第16話 卵の防衛計画
翌朝。
工房の扉は、見るからに痛々しかった。
応急修理された板。
内側から打ちつけられた補強材。
斜めに渡されたつっかえ棒。
もはや扉というより、工事現場の仮囲いである。
だが、ないよりはずっといい。
昨夜は、ギルド職員が工房の外を巡回してくれた。
そのおかげで、再び誰かが押し入ってくることはなかった。
ただし、俺もミミルもあまり眠れていない。
物音がするたびに、ミミルは起き上がった。
足音が聞こえるたびに、俺は震えた。
風で板が軋むたびに、二人とも固まった。
完全に神経がやられている。
俺は木箱の中で、小さく震えた。
怖い。
だが、怖がっているだけではどうにもならない。
もう一度襲われたらどうするか。
それを考えなければならない。
ミミルも同じことを考えていたのだろう。
朝から、机の上にいくつかの道具を並べていた。
粘着樹脂。
発光石。
目つぶし粉。
刺激粉。
空の小瓶。
布。
それから、俺用の厚い木箱。
いや、待て。
その木箱は何だ。
「エッグ」
ミミルが真面目な顔で言った。
「工房を守る準備をしようと思う」
右。
必要だ。
非常に必要だ。
だが、その木箱が気になる。
俺は木箱の方へ体を傾けた。
「これ?」
右。
「避難用の箱」
避難用。
なるほど。
「昨日、エッグが机から落ちたり、蹴られたりしたから……いざという時、ここに入ってもらう」
ミミルは箱の中を見せた。
内側には厚い布。
底には柔らかい乾燥草。
側面には衝撃吸収用の布巻き。
蓋には小さな穴。
かなり本格的だ。
卵用シェルター。
いや、俺自身がシェルなのだが。
「名前は、緊急退避用卵殻保護ケース」
長い。
俺は震えた。
「長い?」
右。
「じゃあ、エッグ箱」
雑。
急に雑。
だが、わかりやすい。
俺は右へ揺れた。
エッグ箱でいい。
ミミルは少し嬉しそうに頷いた。
「よし。じゃあ、まずはエッグ箱に入る練習」
訓練が始まった。
俺は机の上から、エッグ箱の入口へ向かって転がる。
ころ。
入口に当たる。
入らない。
角度が悪い。
「惜しい」
惜しくない。
普通に失敗だ。
もう一度。
ころ。
今度は半分だけ入る。
殻の丸みが引っかかる。
非常に情けない。
ミミルが後ろからそっと押す。
「ごめんね」
入った。
箱の中は意外と安心感がある。
暗い。
狭い。
揺れにくい。
卵としてはかなり落ち着く。
俺は右へ揺れた。
「居心地いい?」
右。
悪くない。
「じゃあ、危ない時はここに入ってね」
それは状況次第だ。
ミミルが危ない時に、俺だけ箱に入るのは嫌だ。
俺は少し迷って、左へ揺れた。
ミミルは首をかしげる。
「箱、嫌?」
左。
「じゃあ……エッグだけ逃げるのが嫌?」
右。
そう。
ミミルを置いて逃げるのは嫌だ。
ミミルは少し困ったように笑った。
「でも、エッグが割れたら私はもっと嫌」
それはずるい。
そう言われると反論できない。
俺は小さく震えた。
ミミルは箱の蓋を開けたまま、俺の殻をそっと撫でた。
「逃げるのも、守ることだよ」
逃げるのも、守ること。
昨日、約束したばかりだ。
危ない時は逃げる。
戦わないで済むなら戦わない。
俺はしぶしぶ右へ揺れた。
わかった。
ただし、ミミルも逃げること。
俺はミミルの方へ体を傾けた。
「私も?」
右。
「うん。私も逃げる」
よし。
それならいい。
次に、ミミルは工房の配置を確認した。
扉。
窓。
机。
棚。
薬品台。
裏口はない。
逃げ道が少ない。
これはまずい。
工房としては普通なのかもしれないが、防衛拠点としてはかなり弱い。
前世のオフィスで避難経路が一つしかなかったら、普通に怒られる。
いや、異世界工房に労基はない。
たぶん。
ミミルは扉の前に、薄く粘着樹脂を仕込むことにした。
「床に直接は危ないから、布に染み込ませて、踏むと滑るようにする」
右。
良い。
ただし、自分たちが踏まないように注意。
ミミルは床に小さな目印をつけた。
次に、発光石。
「これは机の右端。エッグがぶつかったら落ちる位置に置く」
俺担当か。
いいだろう。
俺は右へ揺れた。
昨日、小瓶を落としてミミルを起こした。
同じ要領で発光石を落とせば、目くらましになる。
ただし、俺も眩しい。
目はないが、眩しさは感じる。
不思議だ。
次に目つぶし粉。
「これは私が投げる。エッグは触らない」
右。
触りません。
手がないので。
刺激粉。
「これは最後の手段。使うと私も咳き込む」
左。
できれば使わないでほしい。
「でも、昨日は効いたよ」
右。
効いた。
自爆気味に。
ミミルは机の端に、工房の簡単な配置図を描いた。
扉。
机。
エッグ箱。
発光石。
粘着布。
避難位置。
これはルール表ではない。
工房の地図だ。
いざという時、どこに何があるかを確認するためのもの。
これなら自然だ。
俺は黙って見ていた。
ミミルは真剣だった。
怖がっている。
それでも、何かできることを探している。
その姿を見て、俺も震えているだけでは駄目だと思った。
俺にできること。
小瓶を落とす。
発光石にぶつかる。
床を転がって相手の足元を狙う。
嫌な震えで時間を稼ぐ。
素材や薬品の気配を探る。
殻を固めて耐える。
全部、小さい。
でも、昨日はその小さいことの積み重ねで助かった。
なら、練習する意味はある。
午前中、俺たちは工房内で練習をした。
まず、発光石落とし。
机の右端に置いた小さな石へ向かって転がる。
ころ。
こつ。
発光石は落ちない。
力が弱い。
もう一度。
ころ。
ごつ。
発光石が少し動く。
まだ落ちない。
難しい。
俺は卵だ。
狙ったものにちょうどいい力で当たるのが難しい。
強すぎると自分が痛い。
弱すぎると動かない。
三度目。
細かい震えで位置を整え、短く転がる。
ころん。
発光石が机の端から落ちた。
ぽす。
布の上に落ちたので光らない。
「成功だけど、本番では床に直接落とさないと光らないね」
なるほど。
布があると衝撃が足りない。
俺は右へ揺れた。
次は、空の小瓶を落とす練習。
これはうまくいった。
からん。
小瓶が転がる。
ぱりん。
割れた。
ミミルが少し困った顔をした。
「……練習用の小瓶、減っちゃうね」
それはそう。
俺は申し訳なく震えた。
「でも、昨日はこれで助かったから必要」
右。
必要経費。
卵防衛費である。
次に、エッグ箱への退避練習。
これは数回でかなり上達した。
細かい震えで位置を調整してから、短く転がる。
箱の入口へ。
少し左へ。
中へ入る。
ころん。
成功。
「すごい。早くなってる」
右。
少しずつだが、動ける。
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《転殻 Lv1》の制御精度が上昇しました。
《微振動 Lv2》との連動率が上昇しました。
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いい。
安全な訓練で熟練度が上がるのはありがたい。
ひび割れ率は変化なし。
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ひび割れ率:39%
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増えていない。
よし。
昨日のような無茶をしなければ、成長してもひびは増えにくい。
これは希望だ。
昼過ぎ、ギルドの受付嬢が工房に来てくれた。
応急修理の確認と、巡回予定の説明のためだ。
受付嬢は工房の中を見て、少し驚いた。
「これは……備えを作っているんですね」
ミミルは少し恥ずかしそうに頷いた。
「はい。昨日みたいなことがあったら怖いので」
受付嬢は配置図を見る。
粘着布。
発光石。
目つぶし粉。
エッグ箱。
「かなり考えていますね」
褒められた。
ミミルは照れたように笑う。
「エッグと一緒に考えました」
俺は右へ揺れた。
一緒に考えた。
主に俺は震えていただけだが、参加はした。
受付嬢は真面目な顔に戻る。
「ただ、無理に戦わないでください。第一目標は逃げることです」
右。
わかっています。
たぶん。
ミミルも頷く。
「はい。エッグを箱に入れて、できるだけ外へ逃げます」
「外へ出られない場合は?」
ミミルが少し詰まる。
受付嬢は工房内を見回した。
「窓は一つ。扉が塞がれると逃げ道がありませんね」
そう。
それが問題だ。
受付嬢は少し考えたあと、言った。
「ギルドから、簡易警報石を貸し出します」
「警報石?」
「強く叩くか、魔力を流すと大きな音が鳴ります。近くの巡回に異常を知らせるためのものです」
それは欲しい。
非常に欲しい。
俺は全力で右へ揺れた。
受付嬢は苦笑した。
「エッグさんも賛成ですね」
賛成です。
かなり。
受付嬢は小さな赤い石を机に置いた。
「ただし、一度使うと壊れます。緊急時だけ使ってください」
使い捨て防犯ブザー。
異世界版。
ありがたい。
ミミルは丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます」
受付嬢はさらに書類を取り出した。
「それと、昨日の件を受けて、エッグさんの登録情報に追記します」
また備考欄が増えるのか。
俺は少し身構えた。
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登録従魔:エッグ
特記事項:意思表示あり。
殻片・身体由来素材の売買には、所有者ミミルおよび従魔エッグ双方の同意を必要とする。
現在、襲撃被害により経過観察強化中。
無断接触禁止。
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無断接触禁止。
良い。
それはとても良い。
受付嬢は言った。
「ギルド内での無断接触は禁止できていましたが、今回は工房への襲撃がありました。今後、エッグさんに接触しようとする者がいた場合、すぐに報告してください」
右。
報告します。
全力で。
ミミルも頷いた。
「はい」
受付嬢は少しだけ表情を緩めた。
「それと、ミミルさん自身も無理をしないでください。エッグさんを守ろうとして、ご自分が倒れては意味がありません」
俺は強く右へ揺れた。
まったくその通り。
ミミルは少し気まずそうに笑った。
「気をつけます」
受付嬢が帰ったあと、ミミルは警報石を机の中央に置いた。
「これは、エッグでも鳴らせるかな」
試すわけにはいかない。
使い捨てだから。
俺は警報石の近くへ転がり、軽く体を当てるふりだけした。
「本番では、これにぶつかる?」
右。
できると思う。
ただし、強く叩く必要があるなら、ひびに負担がかかるかもしれない。
緊急時限定だ。
ミミルは警報石の位置を、俺が届きやすい机の低い棚へ置いた。
これで、万が一ミミルが動けなくなっても、俺が鳴らせる可能性がある。
可能性があるだけで、少し安心する。
夕方。
工房の前を、ギルド職員が一度通った。
巡回の確認らしい。
扉の応急修理も、少しだけ補強された。
それでも不安は消えない。
むしろ、準備をすればするほど、昨夜の恐怖を思い出す。
男たちの声。
扉が破られる音。
蹴られた衝撃。
ひびが広がる感覚。
俺は木箱の中で震えた。
ミミルも、時々ぼんやり扉を見ていた。
彼女も怖いのだろう。
それでも、手は動かしている。
床の粘着布を確認する。
発光石の位置を直す。
警報石の位置を確認する。
エッグ箱の蓋を開けやすくする。
怖いから、準備する。
その姿勢は正しい。
夜になる前に、ミミルは簡単な食事を済ませた。
俺は食べない。
卵だから。
いや、栄養はどこから取っているのか。
黒竜の血?
魔力?
空気?
深く考えると怖いのでやめる。
ミミルは食後、俺の木箱を机の下ではなく、机の横の低い棚に置いた。
警報石に近い位置。
エッグ箱にも近い。
避難にも警報にも対応できる配置だ。
「今日はここで寝よう」
右。
いいと思う。
「私も、すぐ起きられるように近くで寝る」
右。
ただし、ちゃんと寝ること。
俺はミミルへ体を傾けた。
「私も休めって?」
右。
毎回言わせないでほしい。
ミミルは少し笑った。
「はいはい。寝ます」
夜。
工房の灯りが落ちる。
外には巡回の足音が時々聞こえた。
昨日よりは安心できる。
でも、完全ではない。
俺は暗闇の中で、警報石の位置を確認した。
机の低い棚。
俺から転がって届く距離。
その横に発光石。
床には粘着布。
少し離れてエッグ箱。
もし来たら。
まずミミルを起こす。
警報石。
発光石。
エッグ箱。
逃げる。
戦わない。
昨日、約束した。
戦わないで済むなら戦わない。
俺は自分に言い聞かせた。
だが、もしミミルが危なければ。
その時は。
考えたところで、工房の外から小さな音がした。
ざり。
土を踏む音。
俺は即座に意識を向けた。
巡回の足音ではない。
もっと軽い。
もっと慎重。
まただ。
俺は小さく震えた。
ぶる。
ミミルはまだ眠っている。
外の音は一つではない。
ざり。
ざり。
複数。
工房の前ではなく、横手。
窓の方か。
俺の殻の奥が冷たくなる。
来た。
また来たのか。
昨日の今日で。
いや、昨日失敗したから、今夜なのかもしれない。
俺はミミルを起こすために震えた。
ぶるぶる。
ミミルが薄く目を開ける。
「……エッグ?」
俺は窓の方へ体を向けた。
その瞬間、外から低い声が聞こえた。
「中にいる。卵も女も」
別の声。
「今夜は失敗するなよ」
ミミルの顔から血の気が引いた。
俺は警報石の方へ意識を向けた。
立てたばかりの備え。
まさか、こんなに早く試すことになるとは思わなかった。
俺は殻を固めるように意識した。
割れるな。
そして、今度こそ逃げる。




