第15話 割れかけた殻
工房の中は、ひどい有様だった。
破られた扉。
床に散らばった木片。
割れた小瓶。
白い粉。
黄色い煙の残り香。
粘着樹脂でべたついた床。
そして、その中心でミミルが俺を抱えていた。
俺の生命力は回復薬で戻った。
だが、ひび割れ率は39%。
昨日まで32%だった。
たった一晩で7%も増えた。
数字だけならまだ半分以下。
だが、俺にとってはかなり怖い。
ひびが増える感覚は、普通の怪我とは違う。
殻の外側だけではない。
内側まで、嫌な線が走っている感じがする。
俺はミミルの手の中で、小さく震えた。
「エッグ、痛い?」
少し考えて、左。
今は痛みは引いている。
「苦しい?」
左。
苦しくはない。
「でも、怖い?」
右。
怖い。
それはもう、かなり。
ミミルの顔が歪んだ。
「ごめんね」
俺は即座に左へ揺れた。
違う。
ミミルのせいではない。
ミミルは守ってくれた。
目つぶし粉を投げた。
発光石を使った。
粘着樹脂も使った。
俺を抱えて離さなかった。
悪いのは、押し入ってきた男たちだ。
そして、その背後にいる誰か。
俺は左へ揺れ続けた。
ミミルは小さく息を吸う。
「私のせいじゃない?」
右。
そう。
ミミルのせいじゃない。
ミミルは泣きそうな顔で、それでも少しだけ笑った。
「ありがとう」
ギルドの夜間巡回は、すぐに応援を呼んだ。
工房の外に職員が増える。
捕まった男二人は縛られ、連れて行かれた。
逃げた者も何人かいるらしい。
窓側にいた見張り。
外で合図していた者。
もしかすると、さらに離れた場所に指示役がいたかもしれない。
考えたくないが、かなり計画的だった。
卵一つ奪うために、ここまでするか。
いや、俺はただの卵ではなくなっている。
竜の血を浴びたことで、俺の殻には普通ではない反応がある。
自然に剥がれた殻片は、回復薬を安定させる触媒になった。
薬草や素材にも、なぜか反応できる。
そして、ヴァルム商会のロイムが興味を持った。
価値があると思われた。
それだけで、危険になる。
俺は小さく震えた。
役に立つほど、狙われる。
やっぱりこの世界も、なかなか厳しい。
しばらくすると、受付嬢と鑑定士も工房にやって来た。
受付嬢は壊れた扉を見るなり、顔色を変えた。
「ミミルさん!」
「受付嬢さん……」
ミミルは俺を抱えたまま立ち上がろうとして、ふらついた。
受付嬢が慌てて支える。
「座っていてください。怪我は?」
「私は少し擦りむいただけです。でも、エッグが……」
受付嬢の視線が俺に向く。
俺は布に包まれていた。
外から見ても、ひびが広がっているのがわかるのだろう。
受付嬢の表情が険しくなった。
「鑑定士さん、お願いします」
鑑定士はすぐに簡易水晶を取り出した。
水晶が淡く光る。
================
名称:ひび割れ卵
種別:不明
危険度:低
状態:損傷安定
備考:魔力消耗。殻損傷拡大。経過観察。
================
ギルド鑑定では、こう見えるらしい。
俺の中に見えている数字とは違う。
ひび割れ率39%までは表示されない。
俺のスキル名も、当然見えていない。
だが、殻の損傷が広がっていることと、魔力を消耗していることはわかるようだ。
鑑定士は眉をひそめた。
「損傷は安定しています。ですが、回復薬で生命反応は戻っても、殻のひびそのものは完全には戻っていませんな」
そう。
それが問題だ。
俺のステータスでも表示されている。
生命力は戻る。
痛みも引く。
だが、ひび割れ率は下がらない。
割れかけた痕は、残る。
ミミルが小さく聞いた。
「このままだと、危ないですか?」
鑑定士は少し黙った。
その沈黙が怖い。
「すぐに命に関わる状態ではありません。ただ、同じような衝撃を何度も受ければ危険です。しばらくは安静にした方がよいでしょう」
安静。
大事。
非常に大事。
俺は右へ揺れた。
安静、賛成。
受付嬢は俺の反応を見て、少しだけ安心したように言った。
「エッグさんも理解していますね」
理解しています。
とても。
もう蹴られたくない。
絶対に。
受付嬢は壊れた工房内を確認しながら、職員に指示を出した。
「扉は応急修理を。今夜はギルドから見張りを一人置きます。ミミルさんは、可能なら一時的にギルドの仮眠室へ」
ミミルは首を振った。
「工房にいます。エッグも、道具も、ここにあるので」
受付嬢は少し困った顔をした。
「ですが、危険です」
「わかっています。でも、ここを空けたら、また何か持っていかれるかもしれません」
その不安はわかる。
棚の奥には殻片がある。
薬品もある。
記録もある。
工房はミミルの全部だ。
簡単に離れろと言われても難しい。
受付嬢は少し考え、頷いた。
「では、今夜はギルド職員を外に置きます。扉の応急修理も行います。明日以降、警備について相談しましょう」
「ありがとうございます」
ミミルが頭を下げる。
俺も右へ揺れた。
受付嬢は俺に向かって、真面目な声で言った。
「エッグさん。無理に動かないでくださいね」
右。
動きません。
今日はもう絶対に。
鑑定士は、床に散らばった破片や瓶を調べていた。
特に、男たちが持っていた道具。
小型の袋。
布。
簡易拘束具。
そして、魔力のこもった金属片。
「これは……捕獲用の魔道具の一部ですな」
受付嬢の表情がさらに険しくなる。
「捕獲用?」
「小型の魔物を眠らせる、あるいは拘束するための道具です。完全なものではありませんが、痕跡があります」
小型の魔物。
俺か。
俺を捕獲する気だったのか。
俺は震えた。
ミミルの手が、俺をそっと包む。
「エッグを捕まえるために……」
鑑定士は頷いた。
「可能性は高いです。少なくとも、ただの強盗ではありません」
知っていた。
あいつらは最初から「卵だけ置いて黙っていれば」と言っていた。
目的は俺。
はっきりしている。
受付嬢は職員に指示を出し、捕獲道具の破片を証拠として回収させた。
「ヴァルム商会の件と合わせて調査します。ただし、直接の証拠が出るまでは断定できません」
また証拠。
必要なのはわかる。
だが、襲われた側としてはつらい。
俺は木箱に戻され、布で安定させられた。
ミミルは俺のすぐ近くに座る。
受付嬢は、ミミルの擦り傷にも薬を塗った。
「ミミルさんも怪我をしています。ご自分の手当てもしてください」
「はい……」
ミミルは素直に頷いた。
その様子を見て、俺は少し安心した。
ミミルは自分のことを後回しにしがちだ。
俺のことばかり見て、自分が怪我をしていることを忘れる。
それはよくない。
俺は木箱の中から、ミミルの手へ体を傾けた。
「私も休めってこと?」
右。
ちゃんと休め。
ミミルは苦笑した。
「エッグに言われちゃった」
そうです。
卵からの忠告です。
重く受け止めてください。
夜明けが近づく頃、工房の扉は応急修理された。
板を打ちつけ、内側からつっかえ棒をする。
見た目はかなり悪い。
だが、何もないよりはずっといい。
ギルド職員が外に一人残り、周囲を見張ってくれることになった。
受付嬢と鑑定士は、最後にもう一度俺の状態を確認した。
「今夜は安静に。明日、ギルドで詳しく記録を更新します」
ミミルは頷いた。
「わかりました」
「それと、ロイム氏の件も含めて調査します。ですが、現時点でヴァルム商会本部が関わったと断定はできません」
「……はい」
ミミルの声は沈んでいた。
ロイム。
ヴァルム商会。
疑っている。
だが、断定できない。
それがもどかしい。
俺も同じ気持ちだった。
受付嬢たちが帰ると、工房はようやく静かになった。
外には見張りの足音。
中には壊れた家具と、薬品の匂い。
ミミルは俺のそばに座り込んだまま、しばらく動かなかった。
「エッグ」
俺は小さく震えた。
「怖かったね」
右。
「痛かったね」
右。
「でも、守ってくれたね」
俺は少し迷った。
守れたのか。
結果として、ミミルは無事だった。
でも、俺は蹴られ、ひびが広がった。
あれは守ったと言えるのだろうか。
俺が迷っていると、ミミルはそっと続けた。
「エッグが起こしてくれなかったら、もっと危なかった」
そうか。
小瓶を落として起こした。
それが間に合った。
俺は右へ揺れた。
少しだけ。
ミミルは微笑んだ。
「ありがとう」
右。
どういたしまして。
でも、もうやりたくない。
心から。
昼前まで、俺とミミルは少しだけ眠った。
深い眠りではない。
物音がするたびに目が覚める。
俺に目はないが、意識が跳ね起きる。
外の足音。
板の軋み。
風の音。
全部が不審者の気配に思える。
完全に神経が張っている。
それでも、少し休めた。
昼頃、ギルドから再び職員が来て、俺たちは正式な事情聴取のためにギルドへ向かった。
ミミルは俺を厚い布で包み、籠の中に固定した。
今日は揺れが少ない。
ほぼ完全防御仕様。
俺はありがたく収まった。
ギルドに入ると、いつもより視線が多かった。
昨夜の襲撃の話が、もう広がっているのだろう。
「例の卵、襲われたらしいぞ」
「殻片が金になるって話、本当なのか?」
「ヴァルム商会が絡んでるって噂もあるらしい」
やめろ。
噂をするな。
全部聞こえている。
卵だけど聞こえている。
ミミルは籠を抱きしめ、受付へ急いだ。
受付嬢が奥の部屋へ案内してくれる。
そこで、改めて昨夜の流れを聞かれた。
鍵の音。
男たちの声。
扉を破られたこと。
目つぶし粉。
発光石。
粘着樹脂。
俺が転がって男の足元にぶつかったこと。
蹴られて損傷したこと。
男たちが「卵だけ」と言っていたこと。
「割れたら意味ねえ」と逃げた者が言っていたこと。
全部、記録された。
俺も質問されるたびに、右か左で答えた。
「男たちの目的はエッグさんだったと思いますか?」
右。
「ヴァルム商会の名前を直接聞きましたか?」
左。
「ロイム氏の声は聞こえましたか?」
左。
そこは大事だ。
俺はロイムが直接いたとは言えない。
声は聞いていない。
顔も見ていない。
だから、断定はしない。
怖い。
怪しい。
ほぼ関係していそう。
でも、証拠がないものはない。
受付嬢は俺の回答を丁寧に書き込んだ。
「ありがとうございます。エッグさんの証言も記録します」
卵の証言。
すごい言葉だ。
だが、今は笑えない。
俺の意思が記録に残るのは、本当に大事だ。
事情聴取が終わると、鑑定士がもう一度俺を確認した。
================
名称:ひび割れ卵
種別:不明
危険度:低
状態:損傷安定
備考:魔力消耗。殻損傷拡大。経過観察強化。
================
経過観察強化。
また備考が増えた。
廃棄推奨から始まり、経過観察、補助従魔、損傷安定、経過観察強化。
俺の備考欄がどんどん長くなる。
鑑定士は言った。
「しばらくは戦闘行為を避けるべきです。特に体当たりや、相手を怯ませるほどの強い振動は控えた方がよいでしょう」
右。
控えます。
できる限り。
ミミルも真剣に頷いた。
「もう無理させません」
その時、部屋の外から聞き慣れた声がした。
「まだ割れてねえのか」
ガルドだ。
なぜいる。
いや、ギルドだからいるのはわかる。
でも今来るな。
受付嬢が睨む。
「ガルドさん」
「悪い悪い。様子見に来ただけだ」
絶対に言い方が悪い。
だが、ガルドの顔はいつもより少し真面目だった。
「昨夜、襲われたんだってな」
ミミルは警戒しながら頷く。
「はい」
ガルドは俺を見る。
「で、卵は蹴られても割れなかったと」
俺は動かなかった。
割れなかった。
だが、ひびは増えた。
ガルドは少しだけ目を細める。
「殻、前より硬くしといて正解だったな」
それは本当にそう。
もし殻が前のままだったら、あの蹴りでどうなっていたかわからない。
俺は渋々右へ揺れた。
ガルドはにやりと笑う。
「礼は?」
左。
言わない。
助言は正しかったが、今の言い方で台無しだ。
ガルドは笑った。
「生意気な卵だ」
受付嬢がため息をつく。
「用がないなら出て行ってください」
「ある。ギルド長からの伝言だ」
ギルド長。
初めて聞く単語に、ミミルが顔を上げる。
ガルドは腕を組んで言った。
「工房の夜間巡回を増やす。あと、卵の移動はしばらく大通りを使え。裏道は使うな。だとよ」
ギルド長からの伝言。
それはありがたい。
だが、なぜガルドが持ってくるのか。
受付嬢も少し眉をひそめた。
「伝言役を頼まれたんですか?」
「たまたま近くにいただけだ」
怪しい。
だが、内容はちゃんとしている。
ミミルは小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「俺に礼言うな。ギルド長に言え」
ガルドはそう言って、部屋を出ていった。
なんだあいつ。
嫌な奴なのか、助けてくれているのか。
判断が難しすぎる。
ギルドでの手続きが終わる頃には、俺もミミルも疲れ切っていた。
工房へ戻る道は、大通りを使った。
人通りが多い。
少し遠回り。
でも安全。
ミミルはずっと俺の籠を抱えていた。
途中で何度も聞く。
「痛くない?」
左。
「気分悪くない?」
左。
「怖くない?」
少し迷って、右。
怖くないわけではない。
ミミルは小さく頷いた。
「私も怖い」
右。
知ってる。
「でも、エッグと一緒なら帰れる」
俺は少し震えた。
右。
一緒なら。
工房に戻ると、応急修理された扉が出迎えた。
まだ傷だらけだ。
床も完全には片づいていない。
昨夜の痕跡が残っている。
それでも、ここがミミルの工房だ。
俺たちの拠点だ。
ミミルは俺を机の上に置き、真っ先に言った。
「今日は何もしない」
右。
大賛成。
「実験もしない。訓練もしない。記録だけ最低限」
右。
素晴らしい。
「エッグは安静」
右。
了解。
ミミルも安静にしてください。
俺はミミルの方へ体を傾けた。
「私も?」
右。
「うん。私も休む」
よし。
それでいい。
その夜。
ミミルは俺のそばに布団を敷いた。
机で寝るなと言ったからか、今日は床に近い場所で寝るらしい。
危ない気もするが、俺の近くにいたいのだろう。
俺は木箱の中で、ステータスを確認した。
================
生命力:3/3
魔力:1/3
防御力:5
ひび割れ率:39%
状態:損傷安定
推奨:安静
《殻硬化 Lv1》の維持感覚が安定しました。
《威嚇振動 Lv1》の負荷を確認しました。
================
魔力はまだ1/3。
かなり消耗している。
あの嫌な震えを連続で使ったせいだ。
あれは便利だが、負荷がある。
ひび割れ率も上がった。
今後は使い方を考えないといけない。
強い力は必要だ。
でも、使えば割れる。
このバランスが難しい。
俺は静かに震えた。
ミミルが布団の中から声をかける。
「エッグ」
俺は少し揺れた。
「私、エッグに戦ってほしいわけじゃないよ」
俺は動きを止めた。
「守ってくれたのは嬉しい。すごく嬉しい。でも、エッグが割れるのは嫌」
ミミルの声は小さかった。
「エッグには、生きててほしい」
生きててほしい。
その言葉が、殻の奥に染みた。
俺は戦いたいわけではない。
でも、ミミルを守りたい。
役に立ちたい。
弱いままではいたくない。
だが、それで割れたら意味がない。
ミミルが望んでいるのは、俺が無茶して敵を倒すことではない。
生きていること。
それは、簡単なようで難しい。
俺はゆっくり右へ揺れた。
わかった。
無茶はしない。
たぶん。
いや、できるだけ。
ミミルは少し笑った。
「今、できるだけって思ったでしょ」
俺は動きを止めた。
察しがいい。
いや、今のは俺の揺れ方が悪かったのかもしれない。
ミミルは続けた。
「でも、約束。危ない時は逃げる。戦わないで済むなら戦わない」
右。
約束。
「私も、ちゃんと逃げる」
右。
それも約束。
工房の外では、ギルド職員の足音が時々聞こえた。
夜間巡回。
ありがたい。
昨夜の恐怖は、まだ消えない。
扉の音を聞けば、また体がこわばる。
だが、今夜は一人ではない。
ミミルがいる。
外にはギルド職員がいる。
俺は木箱の中で守られている。
そして、少しだけ硬くなった殻がある。
割れかけた。
でも、割れなかった。
それが今の俺のすべてだった。




