第11話 ロイムは諦めない
翌朝。
俺は木箱の中で、いつもより早く意識を取り戻した。
いや、卵に睡眠時間があるのかは知らない。
ただ、昨夜からずっと落ち着かなかった。
ヴァルム商会。
担当者。
昨日、扉の向こうから聞こえた「明日改めてご説明に伺います」という言葉。
あれが頭から離れない。
俺は木箱の中で小さく震えた。
ぶる。
ミミルも、今日は朝から表情が硬かった。
扉の鍵を確認する。
窓の鍵を確認する。
棚の奥にしまった殻片の箱を確認する。
そして、机の引き出しに入れた返答文を確認する。
完全に警戒態勢だ。
「エッグ、今日はまずギルドに行くね」
右。
それがいい。
「昨日の手紙と、使いが来たことを報告する」
右。
「それから、できれば返答文もギルドを通して出す」
右。
完璧だ。
少なくとも、自分たちだけで対応するよりずっといい。
相手は大きな素材商会。
見習い錬金術師と卵だけで対応するには、かなり厳しい。
俺は昨日の補強剤が乾いた殻の感覚を確かめる。
防御力は4。
初期よりかなり硬くなった。
だが、まだ安心できるほどではない。
もし人間に蹴られたら?
もし袋に入れて持ち去られたら?
もし、無理に殻を削られたら?
考えただけで寒気がする。
卵に寒気があるのかは不明だが、気分としては完全に寒い。
ミミルは俺を籠に入れた。
今日は布がさらに多い。
ほぼ巣である。
エッグ専用防御仕様。
ありがたい。
工房を出る前に、ミミルは深呼吸した。
「大丈夫。ギルドに相談すれば大丈夫」
俺は右へ揺れた。
そうだ。
一人で抱え込まない。
それが大事だ。
前世の俺は、たぶんそれが下手だった。
何でも自分で抱えて、断れず、頼れず、気づいた時には限界だった。
今は違う。
俺には喋れない。
手も足もない。
だが、右と左に揺れることはできる。
ミミルがいる。
受付嬢もいる。
頼れる相手がいるなら、頼ればいい。
そう思った時だった。
工房の扉が叩かれた。
こん。
こん。
丁寧な音。
俺は固まった。
ミミルも動きを止めた。
まだ朝だ。
ギルドに行く前。
こちらが動く前に、向こうが来た。
扉の向こうから、穏やかな男の声が聞こえた。
「おはようございます、ミミル様。ヴァルム商会のロイムと申します」
ロイム。
その名前を聞いた瞬間、俺の殻の奥がざわついた。
昨日の使いが言っていた担当者。
ヴァルム商会の買付責任者。
俺の殻片を欲しがっている相手。
ミミルは俺を見る。
俺は即座に左へ揺れた。
開けるな。
だが、扉越しに話を無視するわけにもいかない。
ミミルは扉に近づきすぎない位置で言った。
「ご用件は、ギルドを通してくださいと昨日お伝えしました」
声が少し震えている。
だが、ちゃんと言えている。
扉の向こうの男、ロイムは、まったく気分を害した様子もなく答えた。
「もちろん、その件についても承知しております。ただ、正式なご挨拶もなく書面だけでお話を進めるのは、かえって失礼かと思いまして」
丁寧。
ものすごく丁寧。
だが、言っていることは押しが強い。
ミミルは扉を開けないまま答える。
「今は対応できません」
「ほんの少しだけで構いません。こちらとしても、誤解のないよう説明したいのです」
誤解。
便利な言葉だ。
相手が嫌がっているのに、誤解を解くためと言って近づいてくる。
俺は左へ揺れ続けた。
絶対に嫌だ。
ミミルは深呼吸した。
「ギルドに相談してからでないと、話せません」
少し沈黙。
その後、ロイムの声が少しだけ低くなった。
「ミミル様。失礼ながら、ギルドを通すと話が大きくなりすぎます。私どもは、あなたの研究を支援したいだけなのです」
研究を支援。
またそれだ。
良い言葉で包んでくる。
ミミルは黙った。
その沈黙を、ロイムは逃さなかった。
「素材費にお困りではありませんか?」
ミミルの肩がぴくりと動く。
ロイムは続ける。
「工房の設備も、十分とは言えないようにお見受けします。薬草の仕入れ、器具の更新、販路の確保。見習いの方が一人で背負うには、少々重いのではありませんか」
嫌なところを突いてくる。
ミミルの工房は裕福ではない。
器具も古い。
材料も足りない。
依頼報酬も少ない。
それは事実だ。
だが、だからといって俺を差し出す理由にはならない。
俺は強く震えた。
ぶるぶる。
ミミルが俺を見た。
それだけで、少し表情が戻る。
「……必要なら、ギルドに相談します」
「ギルドは公平です。しかし、公平であるがゆえに、個人の成長を十分に支援できないこともあります」
うまいことを言う。
だが、うまいことを言う奴ほど危ない。
前世でもそうだった。
あなたのため。
成長のため。
将来のため。
その言葉で、どれだけ余計な仕事を抱えさせられたか。
ロイムはさらに続けた。
「私どもヴァルム商会は、価値ある素材を正しく評価します。ミミル様の技術も、あの卵の可能性も、正当に扱いたいのです」
あの卵。
俺のことだ。
やはり、名前では呼ばない。
エッグではなく、あの卵。
素材として見ている。
ミミルの手が籠の持ち手を握る。
「エッグは素材じゃありません」
おお。
言った。
ミミルは続ける。
「私の従魔で、相棒です」
相棒。
その言葉に、俺は思わず右へ揺れた。
めちゃくちゃ右。
ロイムは少しだけ間を置いた。
「もちろん、尊重いたします。ですからこそ、適切な管理と保護が必要だと申し上げているのです」
管理。
出た。
その言葉、嫌いだ。
扉の向こうで紙を取り出す音がした。
「本日は契約書の草案もお持ちしております。扉越しでは詳細をご説明できませんので、どうか一度だけでもお話を」
俺は左へ揺れた。
強く。
何度も。
ミミルは俺を見て、頷いた。
「お断りします」
扉の向こうが静かになった。
ミミルの声は、今度ははっきりしていた。
「契約はしません。殻片も売りません。研究支援も受けません。今後の連絡はギルドを通してください」
言い切った。
偉い。
かなり偉い。
俺は右へ揺れた。
ロイムは、しばらく何も言わなかった。
だが、やがて小さく息を吐く音がした。
「……残念です」
穏やかな声。
だが、先ほどまでの柔らかさとは少し違う。
「価値あるものは、価値を理解する者の下で管理されるべきです」
その言葉に、俺の殻がざわついた。
管理。
価値。
理解。
全部、嫌な響きだ。
ロイムは丁寧に続ける。
「ミミル様。あなたが情を持つことは否定しません。しかし、情だけでは価値を守れないこともあります」
ミミルは黙っている。
「その卵は、あなたの手に余る可能性があります」
俺は震えた。
怒りか、恐怖か、自分でもわからない。
ロイムは最後に言った。
「また改めて伺います」
足音が遠ざかる。
一人分。
いや、違う。
外には他にも気配があった。
護衛か、使いか。
複数の足音が、ゆっくりと離れていく。
完全に消えるまで、ミミルは動かなかった。
俺も動かなかった。
しばらくして、ミミルがへなへなと椅子に座り込む。
「……怖かった」
右。
怖かった。
めちゃくちゃ怖かった。
ミミルは俺の籠を抱き寄せた。
「エッグ、ごめん。もっと早くギルドに行ってれば」
左。
それは違う。
悪いのは向こうだ。
ミミルはちゃんと断った。
俺は籠の中で、ミミルの方へ体を傾けた。
ミミルは少し驚いて、それから小さく笑った。
「慰めてくれてる?」
右。
そうです。
卵なりに。
しばらくして、俺たちは改めてギルドへ向かった。
ミミルは扉を開ける前に、通りを何度も確認した。
誰もいない。
だが、安心はできない。
ヴァルム商会のロイムは、また来ると言った。
それは脅しに近い。
ギルドに着くと、受付嬢がすぐに異変に気づいた。
「ミミルさん? 顔色が悪いですが」
ミミルは、今朝のことを説明した。
ロイムが来たこと。
契約書を持っていたこと。
ギルドを通すよう伝えても、直接説明しようとしたこと。
殻片も研究支援も断ったこと。
最後に「また改めて伺います」と言われたこと。
受付嬢の表情は、話が進むほど厳しくなっていった。
「……直接訪問しましたか」
「はい」
「昨日の時点で、ギルドを通すよう伝えていたのですよね?」
「はい」
受付嬢はすぐに記録を取り始めた。
「わかりました。正式に記録します」
ありがたい。
記録。
証拠。
こういう時、ちゃんと書き残すのは大事だ。
前世でも大事だった。
まあ、前世の俺はそれをやる余裕がなくてよく損をしたが。
受付嬢は続ける。
「返答文はこちらで預かります。ギルド経由でヴァルム商会へ送付します」
「お願いします」
「また、ミミルさんとエッグさんに対し、直接取引を求める接触があった場合はすぐ報告してください」
ミミルは頷いた。
俺も右へ揺れた。
受付嬢は俺の反応を見て、少しだけ表情を和らげた。
「エッグさんも嫌がっている、と記録しておきます」
大事。
めちゃくちゃ大事。
俺の意思。
それが記録される。
ただの素材ではないという証拠になる。
受付嬢は書類に追記した。
================
登録従魔:エッグ
特記事項:意思表示あり。本人同意あり。
殻片および身体由来素材の継続取引を拒否。
所有者ミミルおよび従魔エッグ双方が、ヴァルム商会との直接取引を希望しない旨を確認。
================
よし。
かなりよし。
受付嬢はさらに言った。
「ただ、現時点では契約を断られただけとも言えます。ギルドが強制的に商会を処分するには、まだ証拠が足りません」
そこはわかる。
腹は立つが、わかる。
「ですが、今後も接触が続くようなら問題になります。特に、従魔本人が嫌がっている身体由来素材の取引を強く求めるのは、ギルド規約上も注意対象です」
従魔本人。
俺のことだ。
本人扱い。
ちょっと嬉しい。
卵本人。
意味は変だが、嬉しいものは嬉しい。
ギルドで報告を終えたあと、ミミルは少しだけ素材販売所で補強剤の材料を買い足した。
お金はあまり使えない。
だが、昨日の補強剤四号は悪くなかった。
もう少し改良すれば、《殻硬化》を習得できるかもしれない。
工房へ戻ると、ミミルは扉を閉め、鍵をかけた。
そして、机の上に材料を並べる。
「エッグ。今日はもう外に出ないで、殻の補強を進めよう」
右。
賛成だ。
防御力を上げたい。
今朝のロイムとのやり取りで、その気持ちはさらに強くなった。
言葉で守る。
記録で守る。
ギルドに頼る。
それも大事。
だが、最後に自分を守るのは、自分の硬さかもしれない。
俺は卵だ。
物理的な硬さ、大事。
ミミルは補強剤四号をベースに、さらに調整を始めた。
鉱石粉を少し増やす。
樹脂を薄める。
魔力安定剤をほんの少し。
薬草粉は少なめ。
試作品を石に塗る。
乾かす。
叩く。
割れない。
次に鳥の卵殻で試す。
押す。
少し耐える。
「昨日よりいいかも」
ミミルの顔に集中が戻っている。
怖いことがあったあとでも、彼女は手を動かす。
それがミミルの強さなのかもしれない。
「エッグ、少しだけ試していい?」
右。
頼む。
ミミルは俺の殻に、補強剤を薄く塗った。
今度はさらに均一だ。
冷たさのあと、じんわりと外側が締まる感覚。
昨日より、殻と補強剤が馴染む。
================
外殻補強効果を確認しました。
防御力:4 → 5
《殻硬化》習得率:76%
================
防御力5。
かなり上がった。
ひび割れ卵としては、だいぶ頑丈になったのではないか。
いや、まだ卵だ。
過信は危険。
だが、嬉しい。
俺は震えた。
ぶるぶる。
ミミルが笑う。
「成功?」
右。
かなり成功。
「よかった……」
ミミルは心底ほっとしたように息を吐いた。
たぶん、今朝のことが怖かったのだ。
俺を守りたい。
でも、どう守ればいいかわからない。
その不安を、補強剤の作業にぶつけているのかもしれない。
俺も同じだ。
怖いから、硬くなりたい。
割れないように。
奪われないように。
夕方。
ミミルは補強剤の記録をまとめていた。
『補強剤五号』
『防御上昇』
『厚塗り禁止』
『ひび周囲は避ける』
『エッグの反応良好』
『殻硬化の兆候あり』
殻硬化の兆候。
そう。
あと少しだ。
俺は木箱の中で、殻の表面に意識を向けた。
硬くなる。
外からの衝撃に耐える。
割れない。
自分の殻を、自分で守る。
そんなイメージ。
ぶる。
殻の奥で何かが動いた。
黒竜の血とは違う。
魔力というより、身体の使い方に近い。
殻の表面を固める感覚。
外側に力を集める感覚。
俺はもう一度、強く意識した。
硬くなれ。
割れるな。
================
条件を達成しました。
通常スキル《殻硬化 Lv1》を獲得しました。
防御力:5
================
来た。
《殻硬化》。
ついにスキルとして獲得した。
俺は思わず強く震えた。
木箱ががたがた鳴る。
「エッグ!?」
ミミルが驚いて駆け寄る。
「どうしたの? 痛い?」
左。
「苦しい?」
左。
「いいこと?」
右。
ミミルは少し考えた。
「もしかして、殻を硬くするの、できるようになった?」
右。
今回はわりとすぐ当たった。
まあ、ずっと殻硬化の練習をしていたので自然だ。
ミミルは目を輝かせた。
「やった……!」
俺も嬉しかった。
まだ弱い。
まだ卵。
でも、防御力は上がった。
スキルも得た。
これで少しだけ、自分を守れる。
ミミルは嬉しそうに俺の殻を撫でようとして、途中で手を止めた。
「触っていい?」
右。
もちろん。
ミミルの指が、そっと殻に触れる。
「昨日より硬い」
右。
硬くなりました。
「でも、無理に叩いたりしないからね」
右。
それは本当にお願いします。
夜。
工房は静かだった。
今朝のロイムの訪問が嘘のように、何も起こらない。
だが、安心はできない。
ロイムはまた来ると言った。
ヴァルム商会は、俺の殻片を欲しがっている。
俺がどれだけ嫌だと左へ揺れても、価値あるものは管理されるべきだと言う人間はいる。
だから、守る手段が必要だ。
ギルドの記録。
ミミルの拒否。
俺自身の意思表示。
そして、《殻硬化》。
少しずつ、守るものが増えている。
俺はステータスを確認した。
================
種族:竜血卵
種族ランク:F
レベル:4/5
ひび割れ率:32%
生命力:3/3
魔力:3/3
攻撃力:0
防御力:5
敏捷:0
知力:8
運:1
固有スキル:
《孵化未遂 Lv1》
《因子吸収 Lv1》
通常スキル:
《殻籠り Lv1》
《微振動 Lv2》
《威嚇振動 Lv1》
《竜血鼓動 Lv1》
《微弱竜威 Lv1》
《魔力吸収 Lv1》
《素材感知 Lv1》
《転殻 Lv1》
《殻硬化 Lv1》
称号:
《転生者》
《孵化不全》
《廃棄された卵》
《拾われた卵》
《役に立った卵》
《便利な卵》
================
防御力5。
数字だけ見れば、少し安心できる。
だが、ひび割れ率は32%。
減ってはいない。
俺は硬くなったが、ひび割れたままだ。
強くなっても、傷が消えるわけではない。
それが少しだけ、今の俺らしい気がした。
ミミルは机に突っ伏しそうになっていた。
記録を書きながら眠りかけている。
まただ。
俺は木箱の中で震えた。
ぶるぶる。
「ん……?」
ミミルが顔を上げる。
俺は左へ揺れた。
机で寝るな。
「まだ少しだけ……」
左。
駄目です。
「エッグ、厳しい……」
右。
厳しいです。
ミミルは苦笑して、記録を閉じた。
「わかった。寝る」
よろしい。
俺は右へ揺れた。
ミミルは寝床に向かう前に、扉の鍵をもう一度確認した。
そして、俺の木箱のそばへ来る。
「エッグ、今日は怖かったね」
右。
「でも、ちゃんと断れた」
右。
「エッグも、硬くなった」
右。
ミミルは小さく笑った。
「明日も、ちゃんとギルドに報告しよう。何かあったら、一人で決めない」
右。
それがいい。
ミミルは灯りを消した。
工房が暗くなる。
俺は木箱の中で、殻の表面を固める感覚をもう一度確かめた。
《殻硬化》。
小さな防御。
でも、今の俺には大きな一歩。
ロイムは諦めないかもしれない。
ヴァルム商会も、まだ引かないかもしれない。
それでも。
俺も、簡単には割れない。
そう思いながら、俺は静かに震えを止めた。




