第14話 工房に忍び込む影
扉の向こうに、誰かがいる。
一人ではない。
少なくとも二人。
低い声。
荒い息遣い。
鍵をいじる金属音。
深夜の工房に、明らかに招かれていない客が来ていた。
俺は机の上で震えていた。
怖い。
めちゃくちゃ怖い。
だが、今は震えているだけでは駄目だ。
ミミルは寝間着のまま、短い木杖を手に取った。
錬金術用の道具だ。
魔力を通して薬品の反応を安定させるためのもの。
戦闘向きではない。
扉の外から、低い声が聞こえた。
「開けろ」
「静かにしろ。女が起きてる」
「なら早く済ませる」
早く済ませる。
何をだ。
決まっている。
俺を奪うつもりだ。
ヴァルム商会か。
ロイムか。
それとも、噂を聞いた別の誰かか。
今はわからない。
だが、目的が俺であることは、ほぼ間違いない。
ミミルは小声で言った。
「エッグ、机の下に」
俺は左へ揺れかけた。
違う。
机の下に逃げても、俺は自分で素早く動けない。
それに、ミミルを一人にすることになる。
俺は机の上にあるものを見た。
空の小瓶はさっき割った。
残っているのは、粉末瓶。
発光石。
補強剤の小皿。
布。
そして、昨日ミミルが試作していた刺激粉。
使えるものはある。
問題は、俺に手がないことだ。
俺は体を傾け、粉末瓶の方へ震えた。
ミミルが気づく。
「それ?」
右。
ミミルは小瓶を手に取った。
「目つぶし粉……まだ試作だけど」
それでいい。
今は完成度より時間稼ぎだ。
扉の鍵が、がちゃりと鳴った。
外側から無理に回されている。
ミミルが息を呑む。
「やめてください! ギルドに通報します!」
扉の向こうで、男が笑った。
「通報する前に終わる」
最悪だ。
完全に犯罪者の台詞である。
俺は殻の表面を固めるように意識した。
防御力5。
頼む。
今だけは、本当に頼む。
次の瞬間、扉が大きく揺れた。
どん!
ミミルが肩を震わせる。
どん!
蝶番が軋む。
この工房の扉は古い。
ロイムの契約支援で扉を新しくする、なんて話があったのを思い出す。
いらない。
絶対にいらない。
だが、今だけは頑丈な扉が欲しい。
どん!
扉が内側へ歪んだ。
鍵の金具が悲鳴を上げる。
ミミルは目つぶし粉の瓶を握りしめ、扉から少し離れた。
俺は机の端へ転がった。
怖い。
机の端は怖い。
さっき小瓶を落とすために転がったが、俺自身が落ちたら危険だ。
だが、ここからなら下へ動ける。
床には布がある。
昨日の訓練用に敷いた布が、まだ少し残っている。
いざとなったら、そこへ落ちる。
どん!
扉が破られた。
木片が飛ぶ。
冷たい夜気が流れ込む。
粗い服装の男が二人、工房へ踏み込んできた。
顔には布を巻いている。
だが、目つきは完全に悪人だ。
「卵だけ置いて黙ってりゃ、怪我はさせねえ」
男の一人が言った。
ほら来た。
目的は俺。
わかりやすすぎる。
ミミルが震える声で叫ぶ。
「エッグは渡しません!」
「素材に名前つけてんじゃねえよ」
その言葉で、俺の中に怒りが湧いた。
素材。
またそれだ。
俺は素材じゃない。
俺はエッグだ。
ミミルの相棒だ。
男が一歩踏み出した瞬間、ミミルが瓶を投げた。
ぱん!
男の足元で瓶が割れ、白い粉が広がる。
「ぐっ、なんだこれ!」
「目が、くそっ!」
男たちが怯んだ。
成功。
いや、半分成功。
粉は工房の中にも広がった。
「けほっ、けほっ!」
ミミルも咳き込んでいる。
自爆気味である。
試作品だから仕方ない。
俺も殻の表面がぴりぴりした。
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状態異常:軽度刺激
生命力に影響なし。
================
よし。
まだ大丈夫。
男の一人が怒鳴った。
「このガキ!」
ミミルへ向かって腕を伸ばす。
俺は机の端から転がった。
ごろ。
布の上へ落ちる。
どす。
衝撃。
だが、殻を固めていたおかげか、割れない。
================
《殻硬化 Lv1》発動中。
衝撃を軽減しました。
ひび割れ率:32% → 33%
================
上がった。
少し上がった。
だが、今は気にしている場合ではない。
俺は床の上で、重心を前へ押し出す。
狙うのは、男の足首。
昨日の訓練を思い出せ。
細かい震え。
重心移動。
転がる。
ころ。
ころころ。
男はミミルに気を取られている。
俺の方を見ていない。
今だ。
俺は男の足首へぶつかった。
ごっ。
「ぐあっ!?」
男の足が払われる。
転倒。
大きな音を立てて床に倒れた。
やった。
卵式足払い。
かなり情けない技名だが、効いた。
もう一人の男が俺を見る。
「こいつ、動くぞ!」
今さらか。
動く卵です。
補助従魔です。
男が俺へ近づく。
まずい。
踏まれる。
蹴られる。
俺は逃げようとするが、床は平らだ。
坂道ではない。
平地移動は遅い。
ぶるる。
ずり。
遅い。
終わった。
男の足が振り上げられる。
「割れねえ程度に――」
その瞬間、ミミルが叫んだ。
「エッグ!」
俺は反射的に殻をさらに固めるよう意識した。
男の蹴りが、俺の横に当たる。
ごん!
衝撃。
世界が回る。
俺の体が床を転がり、棚の脚にぶつかった。
痛い。
今のは痛い。
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強い衝撃を受けました。
《殻硬化 Lv1》により損傷を軽減。
生命力:3/3 → 2/3
ひび割れ率:33% → 39%
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まずい。
ひびが広がった。
殻の奥がずきずきする。
卵なのに痛みがあるのは、本当に勘弁してほしい。
ミミルの顔が青ざめる。
「エッグ!」
男は舌打ちした。
「割れてねえ。硬いな」
割る気だったのか。
いや、割れたら意味がないと言っていた。
でも、あの蹴りは普通に危なかった。
俺は棚の脚にもたれるように止まった。
動ける。
まだ動ける。
魔力はある。
使うなら今だ。
俺は殻の奥の黒い鼓動に意識を向ける。
黒竜の血。
弱い威圧。
それを細かい震えに乗せる。
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《威嚇振動 Lv1》を使用しました。
魔力:3/3 → 2/3
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低い振動が工房に広がった。
ぶるるるるる。
空気が震える。
男たちの動きが一瞬止まる。
「なんだ、この音……」
「気持ち悪りぃ……」
効いている。
だが、完全には止まらない。
俺の威嚇はまだ弱い。
ミミルはその隙に、机の上の発光石を掴んだ。
「こっち見ないで!」
叫びながら床に叩きつける。
ぱっ。
強い光が工房に広がった。
「ぐあっ!」
「眩しっ!」
男たちが目を押さえる。
発光石。
かなり有能。
ミミルは咳き込みながら、俺へ走ってきた。
だが、倒れていた男が手を伸ばし、ミミルの足首を掴んだ。
「逃がすか!」
「きゃっ!」
ミミルが転びかける。
俺の中で、何かが熱くなった。
駄目だ。
ミミルを捕まえるな。
俺は残りの魔力を意識した。
もう一度、嫌な震えを出すか。
いや、魔力消費が重い。
だが、迷っている暇はない。
俺は全力で震えた。
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《威嚇振動 Lv1》を連続使用します。
魔力:2/3 → 1/3
警告。
連続使用により、殻への負荷が上昇します。
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殻が軋む。
ひびの周りが熱い。
だが、振動はさっきより強く響いた。
男の手がびくりと緩む。
ミミルはその隙に足を引き抜いた。
そして、近くの小袋を掴む。
「ごめん、試作品!」
何に謝った?
俺か?
男たちか?
ミミルは小袋を男たちの方へ投げた。
袋が破れ、黄色い煙が広がる。
「げほっ!」
「今度は何だ!」
「辛っ! 目が辛っ!」
唐辛子系か?
異世界にもあるのか、唐辛子。
いや、考えている場合ではない。
ミミルは俺を拾い上げ、布で包んだ。
「逃げるよ!」
右。
逃げよう。
全力で。
だが、出口は男たちの向こうだ。
扉は破られているが、その前に一人いる。
窓は閉まっている。
ミミルが窓へ走る。
しかし、外から声がした。
「窓側にもいるぞ!」
まだいるのか。
複数犯。
完全に計画的だ。
ミミルの顔が絶望に染まる。
俺は布の中で震えた。
どうする。
どうすればいい。
今の俺にできること。
殻を硬くする。
転がる。
相手を怯ませる震えを出す。
素材の気配を探る。
素材の気配。
俺は工房内の反応を探った。
薬品。
樹脂。
発光石の残り。
魔力安定剤。
補強剤。
刺激粉。
そして、机の下に転がった小瓶。
足止めに使えるものはないか。
あった。
棚の下。
昨日、粘着樹脂を薄めた試作液。
ミミルが床に置いたまま忘れている。
普段なら片づけろと言いたい。
だが、今はその雑さが助かる。
俺は布の中から、棚の方へ必死に震えた。
「棚?」
右。
「何かある?」
右。
ミミルは一瞬だけ迷ったが、俺を抱えたまま棚へ向かった。
男たちが煙の中から出てくる。
「逃がすな!」
ミミルは棚の下の瓶に気づいた。
「粘着樹脂……!」
それだ。
ミミルは瓶を掴み、入口側の床へ投げた。
瓶が割れ、透明な液体が広がる。
そこへ男が踏み込んだ。
「うおっ!?」
足が滑る。
いや、くっつく。
どちらにせよ転んだ。
男は床に膝をつき、動きが止まる。
もう一人も足を取られている。
今だ。
だが、窓側にも誰かいる。
どうする。
その時、外から別の声が聞こえた。
「ギルド巡回だ! 何の騒ぎだ!」
助かった。
巡回。
ギルドの夜間巡回だ。
ミミルが叫ぶ。
「助けてください! 押し入られました!」
外の男が舌打ちした。
「ギルドだ、逃げるぞ!」
「くそっ、卵は?」
「割れたら意味ねえ! 今は引け!」
足音が散る。
窓側の気配も離れていく。
工房内にいた二人のうち、一人は粘着樹脂で転んだままもがいている。
もう一人は煙に紛れて扉から逃げようとした。
だが、外から入ってきたギルド職員に取り押さえられる。
「動くな!」
「ぐっ!」
騒ぎが一気に大きくなった。
ミミルは俺を抱えたまま、その場に座り込んだ。
俺も布の中で震えていた。
怖かった。
本当に怖かった。
ギルド職員が駆け寄ってくる。
「ミミルさん、大丈夫ですか!?」
「わ、私は……エッグが……」
ミミルは俺を布から出した。
俺の殻を見た職員の顔が変わる。
「ひびが広がっている」
そう。
広がった。
俺のステータスは、まだ赤く表示されていた。
================
生命力:2/3
魔力:1/3
ひび割れ率:39%
状態:損傷あり
推奨:安静、回復処置
================
危ないところだった。
ひび割れ率39%。
まだ50%には届いていない。
だが、かなり怖い数字になってきた。
ミミルは震える手で、棚から低級回復薬を取り出した。
「エッグ、今、塗るから」
右。
お願いします。
飲めないので塗ってください。
ミミルは布に回復薬を染み込ませ、俺のひび周辺にそっと当てた。
冷たい。
痛みが少し引く。
================
低級回復薬による外部処置を確認。
生命力:2/3 → 3/3
殻損傷が安定しました。
※ひび割れ率は低下しません。
================
生命力は戻った。
だが、ひび割れ率は戻らない。
まただ。
傷は塞がっても、ひびは残る。
俺は小さく震えた。
怖い。
ひびが増えるのは怖い。
ミミルは俺を抱えたまま、泣きそうな顔をしていた。
「ごめん、エッグ。守れなくて」
左。
違う。
守ってくれた。
ミミルはちゃんと戦った。
目つぶし粉も発光石も粘着樹脂も使った。
俺を素材として渡さなかった。
俺は左へ揺れ続けた。
違う。
ミミルは悪くない。
ギルド職員が、取り押さえた男たちを縛りながら言った。
「残りは逃げました。すぐ応援を呼びます」
男の一人が床で毒づく。
「くそっ、話が違う……卵が動くなんて聞いてねえぞ」
話が違う。
つまり、誰かに話を聞いて来た。
依頼された。
やはり背後がいる。
職員が男を睨む。
「誰に頼まれた」
男は黙った。
もう一人も口を閉ざしている。
わかりやすい。
だが、すぐには吐かないかもしれない。
俺は布の中で、かすかに震えた。
ロイムか。
ヴァルム商会か。
それとも、噂を聞いた別の誰かか。
今はまだわからない。
だが、確かなことが一つある。
俺は、狙われている。
殻片ではなく、本体ごと。
工房の扉は壊れた。
床には割れた瓶。
粉。
粘着樹脂。
木片。
捕まった男たち。
ミミルの工房は、めちゃくちゃだった。
それでも、ミミルは俺を抱えて離さなかった。
「エッグ、怖かったね」
右。
怖かった。
「痛かったね」
右。
痛かった。
「でも、生きてる」
右。
生きてる。
俺はまだ割れていない。
ひびは増えた。
殻は傷ついた。
でも、生きている。
俺はミミルの手の中で、ゆっくり震えた。
割れなかった。
今夜は、それだけで十分だった。




