れ率:42%
状態:安定傾向
外部魔力残滓:ほぼ沈静
================
よし。
安定傾向を維持。
ひび割れ率は42%のまま。
下がってはいない。
そこは少し悲しい。
だが、上がっていないなら今は勝ちだ。
俺は小さく右へ揺れた。
ミミルはベッドの上で、まだ眠っている。
ちゃんと横になって寝ている。
えらい。
かなりえらい。
机で突っ伏して寝ていないだけで、俺の中のミミル評価が上がる。
いや、元から高いけど。
しばらくして、ミミルが目を覚ました。
「……エッグ?」
右。
おはよう。
ミミルはすぐ俺の殻を確認した。
「熱い?」
左。
「痛い?」
左。
「昨日より落ち着いてる?」
右。
落ち着いている。
ミミルはほっと息を吐き、記録用の紙を引き寄せた。
『朝』
『熱感なし』
『痛みなし』
『震え安定』
『ひびからの光なし』
『安静継続』
見えている範囲だけ。
触れてわかる範囲だけ。
いい記録だ。
俺は右へ揺れた。
「記録、大丈夫?」
右。
ばっちり。
ミミルは少し笑った。
「エッグ、記録係みたい」
卵の記録係。
意味がわからない。
だが、情報管理は大事だ。
俺のスキル名や内部表示を、外の人間が知っているような扱いにはしない。
これは大切なことだ。
朝食後、受付嬢が仮眠室へ来た。
「おはようございます。工房の仮修理が終わりました」
ミミルがぱっと顔を上げる。
「本当ですか?」
「はい。扉は仮ですが閉まります。窓には封印札を追加しています。ただ、完全修理には数日かかります」
数日。
まあ、破られた扉が一晩で新品になるわけがない。
異世界にも即日配送はないらしい。
いや、あっても怖い。
受付嬢は書類を一枚出した。
「修理費についてですが、襲撃被害としてギルド補助が一部出ます」
ミミルは少し安心した顔をした。
だが、受付嬢の表情はそこまで明るくない。
「ただし、全額ではありません。防犯補強や封印札の追加も含めると、ミミルさんの負担分も残ります」
出た。
金。
どの世界でも現実は金で殴ってくる。
ミミルの顔が少し曇る。
「どのくらいですか?」
受付嬢は金額を書いた紙を差し出した。
俺にはこの世界の金銭感覚がまだ完全にはわからない。
だが、ミミルの顔色を見る限り、軽く払える額ではないらしい。
「……けっこう、しますね」
「はい。分割申請もできます」
分割。
ローン。
異世界でも逃げられない言葉。
俺は木箱の中で震えた。
前世の記憶がうっすら痛い。
ミミルは紙を見つめながら、小さく頷いた。
「分割でお願いします。あと、低刺激回復薬の納品も……」
俺は思わず震えた。
ミミルがすぐに俺を見る。
「エッグ、大丈夫。無理には作らない」
右。
それならいい。
受付嬢も真剣な顔で言った。
「納品は一日最大三本までです。それも、エッグさんの状態が良い日だけ。本人同意も必要です」
右。
わかっている。
ただ、俺は少し迷った。
低刺激回復薬は役に立つ。
ミミルの収入にもなる。
でも、俺の殻片が絡む。
それがまた目立つ原因になる。
自然に剥がれた殻片だとしても、俺の体の一部だ。
気軽に使うものではない。
ミミルはその迷いを見たのか、そっと言った。
「今日は作らないよ」
俺は右へ揺れた。
それがいい。
「今日は、まず工房を片づける。それから、エッグの体に触らない方法で、できることを考える」
俺の体に触らない方法。
それはかなり大事だ。
受付嬢も頷く。
「それがよいと思います。ギルドとしても、身体由来素材に頼りすぎる製法は推奨しません」
身体由来素材に頼りすぎる。
まさに問題点だ。
俺が役に立つほど、俺の殻が狙われる。
なら、俺を削らずに役立つ方法を探した方がいい。
ミミルは俺の籠に保護対象の木札をつけ直し、工房へ戻る準備をした。
ギルド職員が一人、同行してくれることになった。
完全に護送される卵である。
前世でこんな扱いを受けたことはない。
社畜時代は、誰も俺を守ってくれなかったのに。
卵になってから護送されるとは。
人生、本当にわからない。
工房へ戻る道は、大通りを使った。
木札のせいで、かなり目立つ。
「ギルド保護対象だって」
「あの卵、やっぱり高いのか?」
「触るなって書いてあるぞ」
見るな。
いや、見るのはまだいい。
触るな。
絶対に触るな。
俺は籠の中でじっとしていた。
今は安静。
目立たない。
反応しない。
それが一番。
工房に着くと、扉は板で補強されていた。
見た目はまだ痛々しい。
だが、昨日よりはずっとましだ。
窓には封印札が貼られ、簡単には開かないようになっている。
床の粉や木片も、大まかには片づけられていた。
それでも、襲撃の跡は残っている。
机の傷。
床の粘着樹脂の跡。
割れた発光石の細かい欠片。
扉の内側についた傷。
ミミルは工房の入口で、しばらく黙っていた。
「……帰ってきた」
右。
帰ってきた。
怖い場所になってしまった。
でも、ここはミミルの工房だ。
俺たちの拠点だ。
逃げっぱなしにはしたくない。
ギルド職員は扉や窓を確認し、昼過ぎまで外で待機してくれることになった。
ミミルはまず、俺を机の上の安全な場所に置いた。
保護対象の木札は籠につけたまま。
俺自身は厚い布の上。
周囲には落ちそうな物なし。
よし。
安全確認、大事。
ミミルは部屋を見回し、大きく息を吸った。
「片づけよう」
右。
片づけよう。
ただし、俺は動かない。
今日は安静。
ミミルが一人で片づけることになる。
申し訳ない。
だが、俺が転がって手伝うと、たぶん余計に散らかる。
卵の片づけ能力は低い。
ミミルは割れた瓶を拾い、粉が残った布を処分し、薬品棚の中身を確認していった。
俺は見守る。
たまに、危なそうな瓶がぐらつくと震える。
ぶる。
「これ?」
右。
ミミルが瓶を奥へ押し込む。
こういう補助ならできる。
素材の気配を探る力も、今は使いすぎない範囲で役に立った。
ただし、無理に集中しない。
================
《素材感知 Lv1》の使用を確認。
熟練度が微量上昇しました。
状態:安定傾向を維持。
================
よし。
安定傾向は維持。
無茶しなければ大丈夫そうだ。
昼前には、工房はだいぶ片づいた。
扉は仮修理。
窓は封印札。
机は傷だらけ。
でも、作業はできる。
ミミルは椅子に座り、修理費の紙をじっと見ていた。
「……稼がないと」
その声が重い。
俺は小さく震えた。
無理するな。
ミミルは俺を見る。
「わかってる。エッグを削って稼ぐのはしない」
右。
それは絶対。
「でも、何か作らないと、工房も続けられない」
それも事実。
金がないと生活できない。
工房も直せない。
薬品も買えない。
俺は卵なので食費はかからない。
だが、ミミルは人間だ。
食べる。
寝る。
暮らす。
そのためには収入がいる。
ミミルはしばらく考えたあと、古い実験ノートを開いた。
「エッグの殻片を使わないで、できるもの……」
ページをめくる。
「殻を守るもの」
俺は震えた。
殻を守るもの?
ミミルは俺を見る。
「エッグ用じゃなくて、最初は普通の素材で試すよ。割れやすい瓶とか、卵殻とか、薄い陶器とか。衝撃を和らげる保護パテみたいなもの」
保護パテ。
それは良い。
俺自身に塗るかどうかは別として、商品としては需要がありそうだ。
冒険者の小瓶。
薬師の薬瓶。
錬金術師の道具。
割れやすい物を守る素材。
俺の殻片を使わないなら、リスクも少ない。
俺は右へ揺れた。
ミミルの顔が少し明るくなる。
「やってみる?」
右。
やってみよう。
ただし、安全に。
ミミルは頷き、材料を並べた。
樹脂。
乾燥草の繊維。
砕いた安価な貝殻。
薄めた補強剤。
少量の粘着液。
どれも、俺の体由来ではない。
安心。
非常に安心。
まず、ミミルは小さな石に保護パテを塗った。
乾かす。
軽く叩く。
石は無事。
「石は、まあ大丈夫だよね」
そうだね。
石はもともと強い。
次に、薄い陶器片。
保護パテを塗る。
乾かす。
木の棒で軽く叩く。
ぱき。
割れた。
「あっ」
駄目だった。
俺は左へ揺れた。
ミミルも苦笑する。
「うん。これは失敗」
記録に書く。
『試作一号』
『石には密着』
『薄い陶器には硬すぎる』
『衝撃で割れる』
『柔軟性不足』
いい。
失敗記録は大事。
次に、粘着液を増やした二号。
陶器には少しまし。
だが、乾いたあとべたつく。
触ると指にくっつく。
「これは商品にはできないね」
右。
できない。
ここは右でいい。
商品にはできない、に対する肯定だ。
冒険者の道具袋が地獄になる。
三号は乾燥草の繊維を増やした。
今度は柔らかい。
だが、剥がれやすい。
軽くこすっただけで端が浮いた。
左。
駄目。
ミミルは唸る。
「難しいなあ」
でも、悪くない。
安全な試行錯誤だ。
誰も傷つかない。
俺の殻も削られない。
爆発もしない。
今のところ。
それだけでかなり良い。
ミミルは四号を作った。
貝殻粉を減らし、樹脂を増やし、繊維を短く刻む。
さらに、低刺激回復薬を作る時に使う安定手順を少しだけ応用する。
もちろん、俺の殻片は使わない。
混ぜる時の温度と順番を変えるだけだ。
四号を薄い鳥卵殻に塗る。
乾かす。
軽く叩く。
こん。
割れない。
もう少し強く。
こん。
ひびは入ったが、ばらばらには砕けなかった。
ミミルの目が輝いた。
「できた……かも」
俺は右へ揺れた。
かも。
まだ商品には早い。
だが、方向性は良い。
ミミルもすぐに浮かれすぎず、記録に書く。
『試作四号』
『鳥卵殻に密着』
『軽い衝撃を分散』
『強い衝撃ではひび』
『剥がれにくい』
『乾燥時間やや長い』
『本体使用不可。まず物品で検証』
本体使用不可。
大事。
俺にいきなり塗らない。
それが大事。
俺は右へ強く揺れたかったが、安静中なので小さく揺れた。
ミミルは笑う。
「エッグにはまだ塗らないよ。状態が落ち着いてから、鑑定士さんにも相談してから」
右。
その慎重さ、百点。
夕方、受付嬢が様子を見に来た。
ミミルは保護パテ四号の試験片を見せる。
「エッグの殻片は使っていません。普通の材料だけです」
最初にそこを言うのが良い。
受付嬢も安心したように頷く。
「それなら記録上も問題ありません。販売するなら、まずギルドの道具担当に試験してもらう形がよいですね」
販売。
いきなり売るのは怖いが、試験ならありかもしれない。
受付嬢は鳥卵殻の試験片を見た。
「割れ物の保護材としてなら、需要はあるかもしれません。薬瓶を持ち歩く冒険者や、採取者には便利です」
ミミルの表情が明るくなった。
「本当ですか?」
「ただし、品質が安定してからです。あと、エッグさんの名前を出して売るのは避けた方がいいです」
右。
それ。
非常に大事。
卵印の保護パテとか絶対やめてほしい。
目立ちすぎる。
受付嬢は続ける。
「ミミルさんの工房試作品として、まずはギルド内部で少数試験。それが安全です」
ミミルは何度も頷いた。
「はい。そうします」
俺も右へ揺れた。
安全第一。
目立たない。
小さく稼ぐ。
今はそれでいい。
受付嬢は俺の状態も確認した。
「エッグさん、今日はどうですか?」
俺は右へ小さく揺れた。
悪くない。
ミミルが記録を見せる。
「熱はなくて、震えも安定しています。作業中も無理な動きはしていません」
「よかったです。ですが、今日も無理はしないでください」
右。
もちろん。
今日はもう疲れた。
何もしていないようで、精神的にはかなり疲れた。
夜。
ミミルは工房ではなく、もう一度ギルドの仮眠室に泊まることになった。
扉の完全修理がまだだからだ。
保護パテ四号の試験片と、最低限の記録だけを持って、ギルドへ戻る。
工房には職員がついてくれる。
ありがたい。
仮眠室に戻ると、ミミルは机に試験片を並べた。
「エッグの殻片を使わなくても、できることあるね」
右。
ある。
それは、今日一番の収穫だった。
俺の体を削らなくても、ミミルは作れる。
役に立てる。
稼げる可能性がある。
それがわかっただけで、少し心が軽くなった。
ミミルは俺の横に座り、ぽつりと言った。
「私、エッグの殻片がすごかったから、それに頼りすぎてたのかも」
俺は動かなかった。
「もちろん、勝手に使うつもりはなかったよ。でも、あれがあれば良い薬ができるって思ってた」
それは責めることではない。
ミミルは俺を素材扱いしたわけではない。
でも、俺の殻片が特別な結果を出したのも事実だ。
頼りたくなる気持ちはわかる。
ミミルは俺の殻に触れない距離で、手を止めた。
「でも、エッグが傷つくなら意味ない」
右。
そう。
「エッグを削らないで、エッグと一緒に考える」
右。
それがいい。
ミミルは少し笑った。
「卵殻錬金術って名前、ちょっと変えた方がいいかな」
右。
変えた方がいい。
卵殻錬金術だと、どうしても俺の殻を使う感じが強い。
俺の殻片が特別だと知られれば、また変な奴が寄ってくるかもしれない。
名前は大事だ。
前世でも、やたら意識高い横文字のプロジェクト名は、だいたい中身が炎上していた。
いや、今それは関係ない。
ミミルは俺の反応を見て、少し考え込んだ。
「やっぱり変えた方がいいよね。エッグの殻を使ってるって思われたら困るし」
右。
その通り。
「じゃあ……割れ物保護材研究?」
右。
地味。
すごく地味。
でも安全。
今はその地味さがいい。
ミミルは記録の表紙に、小さく書いた。
『割れ物保護材研究』
『エッグ由来素材は使用しない』
『普通素材による衝撃緩和材の試作』
完璧。
俺は右へ揺れた。
ミミルも満足そうに頷く。
「これなら、エッグが目立ちにくいよね」
右。
かなり大事。
俺はもう、廃棄推奨から保護対象まで肩書きが変わりすぎている。
これ以上、変な名前で注目を集めたくない。
卵印の保護パテ。
竜血殻の秘薬。
奇跡の卵殻錬金術。
そういう方向に行ったら終わりだ。
絶対に終わりだ。
地味でいい。
むしろ地味がいい。
割れ物保護材研究。
なんて平和な響きだろう。
俺はしみじみ震えた。
「エッグ、安心してる?」
右。
安心している。
「そっか」
ミミルは少し嬉しそうに笑い、試験片を布の上に並べ直した。
「じゃあ、明日はこれをギルドの道具担当さんに見てもらおう。売るとかじゃなくて、まず安全に使えるかだけ」
右。
それがいい。
いきなり販売は危ない。
まずは試験。
少量。
ギルド内部。
エッグの名前は出さない。
安全確認。
この流れが一番いい。
ミミルは記録にさらに追記した。
『販売前にギルド道具担当へ相談』
『少数試験』
『製作者名はミミル工房』
『エッグの名前は出さない』
『本体使用不可』
本体使用不可。
重要すぎる。
俺は右へ強く揺れたかったが、安静中なので小さく揺れた。
ミミルは笑う。
「そこ、すごく大事だよね」
右。
とても。
俺を実験台にするのは後回し。
いや、後回しというか、できればずっとしないでほしい。
どうしても必要な場合は、鑑定士に相談して、状態が安定していて、薄く少量で、安全確認してから。
それくらい慎重でいい。
卵は割れたら終わりなのだ。
その夜、俺はステータスを確認した。
================
生命力:3/3
魔力:3/3
ひび割れ率:42%
状態:安定傾向を維持。
《魔力安定・未獲得》への適性を確認。
《素材感知 Lv1》の熟練度が微量上昇しました。
《殻硬化 Lv1》の維持感覚が安定しました。
================
魔力安定。
未獲得。
また新しい予兆が出た。
おそらく、薄い安定剤や不安定魔力の沈静と関係しているのだろう。
まだ手に入ってはいない。
でも、適性はある。
悪くない。
今すぐ強くなる必要はない。
今は、割れないこと。
安定すること。
その積み重ねが、いつか力になる。
ミミルは試験片を眺めながら、うとうとしていた。
俺は小さく震えた。
ぶる。
「……寝る。ちゃんと寝る」
よし。
言う前にわかった。
成長している。
ミミルは布団に入り、すぐに寝息を立て始めた。
工房はまだ完全には直っていない。
修理費も残っている。
ロイムも捕まっていない。
低刺激回復薬の納品も、慎重にしなければならない。
問題は山積みだ。
だが、今日は一つだけ前に進んだ。
俺を削らなくても、ミミルは作れる。
俺も、壊れずに一緒に考えられる。
廃棄推奨の卵と、落ちこぼれの見習い錬金術師。
その二人で、割れ物を守る保護材を作る。
なんだか少し、俺たちらしい。
俺は布の上で、静かに震えを止めた。




