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第13話 転がる卵は意外と速い



 翌朝。


 俺は木箱の中で、静かに気合いを入れていた。


 今日は、転がる練習の日だ。


 昨日の訓練で、俺は少しだけ曲がれるようになった。


 少しだけ止まれるようにもなった。


 つまり、ただ坂道を暴走する危険物から、多少制御できる危険物へ進化したわけである。


 ……危険物であることに変わりはない。


 俺は小さく震えた。


 自分で転がる力。


 俺のステータスでは《転殻》と表示されている。


 だが、それを知っているのは俺だけだ。


 ミミルから見れば、俺が頑張って転がっているだけ。


 受付嬢から見ても、短距離の自力移動。


 ガルドから見れば、妙に根性のある卵。


 それでいい。


 俺の中に表示されるスキル名や数値を、他人が当然のように知っていたら怖い。


 俺は俺の中だけで確認する。


 外の世界には、外から見えることだけを出す。


 卵にも情報管理は必要である。


 ミミルは朝食代わりの固いパンをかじりながら、昨日の観察記録を見返していた。


「エッグ、今日は工房の中で練習しようね」


 右。


 外は危ない。


「机から落ちないように、床で」


 右。


 机は危ない。


 昨日の訓練場では布壁があった。


 今日は工房の中なので、ミミルが床に厚い布を広げている。


 さらに、周囲に丸めた毛布を置く。


 卵用訓練場、工房版。


 見た目は完全に赤ちゃん用の遊び場である。


 俺は卵なので、文句は言えない。


 いや、文句はある。


 でも安全には代えられない。


 ひび割れ率は現在32%。


 まだ危険域ではないが、無茶をすれば上がるかもしれない。


 死んだら終わり。


 少なくとも、今の俺には死んでも復活できるような都合のいい力はない。


 ステータスにも、そんな救済スキルは表示されていない。


 割れれば、それで終わり。


 そう考えるのが普通だ。


「まずは、まっすぐ転がって止まる練習」


 右。


 了解。


 ミミルは俺を布の端に置いた。


 俺は殻の内側に意識を向ける。


 重心を前へ。


 ころ。


 ころころ。


 止まれ。


 止まれ。


 ぽふ。


 毛布に当たった。


 失敗。


「ちょっと行きすぎたね」


 左。


 ちょっとではない。


 俺はまた元の位置に戻される。


 再挑戦。


 ころ。


 ころ。


 今度は途中で右へ重心をずらす。


 軌道が曲がる。


 速度が落ちる。


 止まった。


 おお。


 昨日より少し良い。


「今のよかった!」


 右。


 俺もそう思う。


 ミミルは記録する。


『直進後、斜めに重心をずらすと止まりやすい』

『円を描くように減速』

『勢いが強い時は毛布に逃がす』


 ちゃんと観察記録になっている。


 スキル名は書かない。


 ミミルが見てわかるのは、俺がどう動いたかだけ。


 俺が何というスキルを持っているかではない。


 こういう記録なら自然だ。


 俺は少し安心した。


 その後も何度も転がった。


 まっすぐ。

 右へ曲がる。

 左へ曲がる。

 止まる。

 止まれず毛布へ突っ込む。


 ぽふ。


 ぽふ。


 ぽふ。


 何度も毛布に当たる。


 痛くはない。


 だが、少し情けない。


 俺はだんだん、自分の内側の重みを感じられるようになってきた。


 卵の中身。


 それを傾ける。


 押し出す。


 引き戻す。


 不思議な感覚だ。


 前世の身体にはなかった。


 手足の筋肉ではなく、殻の中の重心を動かす。


 たぶん、これが《転殻》の本質なのだろう。


================


《転殻 Lv1》の制御精度がわずかに上昇しました。

《微振動 Lv2》との連動率が上昇しました。


================


 連動率。


 つまり、《微振動》と組み合わせると、もっと細かく動けるということか。


 俺は試しに、転がる前に細かく震えてみた。


 ぶるる。


 殻の接地面が微妙に揺れる。


 ころ。


 お。


 少しだけ、出だしが滑らかになった。


 勢いをつけすぎずに転がれる。


 これは使える。


 俺はもう一度やってみる。


 細かく震える。

 少しだけ転がる。

 減速。


 ころ。


 ころ。


 ぴたり。


 止まった。


 完璧。


 俺は得意げに震えた。


「今のすごい!」


 ミミルが目を輝かせる。


「震えてから転がると、動きやすいの?」


 右。


 そう。


「じゃあ、細かい震えで位置を整えてから、大きく転がる感じ?」


 右。


 今回はかなり合っている。


 ミミルはスキル名を当てたわけではない。


 俺の動きを見て、現象を言葉にしただけだ。


 それなら自然だ。


 ミミルは嬉しそうに記録する。


『細かい震え+転がり移動』

『出だしが安定』

『短距離移動に有効』

『平地でも少し動ける可能性』


 平地でも少し動ける。


 それは大事だ。


 坂道がなくても動けるなら、逃げる選択肢が増える。


 俺は床の上で、細かい震えだけを使ってみた。


 ぶるる。


 ほんの少し。


 体が前へずれた。


 ほんの少しだ。


 アリの方が速い。


 だが、ゼロではない。


 俺は震えた。


 感動で。


 ミミルが口元を押さえる。


「動いた……!」


 右。


 動いた。


 俺は自力で、ほんの少しだけ動いた。


 誰かに転がされるのではなく。

 坂道に任せるのでもなく。

 自分の意思で、前へ進んだ。


 たった数センチ。


 それでも、俺にとっては大事件だった。


================


平地移動を確認しました。

《微振動 Lv2》の熟練度が上昇しました。

《転殻 Lv1》の熟練度が上昇しました。


================


 よし。


 確実に成長している。


 俺はもう少しだけ進もうとした。


 ぶるる。


 ずり。


 ぶるる。


 ずり。


 遅い。


 ものすごく遅い。


 だが、進む。


 ミミルは黙って見守っていた。


 俺が自分で進んでいることを、ちゃんとわかってくれているのだろう。


 木箱から机の脚まで。


 距離にして、たぶん三十センチほど。


 俺はそこまで進むのに、かなり時間をかけた。


 息が切れる。


 いや、息はしていない。


 でも疲れた。


 卵なのに疲れる。


 世界は理不尽だ。


 ようやく机の脚にたどり着いた時、ミミルが小さく拍手した。


「すごいよ、エッグ」


 俺は右へ揺れたかった。


 だが、疲れて少ししか動けなかった。


 ぶる。


「疲れた?」


 右。


 とても。


 ミミルは笑って、俺をそっと布の上に戻した。


「今日はここまでにする?」


 俺は迷った。


 まだできる。


 もう少し練習したい。


 だが、無理は禁物。


 ひび割れ率は上がっていない。


 ここで調子に乗ると、たぶん良くない。


 俺は右へ揺れた。


 ここまで。


 ミミルは頷く。


「うん。無理しないの大事」


 その通り。


 無理しないの大事。


 前世の俺に聞かせたい。


 昼過ぎ。


 訓練を終えた俺は、木箱の中で休んでいた。


 ミミルは補強剤の道具を片づけ、観察記録をまとめている。


 工房は静かだった。


 昨日までの緊張が少しだけ和らいだように感じる。


 ロイムはまだ怖い。


 ヴァルム商会も怖い。


 だが、俺は少しだけ自分で動けるようになった。


 それだけで、心が軽くなる。


 そんな時だった。


 窓の外で、かすかな音がした。


 こつ。


 石が転がるような音。


 俺は木箱の中で意識を向けた。


 工房の裏手。


 誰かがいる。


 足音は小さい。


 だが、草を踏む気配がある。


 ミミルは気づいていない。


 彼女は記録に集中している。


 俺は小さく震えた。


 ぶる。


「エッグ?」


 ミミルが振り返る。


 俺は窓の方へ体を傾けた。


「窓?」


 右。


 ミミルの表情が変わる。


 彼女は静かに立ち上がり、窓へ近づいた。


 だが、すぐには開けない。


 偉い。


 少しだけ隙間から外を覗く。


「……誰もいない」


 左。


 いや、いた。


 今はいないだけかもしれない。


 俺はまだ窓の方を向いて震える。


 ミミルは小声で言った。


「誰かいた?」


 右。


「見張り?」


 わからない。


 俺は少し迷って、右へ小さく揺れた。


 可能性はある。


 ミミルは顔をこわばらせた。


「ロイムさんの関係者……?」


 それもわからない。


 俺は動かなかった。


 断定はできない。


 扉越しに声を聞いただけのロイム本人と、外で見えたかもしれない誰か。


 それを直接つなげる証拠はない。


 でも、今の状況で楽観するのも違う。


 ミミルは少し考えてから、窓の鍵を確認した。


 そして、カーテン代わりの布をかける。


「今日は外に出ない方がいいね」


 右。


 そう思う。


 せっかく少し落ち着いたのに、また不安が戻ってきた。


 誰かが工房の周りを見ている。


 ただの通行人かもしれない。


 子供かもしれない。


 だが、ロイムの件がある以上、何でもないとは言い切れない。


 ミミルは扉の鍵も確認し、棚の奥の殻片箱をさらに奥へ押し込んだ。


 その手は少し震えていた。


 俺は木箱から、少しだけ自力で動こうとした。


 ぶるる。


 ずり。


 ミミルの方へ。


「エッグ?」


 俺はゆっくり、ゆっくり進む。


 数センチ。


 数センチ。


 それだけで疲れる。


 だが、今は近づきたかった。


 ミミルが俺の意図に気づいたのか、しゃがみ込む。


「来てくれたの?」


 右。


 来た。


 めちゃくちゃ遅いけど。


 ミミルは俺をそっと両手で包んだ。


「ありがとう」


 右。


 どういたしまして。


 夕方まで、工房に異変はなかった。


 だが、ミミルは落ち着かなかった。


 何度も外を気にする。


 記録を書いていても、筆が止まる。


 俺も窓の方が気になった。


 自力で動けるようになったとはいえ、今の速度では逃げ切れない。


 もし本当に誰かが押し入ってきたら?


 俺にできることは何か。


 殻を硬くする。

 細かく震える。

 転がる。

 相手を怯ませる嫌な震えを出す。


 俺の中では、それぞれにスキル名がある。


 だが、外の世界でできることとしてはそれだけだ。


 できることは増えた。


 だが、まだ足りない。


 ミミルを守れるほど強いかと言われれば、答えは微妙だ。


 俺は木箱の中で、小さく震えた。


 強くなりたい。


 でも、割れたくない。


 その二つを同時に叶えるのは難しい。


 夜。


 ミミルはいつもより早く灯りを落とした。


「今日は早めに寝よう」


 右。


 それがいい。


 だが、俺は眠れる気がしなかった。


 工房の外。


 闇。


 見えない誰か。


 ヴァルム商会。


 ロイム。


 いろいろな不安が、殻の中でぐるぐる回っている。


 深夜。


 小さな音がした。


 かちゃ。


 俺は即座に意識を取り戻した。


 扉の方。


 鍵のあたり。


 かちゃ。


 また音がする。


 誰かが、外から鍵をいじっている。


 ミミルは寝ている。


 俺は木箱の中で固まった。


 怖い。


 だが、動かなければならない。


 俺はゆっくり震えた。


 ぶる。


 足りない。


 ミミルは起きない。


 もっと強く。


 ぶるぶる。


 まだだ。


 鍵の音が続く。


 かちゃ。


 かちゃ。


 俺は木箱の中で、近くの小瓶を見た。


 机の端に置かれた、空の小瓶。


 床まで距離がある。


 だが、机は低い。


 昨日より殻は硬い。


 俺は木箱の縁へ体を寄せた。


 怖い。


 落ちたらひびが広がるかもしれない。


 でも、ミミルを起こさなければ。


 俺は殻の表面を固めるように意識した。


 そして、木箱の縁から転がった。


 ごろ。


 机の上へ。


 小瓶へ向かって。


 ころ。


 小瓶にぶつかる。


 からん。


 小瓶が転がる。


 机の端。


 落ちる。


 ぱりん!


「……っ!」


 ミミルが飛び起きた。


 よし。


 起きた。


 扉の外の音が止まる。


 ミミルが慌てて灯りをつける。


「エッグ!? 何!?」


 俺は扉の方へ体を向けて、全力で震えた。


 ぶるぶるぶる。


 ミミルの顔から眠気が消えた。


 扉。


 鍵。


 かすかな気配。


 彼女も気づいた。


「……誰かいる」


 俺は右へ揺れた。


 その瞬間。


 扉の向こうから、低い声が聞こえた。


「気づかれた」


 もう一人の声。


「構わねえ。開けろ」


 ミミルの顔が青ざめる。


 俺は木箱の外、机の上で震えた。


 深夜。


 鍵を開けようとする音。


 扉の向こうにいる複数の男。


 とうとう来た。


 俺は殻の表面を固めた。


 割れるな。


 今だけは、絶対に。



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